第3話

 樹も布も集まった。樹は必要な強度にも応え、布も外で広げた時には、弱い風でも一杯に吸い込むことができた。天使の背に復元する翼が、完成しようとしていた。

 その時が近づくにつれ、部屋に飾ってある鋼鉄の翼を気にする事が多くなっていた。

 一対の大きな、鋼鉄の翼。……天使の翼を模しているのに、その羽根の一枚一枚がスクラップから加工した鋼鉄で出来ている。天使と出会う前の人形が、これを使って空を飛ぼうとしていた、……今考えても本当にバカだと思う、けどあの人形がどれだけ空を飛ぶ事へ憧れているかを、何よりもはっきりと象徴している、そんな努力の結晶。

 この洞窟へ天使がやってきた時から、その翼は少しもいじられてはいない。ずっとそのまま。

飛べないままである。

 ………

 人形の態度は、あの日を越えた後も変わる事はなかった。優しく、そしてどこかすっとぼけていて、……そして一生懸命にどこかへ向かっている。

 人形の背に翼はない。

 人形は、空を飛ぶようにはできていない。

 飛び方そのものを知らない。

 だから、人形は飛べない。飛べないのだけど……

「ねぇ、……」

「何だい?」

「……翼、明日にはできあがるね」

「うん、そうだね。楽しみだ」

「どうして?」

「どうしてって……ボクらの作った翼が、ようやく空を飛ぶことができるんだ。これほど嬉しいことはないよ」

 人形は自分の事のように、それを喜んでくれる。けど、人形自身何か忘れていやしないだろうか?

 空を飛ぶのは、天使だけ。人形は、まだまだ飛ぶことなどできない。

「あなたは、わたしが庭園に帰ってしまえばいいって思ってるの?」

 不安そうな顔の天使は、いつの間にか人形にそう尋ねていた。

「…………」

 人形は答えない。答えず、ただその優しい笑顔を少しだけ解いて、部品を組み立てる手を止めた。

「庭園の天使はね、地上を嫌ってるの。ゴミを沢山捨てていって、それで自分達は空だけに住んで……下に降りてくる事だなんて、これっぽっちも考えてはいないのよ。庭園に戻ったら、わたしはもう地上には来られないかもしれないのよ?」

「ボクは、一人でも空を飛んでみせるよ」

「それじゃ駄目なのよ! あなた一人で、一体どれだけの時間がかかると思ってるの? ……ううん時間じゃない。はっきり言うわ、あなた一人じゃ、人形が空を飛ぶ為の翼だなんて、絶対に作れっこないのよ。あなたが空を飛ぶ日だなんて、永遠に来ないの」

「……それでも、ボクはやるよ。それしか言えないけど、それしかできないから」

 翼の無い人形。翼を持って生まれて来なかった人形。

 何と愚かなのだろうか。天使は、今ほどこの人形がバカだと思った事はなかった。これだけ飛ぶことに懸命でありながら、飛ぼうとする意志は空っぽなのではないかと、そう思えた。

「……わたしは、もう戻って来れないかもしれないのよ?」

 勿論、理由はそれだけではなかったのだけど……

 天使はとても悲しかった。二人なら、どんな翼でも作れると、最近になってようやく信じられるようになってきたというのに。

「あなたは、本当にバカよ」

「……キミはもう休んだほうがいい。明日は強い風がやってくる」

 人形は天使と目を合わさず、そして休めていた組み立ての作業を再開しながら、そう言った。

「そうしたら、きっと空を飛べるよ」

「…………」

 天使もそれ以上は何も言わず、泣き顔を人形から背けるようにして横になった。

 ここにいられる時間が一日を割ったのかと思うと、天使は結局ほとんど眠ることなどできなかったのだけど、

 その後人形が天使に何かを語りかけてくるようなことは、結局一度も無かった。



 出来上がった翼の調子は良好。元からある翼との接合も、問題なく完了した。

 左右均等の重みはおよそ一年ぶり。天使は少し戸惑ったが、少しずつ動かしていく内にその違和感も無くなった。

 ゆっくりと包帯を取り去ると、それまで風の当たらなかった接合部分に、凍るほどの冷たい空気がまとわりついてきた。風を受けるとやはり心許ないのだが、計算上の強度は元の翼と同じくらいあるはずなのだ。

 天使が飛び方を忘れていなければいい。あとは天使次第だ。

「曇り空……帰る頃はちょっと辛いかもしれない」

 人形は庭園がある筈の雲を見上げながら言った。あちこち指をさしている所を見ると、人形には雲の中にある庭園が見えていたのかもしれない。

「風が思ったより強い。大丈夫?」

「…………」

 天使は答えなかった。

 昨日の喧嘩を引きずっていたせいもある。

 けど、それだけではない。

 身体が震えて答えられなかったのである。靴の重みが無かったら、このガラクタの山に倒れてしまっていたかもしれない。

 厚い雲。風だけの空。

 今日は、あの日とあまりにもよく似ていた。

「大丈夫、キミならやれるよ。キミは天使だから」

「そんな都合のいいこと、言わないでよ!」

 ようやく出た言葉は、人形への文句だった。涙混じりの、あまりにも情けない台詞だった。

「翼と風があれば空を飛べるわけじゃない! もうすぐ雨が降る! きっと雷も鳴るの! どうして空を飛べるの!」

「しばらく雨は降らない。随分遅れてやって来る。だから雷も鳴らない」

「信じられない!」

「ボクの言う空が、今までに外れたことがあったかい?」

 そう言って人形は天使の手を取った。冷たく固い、人形の手だったが、それは天使の手よりもずっと大きかった。天使自身も、今まで気が付かなかった。

「あとは風を味方につければいい。雨になるのはまだ二、三日後だ。それまでに、キミは一番近い庭園に入れば……」

「やめて! わたしは、庭園なんかには帰らない」

「そんな事言わないでくれ。これは約束だったろう? キミが、ボクらの翼で空を飛んでみせるっていう」

 人形の表情は、いつになく真剣だった。あのすっとぼけた感じはとこにもない。

 天使の両手を掴む手は、油と研磨かすで汚れていた。木製の指先は、ネジを摘んでばかりいたせいで、すっかりでこぼこになってもいた。

「飛べる筈もないのに空を飛ぼうとしているって、……キミはボクをバカだと思うかもしれない。確かにそうだろう。ボクはキミほど頭も良くないし、無駄だと分かっていても頑張る事しかできない。

 けど、巡ってきたチャンスは絶対に逃したくないんだ。あの時キミがボクと出会わなかったら、ボクはあの鋼鉄の翼でこの空の下に立っていたかもしれない。そして明日には諦めていたかもしれないんだ。……キミとボクが出会ったのは、大きなチャンスなんだと思う。キミはバカだと笑うかもしれないけど……」

 そんな事ない。今までこの人形がどれほど頑張ってきたか、天使はよく知っている。たしかにバカだけど、それを補うだけこの人形は頑張った。

 努力は必ず報われるものだなんて、天使はこれっぽっちも思ってはいない。それでもこの人形の作った翼で、空を飛んでみたいと思った。

 それはただ自分の都合だけの我が儘かもしれないけど、

 人形がいつも言うように、

 「いつかは飛んでみせる」と、強く信じたかった。

 …………

 天使は目を閉じて、もう一度風の音を聞いた。

 ゴウゴウと吹き抜ける風。渦巻くのではなく、同じ方向に流れ続ける、御行儀のいい風だ。やや湿ってはいるけど、雨は混じっていない。そして人形は「降らない」と言った。天使を地上に墜とした雷もない。

 チャンスだというなら、確かにそうかもしれない。

 雨さえ降らなければ、これほどの風はない。

 もしこれで飛べなければ、天使も人形も、本当に諦めるしかないだろう。もうどんな翼を作っても、空は飛べないのだと……

 ………

「ねぇ、約束して」

「……え?」

「わたしもあなたとの約束を守るから、あなたもわたしと約束して。いつか、あの鋼鉄の翼で、この空を飛ぶって。その為にもう一度頑張る、って」

「で、でも、あの翼は……」

「わたしはあの翼が好き。天使の翼と同じくらい、素敵な翼だと思う。だから、今度はあなた自身が、鋼鉄の翼で空を飛んで見せて。あなたに一番似合う翼で」

「………」

「わたしも絶対に空を飛んでみせる。……でも庭園には帰らない。飛んで直ぐに戻ってくる。そして、あなたがしてくれたように、わたしもあなたが空を飛ぶのを手伝ってあげる。だから、それまでは絶対に庭園には帰らない。いつかあの翼で空を飛べたら、その時には二人で、空中庭園に行きましょう。

 ……そうでなきゃ、わたしも空なんて……」

「ストップ、待って。分かった、それ以上言わないでくれ」

 『空なんて飛べない』という言葉は、二人の間ではいつの間にかタブーになっていた。人形にとっては一番聞きたくない言葉であり、天使にとっては、一年前の弱さを残した言葉だったからだ。

「キミはその翼で空を飛ぶ。ボクはあの鋼鉄の翼を作り続ける。そしてキミの帰りを待つ。約束するよ。だからキミも、必ず……」

「うん……!」

 天使が頷くと、人形はそれまで握っていた天使の手を離してやった。


 これから空を飛ぶ。

 その為に、風が流れて行く方向へと身体を向け、そして……

 天使はおもむろに、それまで履いていた靴を脱ぎ、

 何と素足のままで残骸の上へと立ってみせた。

 これには人形も驚く。

 天使は苦痛に顔を歪ませても、足を残骸の大地につけていたのだから。

「お、おい……!」

「やっぱり重いの。それに考えてみたら、この靴の重さは計算に入ってなかったから」

「だったらやっぱり」

「いいえ、飛ぶの。今日を逃したら、一体いつこの風が来るの?」

 天使の足に痛みが走るが、それでも立っていられない程じゃない。二、三度身体の重心を傾けても、笑っている事ができた。

(大丈夫、大丈夫、きっと行ける……!)

 心の中で呟いてから、天使は畳んでいた翼を広げた。

 補った右の翼がバフッという大きな音と共に、風を吸い込んで、大きく膨らんだ。

 左の翼も一年ぶりの風を喜ぶように、一杯に広がっていた。羽根の一枚一枚に至るまで、しっかりと風を飲み込んでいる。

 天使は姿勢を低くし、その両方の翼を立てた。風はその下をくぐり、上に翼が乗るのを今か今かと待っている。

「いいかい? 雨はしばらく降らない筈だけど、この風だ。向かい風になるなら、無理はしないで。一日が過ぎるようなら、できるだけ嵐が過ぎ去るまで待つんだ。ボクも直ぐにキミを探しに行く」

「ありがとう」

「……う、うん」

 不意の一言に、人形は一瞬戸惑ったが、直ぐにまた正気を取り戻した。そして、言葉の最後を、天使に贈った。

「……行けるよ。キミは飛べる。翼のある、天使だから!」

「うん……!」

 天使の翼が降りた。

 バサッという音と共に、素足がガラクタの大地を離れた。

 次に羽ばたいた時には、風は天使を連れて、

 人形と共にすごした洞窟の上を、あっという間に越えて行った。



=======



 おぞましい程にスクラップが覆いつくす大地が、猛スピードで流れていく。どこにどんな物が落ちているかという事どころか、まばらに生えている木々や大岩さえも、見るよりも早く過ぎ去ってしまった。

 それはずっと真下の風景。

 遠くには地平線も見えている。相変わらずスクラップの平原ばかりが続いているけど、やや山なりのカーブを描いているそこも、輪にした布を一気に解くようにめまぐるしく過ぎ去って行く。

 ……久しぶりに飛んだ空。

 今は翼を動かさず滑空しているだけだけども、確かに自分は飛んでいた。

 不安だった右の翼も、左に負けないほど力強く、風を切っている。

 飛べているのだ! 人形と、天使が作った翼が……!

(やった……! わたし、空を飛んでいるよ……!)

 風の冷気に負けず熱を帯びてくる胸の内に、天使は逆らわないように翼をもう一度はためかせた。

 風は出来の悪い笛のような音を響かせて、天使の直ぐ上を流れている。体勢が安定してきた時、天使は翼を前に引き、そして向きを僅かに上へと変えた。

 ずっと空高くに昇る体勢である。無意識だったが、翼はまだ覚えていてくれた。

 天使の身体はさらに上へと舞い上がっていった。

 地平線のさらに向こうが見える。

 ずっと遠くに、霞につつまれた山と、そこに穴を穿たれたような雲の切れ目も見えた。その中には小さな粒のような空中庭園が、……三つ、いや四つ集まっているのが見えた。

 今天使の上を流れる雲の中にも、一つあるかもしれない。

 その中に潜れば、きっと庭園へ辿り着く。仲間とも会える。

 けど、天使は帰らない。庭園へは、帰らない。

 どうして庭園に帰ることができるのか。

 今空を飛ぶことがどれだけ嬉しいか、それを一番に話したいのは、庭園にいる天使じゃない。

 庭園の天使は……最初から翼を持って生まれた天使は、そんな事に喜びはしない。機械の翼が空を飛んだくらいで、騒ぎはしないのだ。

(……わたしは、あの場所へ帰るの)

 天使は体と翼を翻して向きを変えた。

 ――――その時だった。

 不意に、身体が傾いた。

 転身しようとしたわけではない。

 本当に不意に、風の向きが、ほんの少しだけ変わったのだ。天使はその風に合わせるように身体を、左に傾けたのだ。

 すると、ゴウという音が鳴った。作り物の翼が風を切り裂く音だ。

 風を孕んだ布の膜が一杯に張りつめ、それを支える木の軸が、釣り竿のように大きくしなった。

 バキっ!

(――――っ!)

 嫌な音がした。

 一瞬の痺れが翼を伝わり、背中一杯にまで広がる。

 視界が廻り、風が荒れ狂った。

 飛んでいる時とは違う、息をする事もできない苦しさが天使を襲った。

 次に来るべき衝撃を予想して目を閉じるのと同時、

 天使の身体に激痛が走り、

 そして、

 ―――――体に受けていた風が、止まった。





 天使は、厚い雲の下、嵐の吹き抜ける空の下にいた。

 辺りは一面スクラップの平原。遠くに木が見える事もあるが、ほとんど何もない。ただ、壊れた機械の平原が続くだけの、見捨てられたような大地。

 風は強い。妨げを知らぬ風は、雲の下を好き放題に暴れ廻っている。

 そんな残骸だらけの平原を、片羽の天使は、風の吹いてくる方向を探し、歩いていた。追い風を受けて飛んだ帰りは、当然向かい風。その上大地を踏みしめる毎に、素足に部品の角や歯車が突き刺さる。あちこちから血が流れているが、痛みはもう殆ど感じない。

(これくらいは平気)

 それよりも、早く帰らなければと思う心の方が強かった。

 胸元には作り物の翼。両方の腕と掌で、嵐で飛ばされないように、しっかりと抱え込んでいる。

 ……さっきは背中にあった。折れてしまった右の翼を補う、天使と、人形が作った、大事な翼だ。

 この翼で風に乗った。空を飛べた。

 忘れるはずがない。今だって、思い出すだけで嬉しくなる。

 二人で作った翼が、空を飛んだのだ。なんて嬉しいことか!

 忘れるはずがない。人形に会えたら、まず初めにその事を話してあげなきゃ。

(空を飛べた、地平線のずっと向こうに山が見えて、そこに庭園が一杯集まってた、って……)

 ――――あの人形に。きっと、いつも以上に喜ぶのだろう。

 想像しただけで胸が震えた。笑みがこぼれた。

 風が強く吹き抜ける。嵐がやってくるのだ。今、天使の顔に、雫の一粒が伝った。

 人形の言う通りだ。雨は、一日遅れてやってきた。

 何処かで雨宿りして待つように言われているけど、少しでも早く人形に話したくてたまらない。

 天使はもう一度笑った。笑って、歩みを続けた。

 踏み出す度に、機械の残骸が素足を引っ掻く。

 折れた翼の根元は結合部分が抉れ血が滲んでいる。

 その赤い血が天使の足を伝い落ちていき、その血を雨が洗い流していく。

 しかし、まだ小雨だ。歩みを止めることはない。胸に抱いた機械の翼を、絶対に離さない。

 吹き付ける風の中、ガラクタを踏み越える足に力を込める。

 本格的な嵐が来るまでに、もう少しでも先に。

 何処かの木の下か、洞窟か、ガラクタの洞を見つけて嵐をやり過ごし、また帰路を急ぐ。

 帰ろう。帰ったら、あの人形に、この翼で空を飛べたと伝えてあげて、それから……

 また、新しい翼を作ろう。今度はもう少しでも長く、高く飛べる翼を。

 そしていつかは、あの部屋の壁に誇らしげに飾ってある鋼の翼で、人形と一緒に空を飛べたら……

(ああ……)

 それはどんなにか素晴らしいことだろう。

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その翼は鉄でできていた 七洸軍 @natsuki00fic

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