妖精王の愛し子たち
悠井すみれ
魔王の贄たち
息子よ、我が息子よ、起きるのだ。
どうした。王の子、魔王を
いや、詫びるには及ばない。そなたはまだ幼いのだから。だが、夢の国から目覚めたならば、父の姿を認めたならば、闇を恐れることはあるまいな? さあ、この手を取るが良い。共に夜の散歩に出かけよう。今宵は母も従者も伴わぬ。父とそなたのふたりきりだ。
何を心配するというのだ? 魔王も亡き今、この地上にそなたの父を害せる者もおるまいに。そう──そうだ、その勇敢さ、それでこそ我が子だ。どうしてこのように密かに城を抜け出すのかは、
そなたは父がいかにして玉座とそなたの母を得たかを知っているな。そうだ、魔王を屠った褒美に、そなたの祖父が与えた。あるいは、地上に平和をもたらした勇者が長く世を治めることを民が望んだのだ。
それでは、さらにその前についてはどうだ? ──賢い子だ。そなたの父の生い立ちは、吟遊詩人の歌にも名高い。宴や祭りのたびに歌われるのを、
妖精の王は麗しい子らを養い
王の宝石の目に選ばれし子ら 楽園に迎えられた幸運な子らを
子らの耳には守りの歌を いと
黄金の髪を冠と
子らが強く賢くあるように 楽園を守る騎士たるべく
こよなき愛と慈しみもて 妖精の王は導き
ああ、幼い歌声の愛らしいこと。我の育った楽園では、日々澄んだ声が唱和したものだ。この世のあらゆる美を、ことに父なる麗しの王を
夢物語などではあるものか。そなたの父の剣は竜をも両断し、そなたの母の歌は傷も
それに、ほら──間もなく到着するぞ。我が父、我が麗しの王の楽園の、その
そなたの目も、そろそろ闇に馴染んだころではないか? どうだ、星あかりのもとでも分かるだろう? あの泉で我らは遊び、あの
父と手を繋いでいるのに、なぜ足を止める? ああ、楽園という割には朽ちているのが不審だというのだな? 無理もない、あれからもう十余年が過ぎている。王が築いた夢の園といえど、壁崩れ苔むすには十分な年月ということなのだろう。
ほら、この宮殿の床も見事な細工だろう。勇者の息子よ、
勇者の息子よ、そなたは本当に
そなたの父はこの場で戦ったのであろうか。では、何者と? 答えはすでに悟っているのではないか、聡い子よ。十余年前といえば、ちょうどそなたの父が魔王を屠ったころであろう?
いいや、我は道を誤ってなどいない。我は確かにそなたを正しい場所に導いたぞ、勇者の子よ。ここは、妖精の王がそなたの父を育んだ楽園、その
……そなたの父の姿をした者に、どうして何者か、などと問うのだ、勇者の子よ。人の子なりに目を凝らせ。そなたの記憶にある父の姿と、どれほどの違いがあるというのだ? そうだ、この髪に触れてみるが良い。そなたの母が、戯れにとはいえ羨む艶やかな黒、流れ落ちる絹糸の、しなやかさと滑らかさ。間違いなくそなたの父のものだろう? もっと幼いころに、そなたは
なぜ父の手から逃れようとする? 新月の夜だ、人の目ではどこにも行けぬだろうに。ついて来るのだ、勇者の子よ。話はまだ終わっていないのだから。
魔王が人の子を慈しむはずがない、と? 賢しい理屈が思い浮かぶならば、今一歩進めて考えてもよかろうに。我が父なる王を悪鬼のごとくに貶めたのは人間ではないのか、と。角や牙が生えた姿など絵本の挿絵でしかなかろう。子供に分かりやすいように描いただけ、そなたとて魔王をその目で見たことがある訳ではあるまいに。
我が王は美しく優しかった。先ほど言った言葉に嘘偽りはないぞ。むろん、恐ろしい御方でもあったのだが。だが、それは忌まれるよりも畏怖されるべき類のものだ。
でなければ、兄たちや姉たちが望んで我が身を捧げたはずがない。
ああ、捧げるというのは人間のように仕えるとか従うとかいう意味ではないぞ。言葉通りに、肉体のすべてを王に供するのだ。我らが並みの人より優れた力を持たされたのは、そのように育てられたのは、いずれ王に返す日のためだ。妖精王の愛し子たちは、すなわち王の贄だったのだ。
違う! 口を慎め、勇者の子よ。断じて我らは
年に一度、兄や姉が、ひとりずつ王の寝所に向かうのだ。その翌日に、残された
そなたは
それも違う! 我は誰よりも王を愛し敬っている!
そしてそなたの父も、そなたが憧れる勇者ではないぞ。あの者も、王を愛し敬う贄であった。贄に過ぎなかった──とは言うまいが。それは、人の身にあてはこの上なく価値あることだ。
王に愛されながら王を愛さぬなど、人の身にできるはずもない。我とあの者とは鏡映しだ。
だから我はこの楽園を出た。喰らうことができなかった唯一の贄として、王の心に残るように。惜しみない愛を与えられながら手元を離れた息子のことを、父が常に案じるように。
だからそなたの父は王に剣を向けた。自身の後にも、数知れぬ贄が王に身を捧げる想像に耐えられず、最後のひとりになろうとした。そのために──そんなことのために、我が愛する王は裏切られ
分かるとも。そなたの父の卑小な心根は。民のことなど頭にもない、そなたの母を愛したこともない。愛したのは我が父なる麗しき王だけだ。それが真実、我が王に誓って断言できるぞ。なぜなら本人に聞いたからな。つい先ほど、今宵、そなたを訪ねる前に。
王は、喰らった贄の姿を
いいや、我は王ではない。そのような思い違いもまた不敬だぞ、聡くて愚かで、そして愛らしい勇者の子よ。ふむ、だがこれは我にも非があったな。まだ語り尽くしておらなんだか。
魔王が討ち取られたと聞いて、我はこの楽園に飛んで帰った。何百年ぶりだったか、久方ぶりの故郷の荒れ果てようには涙が止まらなかったものだ。それに、何より──愛しき父の、無残な
首を失ってなお美しい王の
そうして、知ったのだ。王が我らに、慈しまれた贄に与えたのは、まさに王の血だったのだと。吟遊詩人も歌っただろう、楽園の子らには蜜の霊酒が与えられると。それによって力を得るのだと。我らはそれほどに愛されていた。
だから、王の血肉は我の胎内で混ざり合ったのだ。なんと甘美で光栄で悦ばしいことか。そうしてどうなったかは──目を背けるな。俯くな。顔を上げて──見よ。恐ろしいことは何もないのだから。見るのだ、すべてを王に捧げた我が
だからそなたを連れ出したのだ、我が息子よ。父の願いを助けておくれ。そう──そなたの父も
泣くな、喚くなと言っているのに。せっかく王から御言葉を
良い子だ、大人しくなったな。そなたの母も間もなく
ああ、王よ──あの子の身体で、腕を蘇らせてくださいましたか。この身を
一度
叶うことなら、我が脳と心臓を喰らうのは、最後の最後にしてくださいますように。この世の最期の瞬間に、我が王の美しい笑みを見ることができるなら。よくやったと、愛していると囁いていただけるなら。卑小なる我が魂は至福の悦びと共に御身に溶けていくでしょう。
だから、今しばらくはご辛抱を。御身が
妖精王の愛し子たち 悠井すみれ @Veilchen
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