妖精王の愛し子たち

悠井すみれ

魔王の贄たち

 息子よ、我が息子よ、起きるのだ。


 どうした。王の子、魔王をほふった勇者の血を引く者がそのように悲鳴を上げるものではない。空に月の輝かぬ夜だからこそ、見誤ることはないだろう。闇夜にあって闇より深い、この父の黒い髪と黒い瞳を。

 いや、詫びるには及ばない。そなたはまだ幼いのだから。だが、夢の国から目覚めたならば、父の姿を認めたならば、闇を恐れることはあるまいな? さあ、この手を取るが良い。共に夜の散歩に出かけよう。今宵は母も従者も伴わぬ。父とそなたのふたりきりだ。

 何を心配するというのだ? 魔王も亡き今、この地上にそなたの父を害せる者もおるまいに。そう──そうだ、その勇敢さ、それでこそ我が子だ。どうしてこのように密かに城を抜け出すのかは、道々みちみち話して聞かせよう。


 そなたは父がいかにして玉座とそなたの母を得たかを知っているな。そうだ、魔王を屠った褒美に、そなたの祖父が与えた。あるいは、地上に平和をもたらした勇者が長く世を治めることを民が望んだのだ。

 それでは、さらにその前についてはどうだ? ──賢い子だ。そなたの父の生い立ちは、吟遊詩人の歌にも名高い。宴や祭りのたびに歌われるのを、しかと聞いて覚えたのだな。


 妖精の王は麗しい子らを養いたも

 王の宝石の目に選ばれし子ら 楽園に迎えられた幸運な子らを

 子らの耳には守りの歌を いとやわき唇には蜜の霊酒を

 黄金の髪を冠といただく王はそそたも

 子らが強く賢くあるように 楽園を守る騎士たるべく

 こよなき愛と慈しみもて 妖精の王は導きたも


 ああ、幼い歌声の愛らしいこと。我の育った楽園では、日々澄んだ声が唱和したものだ。この世のあらゆる美を、ことに父なる麗しの王をたたえて歌ったのだ。男の子も女の子も、年長のものも幼いものも、誰ひとりとして王を慕わぬものはいなかった。そうだ、きっとそなたが父を慕うように。あるいはそれ以上に。それほどに、我らを育み慈しんだ王は美しく優しかった。


 夢物語などではあるものか。そなたの父の剣は竜をも両断し、そなたの母の歌は傷もやまいも癒すであろう? ならば妖精王の楽園があったとして、何の不思議があろう?

 それに、ほら──間もなく到着するぞ。我が父、我が麗しの王の楽園の、そのに。城を出たばかりとでも思っていたか? 夜も明けず、星の位置さえ変わらぬ間だったというのに? だが忘れるな、そなたの父は妖精王のいとし子なのだ。我が王が教えたまいし御業みわざの中には、馬に影を渡らせる術もあったということだ。


 そなたの目も、そろそろ闇に馴染んだころではないか? どうだ、星あかりのもとでも分かるだろう? あの泉で我らは遊び、あの東屋あずまやで憩い、あの宮殿で集っては眠ったものだ。我が耳には今も聞こえてくるようだ。血の繋がらぬきょうだいたち、人の世には似つかわしくない美しさと賢さだけが似通った、兄や姉や弟や妹の笑い戯れる声が。我らひとりひとりの名を呼んでは抱き締める、父なる王の優しい声が。


 父と手を繋いでいるのに、なぜ足を止める? ああ、楽園という割には朽ちているのが不審だというのだな? 無理もない、あれからもう十余年が過ぎている。王が築いた夢の園といえど、壁崩れ苔むすには十分な年月ということなのだろう。

 ほら、この宮殿の床も見事な細工だろう。勇者の息子よ、往事おうじの姿をそなたに見せたかったものだ。世界の四方の花の姿を、金と銀と真珠と宝石とで描いていたのだ。花弁はなびらを踏み荒らすかのような、無残かつ無粋なあの亀裂は──さて、いかなる天変地異によるものだろうな。あるいは魔物の襲撃か──それとも、人間の?


 勇者の息子よ、そなたは本当にさとい子供だ。そうだな、そなたは父が剣を振るう様を見たこともあるな。取るに足らない貧弱な魔獣ではあったが、そなたが見たいとせがんだゆえに、わざわざ父がとどめを刺したのだ。振りかざせば炎をまとい、振り下ろせば稲妻いなずまが走り地を割る──まことに勇者にふさわしい技であったな?

 そなたの父はこの場で戦ったのであろうか。では、何者と? 答えはすでに悟っているのではないか、聡い子よ。十余年前といえば、ちょうどそなたの父が魔王を屠ったころであろう?


 いいや、我は道を誤ってなどいない。我は確かにそなたを正しい場所に導いたぞ、勇者の子よ。ここは、妖精の王がそなたの父を育んだ楽園、その名残なごり。そして同時に、魔王と勇者が剣を交えた戦場の跡。まだ分からぬか? 両者は同じ場所なのだ。ならばこれも道理であろう──そなたが魔王と教えられたのは、すなわち父を愛しんだ妖精の王、その人なのだ。そなたの父は、養い親をその手にかけた忘恩の徒、唾棄すべき大罪人という訳だ!


 ……そなたの父の姿をした者に、どうして何者か、などと問うのだ、勇者の子よ。人の子なりに目を凝らせ。そなたの記憶にある父の姿と、どれほどの違いがあるというのだ? そうだ、この髪に触れてみるが良い。そなたの母が、戯れにとはいえ羨む艶やかな黒、流れ落ちる絹糸の、しなやかさと滑らかさ。間違いなくそなたの父のものだろう? もっと幼いころに、そなたは不遜ふそんにも馬のたてがみのように引っ張ったのだろう? さあ、触れてみるが良い。


 なぜ父の手から逃れようとする? 新月の夜だ、人の目ではどこにも行けぬだろうに。ついて来るのだ、勇者の子よ。話はまだ終わっていないのだから。


 魔王が人の子を慈しむはずがない、と? 賢しい理屈が思い浮かぶならば、今一歩進めて考えてもよかろうに。我が父なる王を悪鬼のごとくに貶めたのは人間ではないのか、と。角や牙が生えた姿など絵本の挿絵でしかなかろう。子供に分かりやすいように描いただけ、そなたとて魔王をその目で見たことがある訳ではあるまいに。

 我が王は美しく優しかった。先ほど言った言葉に嘘偽りはないぞ。むろん、恐ろしい御方でもあったのだが。だが、それは忌まれるよりも畏怖されるべき類のものだ。


 でなければ、兄たちや姉たちが望んで我が身を捧げたはずがない。


 ああ、捧げるというのは人間のように仕えるとか従うとかいう意味ではないぞ。言葉通りに、肉体のすべてを王に供するのだ。我らが並みの人より優れた力を持たされたのは、そのように育てられたのは、いずれ王に返す日のためだ。妖精王の愛し子たちは、すなわち王の贄だったのだ。


 違う! 口を慎め、勇者の子よ。断じて我らはあざむかれてなどいなかった。兄も姉も妹も弟も、誰もがおのれの命の意味と価値を正しく理解していた。我が王に選ばれ愛され磨き抜かれて整えられた、おのが血肉の尊さを。

 年に一度、兄や姉が、ひとりずつ王の寝所に向かうのだ。その翌日に、残された弟妹きょうだいはその者が王とひとつになったのを知る。王の髪のひと房に、瞳に潜む煌めきに、眩い肌のひと欠片かけらに──確かに兄や姉たちの面影がいるのが見えるのだ。王は、糧にした子らを誰ひとりとして忘れずにその身にとどめてくださったのだ。人など幾らでも食い散らかせように、贄の姿など顧みずとも良かろうに。それほどの愛を注がれると知ればこそ、我らも王を心から愛し敬ったのだ。


 そなたはまさしく勇者の血を引いているな、人の子よ。歯の響かせるほどに震えながら、口をつぐもうとはしないとは。そうだ、我もこの楽園で育まれた。そなたの父と同様に。にもかかわらず我はこうしてここにる。贄となるのを恐れて逃げのだ、などと──この口が、生意気にも申したのか?


 それも違う! 我は誰よりも王を愛し敬っている!


 そしてそなたの父も、そなたが憧れる勇者ではないぞ。あの者も、王を愛し敬う贄であった。贄に過ぎなかった──とは言うまいが。それは、人の身にあてはこの上なく価値あることだ。

 王に愛されながら王を愛さぬなど、人の身にできるはずもない。我とあの者とは鏡映しだ。数多あまたの麗しい兄弟の中、贄の中のたったひとりに埋もれることが、どうにも受け入れられなんだ。王の愛の尊さをよくよく承知したうえで、きょうだいたちから抜きん出たかった。特別な唯一に、なりたかった。


 だから我はこの楽園を出た。喰らうことができなかった唯一の贄として、王の心に残るように。惜しみない愛を与えられながら手元を離れた息子のことを、父が常に案じるように。

 だからそなたの父は王に剣を向けた。自身の後にも、数知れぬ贄が王に身を捧げる想像に耐えられず、最後のひとりになろうとした。そのために──そんなことのために、我が愛する王は裏切られおとしめられてしいされた!


 分かるとも。そなたの父の卑小な心根は。民のことなど頭にもない、そなたの母を愛したこともない。愛したのは我が父なる麗しき王だけだ。それが真実、我が王に誓って断言できるぞ。なぜなら本人に聞いたからな。つい先ほど、今宵、そなたを訪ねる前に。


 王は、喰らった贄の姿をとどめると言ったであろう? かつては、あの御方は兄や姉たちの面影だけを纏ったものが。その気になれば、あるいは必要があれば、贄の姿そのものをなぞることも何ら難しいことではない。

 いいや、我は王ではない。そのような思い違いもまた不敬だぞ、聡くて愚かで、そして愛らしい勇者の子よ。ふむ、だがこれは我にも非があったな。まだ語り尽くしておらなんだか。


 魔王が討ち取られたと聞いて、我はこの楽園に飛んで帰った。何百年ぶりだったか、久方ぶりの故郷の荒れ果てようには涙が止まらなかったものだ。それに、何より──愛しき父の、無残な亡骸なきがらに。そなたの父は、人間どもは、我が王の首だけを持ち帰っていた。進んで贄を捧げたこともあっただろうに、王の力を頼ったこともあっただろうに……!

 首を失ってなお美しい王の身体からだを抱いて、泣いて、泣いて──そして、喰った。だって、惜しいではないか。王の肉体が捨て置かれるなど。朽ちて、獣の餌になり果てるなど。だから喰った。骨のひと欠片かけらも残さずに。このはらに、収めた。


 そうして、知ったのだ。王が我らに、慈しまれた贄に与えたのは、まさに王の血だったのだと。吟遊詩人も歌っただろう、楽園の子らには蜜の霊酒が与えられると。それによって力を得るのだと。我らはそれほどに愛されていた。


 だから、王の血肉は我の胎内で混ざり合ったのだ。なんと甘美で光栄で悦ばしいことか。そうしてどうなったかは──目を背けるな。俯くな。顔を上げて──見よ。恐ろしいことは何もないのだから。見るのだ、すべてを王に捧げた我がはらの内を。におわす王の尊顔を。どうだ、美しいだろう? そなたの父も、この王を見て罪を悔い、赦しを求めてひれ伏した。そして、今度こそその身を王に捧げたのだ。


 うるさい。耳障りな声で喚くでない。王の御前ごぜんであるぞ。我の臓腑とそなたの父のすべてとで、再び御声おこえを聞けるようになった。だが、足りぬ。まだまだ足りぬ。かつての輝き、かつてのまったき御姿を取り戻すには。

 だからそなたを連れ出したのだ、我が息子よ。父の願いを助けておくれ。そう──そなたの父もにいる。だからこそ、そなたの何もかもを我は知っていた。それに、そなたはどのみち我らの子だろう? 大切に育てられた美しく賢い子。王の血を分けた贄から、さらにその血を分けられた、贄になるべく生まれた子。喜ぶが良い、今宵、そなたが生まれた意味が成る。


 泣くな、喚くなと言っているのに。せっかく王から御言葉をたまわっているというのに。どうだ、ちゃんと聞こえているか? 魂震わせる、耳に蜜を垂らされるような甘い御声が。愛していると、愛しい贄の子に囁く声が。とろけるほどの至福だろう?

 良い子だ、大人しくなったな。そなたの母も間もなくぞ。そなたと、そなたの父の姿と声で呼べば容易たやすいことだ。その次は──また、楽園を築こうか。子らを集めて、育んで。王の役は……当面は我が務めるしかないか。だが、我もまた選ばれた贄だった。慕われるに足る美は備えていよう。


 ああ、王よ──あの子の身体で、腕を蘇らせてくださいましたか。この身をねぎらってくださいますか。幼いころを思い出します。麗しい父の腕に抱かれて、憂いも恐れもなく眠った夜のことを。抱き締める腕の力強さも温もりも、あのころと何ひとつ変わりない。

 一度御身おんみに背を向けた愚かな贄でも、褒美はいただけましょうな? 御身を蘇らせたこの愛と忠誠は、きっと記憶に刻んでいただけましょうな?

 叶うことなら、我が脳と心臓を喰らうのは、最後の最後にしてくださいますように。この世の最期の瞬間に、我が王の美しい笑みを見ることができるなら。よくやったと、愛していると囁いていただけるなら。卑小なる我が魂は至福の悦びと共に御身に溶けていくでしょう。


 だから、今しばらくはご辛抱を。御身がかえるその日まで、何度でも贄を捧げましょう。

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