おおかみさんのひめごと

KaoLi

おおかみさんのひめごと

 あたしは本が好きだ。

 放課後はいつもひとりになりたくて、一般生徒の完全下校時刻である午後五時まで、ずぅっと図書室にこもってしまうほどには、あたしは本が好きである。

 この時間こそ、あたしの至福のときであり、唯一ゆっくりと過ごせる時間であった。

 夕日が図書室の窓の隙間から差し込み、本をその夕日が。この色があたしは好きだ。

 時間をかけてその一冊を読む。この作業も好きだ。

 現在読んでいるのは『里見八犬伝』だ。

 この作品に出ている、主人公と言うべき人物……犬塚信乃という名前は、あたしの名前でもある。しかし一言一句、一緒というわけではない。信乃の『信』が『紫』で紫乃しの。あたしはこの名前が気に入っているけれど、欲を言えば『信』にしてほしかった。でも決まってしまったものは仕方ないし、今更変えたいとも考えていない。


 何回目かのチャイムが鳴り響く。本日最後の授業が終了してから二回目だったので、恐らく現在は午後の四時だろう。あと一時間で下校しなくてはならない。

 家に帰ってしまうと、習い事などが山積みなので本が読めなくなってしまうのだ。

 だから私はなるべくたくさんの文字を吸収するべく、この時間を大切にし、集中するのである。

 この『里見八犬伝』という作品は、この文庫版では上下巻で発刊されている。あたしが今読んでいるのは上巻。これであと数十ページを読み終えたら、明日は下巻に手をつけられるだろう。ああ、なんて幸せな時間なのか……。


「――しーのちゃん!」


 ……もうすぐラストスパートだというのに。あたしの視界は温かい『何か』によって遮られる。この『何か』には心当たりがあり、あたしはあからさまに溜息を吐いた。


「……ひめ」

「やっぱり今日もここにいた! ふふ、本当に紫乃ちゃんは本が好きなのね~」


 ぐいぐいと頬を頬で押される。妙にふにふにしていて気持ちがいいのがむかつく。当のはあたしの頬をふにふにと押して愛おしそうに上からあたしを眺めている。

 彼女は大神おおがみ灯芽ひめ。あたしと同じクラスの女子生徒で、いかにもお嬢様といった感じの子だ――実際に彼女はお嬢様なのだが――。ふわふわとした艶めいた黒の髪の毛があたしの首筋に当たる。少しだけくすぐったくてあたしは表情を歪める。それを狙っていたかのような表情で、灯芽が微笑んだ。

 満足したのか、頬のふにふにが終わると彼女はあたしの座っていたソファの隣に座る。そうしてあたしの髪の毛を優しくいじりながら話しかけてくる。少しだけうざいなと思いつつも、嫌がらずにあたしみたいなのと接してくれる、そんな灯芽があたしは好きだ。


「今日は何を読んでるの?」

「里見八犬伝……」

「八犬伝……? お犬さんが出てくるのかしら」

「まあ、出てくる、かな。簡単に説明するなら、八人の剣士が運命的に集まって、ともに悪と戦う話だよ」

「へえ~! なんだかかっこいいわね!」


 どうせ詳しく話しても彼女は本に興味がないけれど、あたしの為に適当に答えてくれるだろう。そんな気遣いを遣わせるくらいならあたしとしてもこれ以上本の内容を話すことはない。

 これくらいの距離感が心地いいのだ。

 ぺらり、本のページが捲られる音が図書室の一角に響く。


「……ねえ、紫乃ちゃん」

「……なに」

「ねえ、ねえってば~」

「だからなにって」


 灯芽は何を思っているのかよく分からなかった。眉間にしわを寄せて、うるうると目を潤ませて、あたしの意識を本から自分に向けようと必死になっている。くそぅ……可愛い顔しやがって、このお嬢様は……! あたしは彼女のこの表情に弱いのだ。灯芽はそのことを分かっていてこの表情をしている。完敗だ。


「どうしたの、灯芽」

「……うん……。……あのね? 今日、どういう日か知ってる?」

「今日? 今日……なんの日だっけ」

「! 嘘! 紫乃ちゃん、嘘はダメよ!」


 嘘? 嘘など言っていないよ。あたしは本当に思い出せなくて唸る。ついにはあと数ページで終わる『里見八犬伝』に栞を挿んでまで悩み考える。しかし特に思いつかなかった。

 灯芽がむすりとしながらあたしを見ている。やめてほしい。あたしはその目に弱いんだ。


「本当に、分からないの?」

「うーん……」

「…………じゃあ、教えてあげなきゃ、だね」


 眼光。


 一線の眼光があたしの目の前をく。あたしは思わず息をすることを忘れてしまった。

 灯芽があたしの両肩をトン、と優しく押す。ゆっくりと体が倒れていき、ソファに横になる。いわゆる『床ドン』状態だ。

 あたしは灯芽から視線が外せなかった。外すことを、許されなかったのだ。

 彼女の足があたしの股の隙間に差し込まれ、動くことを禁じられる。ついでと言わんばかりにご丁寧に両腕を固定される。ふわふわとした彼女の髪が頬に触れる度、あたしの心は彼女にとらわれる。

 すん、と首筋に鼻が当たる。においを嗅がれたのだと気づいたのは一瞬遅れてからだった。そして、くちゅ、という甘い音が耳元をさわった。首を、吸われた? いや違う、これは――。


 ――なめっ……⁉ 舐められたっ?


「ちょ、灯芽……! ここ、学校……!」

「大丈夫。この時間の図書室に生徒はあまりいないの、安心していいよ紫乃ちゃん」


 完全にいないわけではないんでしょう⁉ 見つかれば事件だよ⁉ なんて心の中で叫ぶけれど、そんなあたしの叫びは恥ずかしさによって掻き消されてしまう訳で……。彼女の眼光に気圧されて、あたしはされるがままである。


 狼。


 そう。灯芽のこの感じは、さながら狼のそれだ。

 ああ、あたしは、今からこの愛くるしい狼に喰い殺されるのだと覚悟する。

 それでもいいかもしれない。彼女を罰なのだから。


「……紫乃ちゃん、本当に分からない?」

「……ぇ……?」

「わたしがどうして怒ってるのか、本当に分からないの?」

「ひ、ひめ?」


「――じゃあ分からない赤ずきんちゃんには、教えてあげなきゃ、ね」


 耳元で囁かれる甘い甘い声。ぞくぞく、思わずあたしは身震いする。きっと今この場面を見たら、襲われている、と誤解されてしまうだろうな――実際にされている――。怖い。灯芽の目が見れない。そう感じてしまい、あたしの目元に涙が溜まってしまう。泣いてしまえば彼女が心配してしまうと分かっているのに。けれど涙は止まってくれない。


「……ごめっ、ごめん、ひめ……」

「紫乃ちゃん……?」

「分からない、分からないの」

「降参?」

「うん、降参」


 降参という言葉を聞いた灯芽はゆっくりとあたしの体を抱き起して、優しく抱き締めてくれる。そしてもう一度首筋を嗅がれる。彼女の表情はやはりむすりとしていた。


「今日はバレンタインデーでしょう? なのに、どうしてチョコレートをもらっているのかしら?」

「…………へ?」


 あたしの脳内に、彼女の言葉が響いた。

 今日はバレンタイン? その言葉にハッとする。そういえば、今朝は教室内の女子たちが妙にそわそわしていたなと思い出す。そうか。彼女たちはバレンタインである今日にそわそわしていたのか。あたしの中で合点がいった。


 そういうあたしは特にそういった行事に興味がなく――もともと記念日などに興味がない――、何も考えずに登校した。

 今朝はいつもとは違って妙なことがあったな、とも思い出す。

 いつもは無いものが、今朝の下駄箱には有ったのだ。

 小さな小さな、可愛らしい包み紙に包まれた、箱。

 振ってみればころころと音を立てる。教室に行き、箱の包装をゆっくりと捲りながらその中身を確認する。

 中に入っていたのは――チョコレートだった。とても美味しそうなチョコレート。見た目から手作りのものだと察することができた。ひとくち食べてみる。うん、ほろ苦い、あたし好みのチョコレート。噛み砕くと中にとろっとしたものが入っていた。これはなんだろう? 考える間もなく、一限目のチャイムが始まってしまった。

 今思えば、あのチョコレートを作った人物は灯芽だったのかもしれない。その考えに達したとき、彼女のことが愛おしくてたまらなくなった。


「……紫乃ちゃん……?」

「…………ないよ……」

「?」

「ひ、灯芽からもらった、あのチョコしか、食べてないよ」

「……! 紫乃ちゃん!」


 あたしは灯芽に思い切り抱きつかれる。身体のあらゆる固定が外れたかと思えば次は愛のホールドである。まあ、固定され続けるよりはマシだけど……。彼女の甘い香りが、あたしに絡んでいた恐怖を溶かしていく。まるであのチョコレートの中に入っていたあのとろっとしたものみたいに。


「嬉しい! 嬉しい! 下駄箱に入れた箱が、わたしからのチョコだって気づいてくれたのね!」

「え、あ、うん。……だって……」

「だって?」


 あたしはその先の言葉を、言おうか迷った。けれど、こんなにも『嬉しい』と喜んでいる彼女を見て、言わない方が失礼だと思ったあたしは、恥ずかしさを押し殺してその言葉を伝える。


「………………だし……?」


 あたしがこの言葉を紡ぐが先か、彼女があたしの口を塞ぐのが先か。

 それは判断がつかなかったけれど、ただあたしの目の前は、彼女の可愛らしい顔と甘い香りによって隠された。艶めいた音が互いの唇から発され、ああ今あたしは目の前の狼に喰われたのだと思い知らされる。


「紫乃ちゃん」

「……ん、」

「やっぱり、効いてるわね」

「……ん?」

「あのチョコに入っていた、とろっとした液体。あれ、何か知らずに食べたのでしょう?」

「…………うん……?」


「それ、お酒びやくよ」


 その瞬間、あたしの思考は固まった。

 え? びやく、びやくってあの

 本でしか読んだことがない、出会ったことのない文字にあたしの思考は混乱する。


「あ。勘違いしないでね? そういうクスリを買ったんじゃなくて、ものの例えで言っただけよ? 作ったチョコはウイスキーボンボンだもの」


 お酒は薬だ、とは、よく言ったものだ。

 意識し始めてしまえばすぐに決壊する。あたしの頬は、それはそれは熟れたりんごのように赤く染まっていたことだろう。

 恥ずかしさと熱さで、どうにかなってしまいそうだった。

 そんなあたしの動揺した表情を見て、彼女は何故かする。いたずらに首筋にふぅ、と息を掛けられる。ぞわぞわ、ふるる。気持ちいいような、むず痒いような、変な感じだ。

 これはクスリの所為もあるのだろうか? ある、んだろうな……、と彼女の眼光に射抜かれながらあたしは緩やかにその身を委ねる。

 あたしはやはりこの『狼』に食べられるのか。

 それもいいだろう。

 彼女は以前言っていた。「わたしは紫乃ちゃんが大好きなの。とても惚れているのよ」と。

 でもね、それはあたしも同じなの。同じくらいに、いや、それ以上に君に惚れているの。

 恥ずかしくて今は伝えることができないけれど、いつか君に伝えたいな。

 三回目のチャイムが鳴り響く。完全下校時刻を知らせる合図だった。帰らなければならないのに、あたしたちは帰ろうとしない。ここまでされて、不完全燃焼のまま、帰ることはできないのだ。


「可愛い可愛いわたしの紫乃ちゃん。今日はいつもより甘いのね」


 灯芽の潤んだ瞳が、夕日に照らされてきらきらと輝いている。その視線はあたしにしか向けられていない。

 自分が彼女の特別であると思わせてくれる。さて。この高揚感をどうしてくれようか?


 今日はバレンタインデー。

 きっとあたしが、彼女のチョコレート。

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