第21話

 蒲田は無言のまま俯いていた。通りを行き交う通行人の姿は次第に少なくなり、1人、また1人と路地を抜けて向こうの通りへと戻っていく。通りには蒲田と久恵だけが残され、まるで自分達が世界から切り離されてしまったような錯覚を抱かせた。


「蒲田様、これを……」


 久恵が不意に言った。蒲田が顔を上げると、久恵は紙袋を蒲田の方に差し出していた。花荘院から託された、撫子が入った紙袋。蒲田が受け取って中身を見ると、白い花瓶は粉々に割れ、見るも無残な状態になっていた。


「私が人質に取られた時、あなたがこれを落とすのを見ました」久恵が言った。「せっかくの美しい作品でしたのに、このような状態になってしまい……」


「いいえ、構いませんよ。元々私が欲していたものではありませんから」


「そうなのですか? でも、お部屋に飾られるおつもりだったのでは?」


「私は男の一人住まいです。花など必要ない。これは……ある人に渡すつもりだったのです。もっとも、その必要もなくなってしまいましたが」


「そうなのですか……」


 久恵は眉を下げて紙袋の中身を見つめた。蒲田の心情に気づいた様子はない。


「この度はご迷惑をおかけしました」蒲田が改まった口調で言った。「私と知り合いであったばかりに、あなたには大変な思いを味わわせてしまった。今後はもう会わない方がいいでしょう。私と関わっている限り、あなたはこの不愉快な記憶を思い出すことになるわけですからね」


 蒲田はそう言って頭を下げると、踵を返して歩き出そうとした。後悔はない。あんな恐ろしい目に遭わせてしまったのに、どの面を下げて恋情を告白できるだろう。


(総十郎……すまないな。せっかくお前がお膳立てしてくれたのに、俺はその機会を無下にしてしまったようだ。もっとも、俺の人生に花など必要ない、という教訓なのかもしれんがな)


 蒲田は内心そう呟くと、自分も路地に向かおうとした。


「お待ちくださいませ」


 久恵に呼び止められ、蒲田が足を止めた。久恵の下駄の足音が近づいてくる。


「蒲田様……。私がどうしてあなたに名刺をお渡ししたか、おわかりですか?」


 久恵が背後から尋ねた。蒲田は渋々振り返ると、無言でかぶりを振った。


「あなたは展覧会で困っていた私を、当然のように助けてくださいました。そして、ご自分の身分を明かそうともなさらなかった……」久恵が感慨深そうに言った。

「これまでも私に親切にしてくださる殿方はいましたが、大抵の方は下心があってのことでした。でも、あなたは違った。あなたは私に与えてくださるばかりで、私からは何も受け取ろうとならなかった……。

 その時私は感じたのです。あなたは何の打算もなく、人のためを想って行動できるお方だと……。そんなあなたのことを……私は知りたいと考えたのです」


 蒲田は瞠目して久恵を見返した。しばしその顔を見つめた顎、憮然として視線を落とす。


「ですが……私は刑事です。私と関わり合いになれば、いつまたあなたの身に危険が降りかかるとも限らない。そうでなくても、犯罪者などに関わる醜い世界を、私はあなたに見せたくはありません。だから……もうこれ以上、関わり合いにならない方がいい」


「蒲田様は、本気でそう思っていらっしゃいますの?」


「それは……」


 蒲田は顔を歪めた。こんな時、いったい何と答えればいいのだろう。


「もし私の身を案じていらっしゃるのであれば、ご心配には及びませんわ」久恵が安心させるように微笑んだ。


「今回の件はもちろんショックでしたけれど、それでうち萎れてしまうほど私は弱い女ではありません。たとえ何度踏みつけられても、再び立ち上がって凛と咲く……。私はそんな花の強さに魅入られて、華道を学びたいと考えたのですから」


 蒲田は頭を掻いた。竹部ならこんな時どうするだろうか。向こうが勇気出してアプローチしてきてるんだから、応えてやらなくてどうする――。いつかの居酒屋で聞いた言葉が脳裏に蘇る。だが、それにしても何と答えればいいのだろう。


 その時、視線を落とした先で、例の紙袋が蒲田の目に飛び込んできた。花瓶の残骸が入った紙袋。だが、その中にはまだ――。


 蒲田はしばらく逡巡していたが、やがて紙袋に手を突っ込むと、花瓶の破片の間から一輪の花を取り出した。桃色の花弁をつけた撫子。蒲田はじっとその花を見つめた後、それをおもむろに久恵に差し出した。


「久恵さん……これを」


 久恵は目を丸くして撫子の花を見つめた。蒲田は目を伏せて続けた。


「……私はこれを、あなたに贈るつもりでした。あなたの姿を一目見た時から……私は自分の世界が変わったように思えた。ですが、それをどう伝えればわからなかった……。

 そんな時、友人からこの花を譲り受けたのです。その男は言いました。花は時に、言葉よりも雄弁に心を語る……。彼は誰よりも私のことを理解している。だからこそ、私にこの花を託したのでしょう。私のような無粋な男であっても、この花があれば……言葉にしえない心を伝えることができるだろう、と……」


 久恵はまじまじと蒲田を見つめた。蒲田はその視線を直視することができず、居心地悪そうに足元を睨みつけた。風が二人の間を吹き抜け、誰かが捨てたビニール袋がかさかさと音を立てて飛んで行く。


 そうしてどれくらい時間が経っただろう。不意に久恵がふっと息を漏らした。蒲田が顔を上げると、久恵が目を細め、微笑みを浮かべて蒲田を見つめていた。


「蒲田様……撫子の花言葉をご存知?」


 久恵が尋ねた。その瞳の美しさに魅入られながら、蒲田はゆっくりと頷いた。


「純粋な愛……ですね」


 久恵は頷くと、蒲田の方に一歩近づき、そっと撫子の花に触れた。だが、すぐに花を取ろうとはせず、そのまま優しく蒲田の手に触れる。


 指先から伝う温もりを感じながら、蒲田もまた、もう1つの撫子の存在を感じていたのだった。

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撫子の君 瑞樹(小原瑞樹) @MizukiOhara

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