第2話
人形が向かったのは小屋の裏手の方だった。
それ程遠くない場所に、高い絶壁が見えていた。人形はそこに向かっているようだった。
日はもう半分以上沈んでしまっている。人形はまるで、それに間に合えとでも言わんばかりに走っていた。息を切らした天使が、そこまで急ぐ必要があるのかと尋ねて、人形はようやく落ち着きを取り戻していたが、ゆっくり歩く間中も、早くその「何か」を天使に見せたくてしょうがないようだった。
「あー、……久しぶりだからなー、やっぱり埋まっちゃってる」
絶壁と地面の境界が見えてきた時、人形は少しだけ小高くなってる丘の上から、そんな呟きを漏らした。そして側にいる天使に、「ゆっくりおいでよ」とだけ告げて一人先に絶壁の方へと走り出した。
何をするのかと思えば、絶壁の真下を掘り出し始めた。そこに何かあるのだろうが、それは随分深いらしく、天使が追いついてもまだやっていた。
「何があるの?」
「ボクの家の入り口。残骸で直ぐ埋まっちゃうんだ」
「家?」
「そう、家」
天使はもと来た道を振り返り、向こうにあった小屋を見た。……ずっと遠くで小さいけど、それはまだ見えていた。天使はそれを指さして人形に……人形の背に尋ねた。
「あれは違うの?」
「違うよ。あそこはただの山小屋だ。ボクの家じゃない」
「じゃあ……」
「キミはあの小屋の向こう……森の中に落ちたんだ。雨に打たれて、早く温めなきゃ死んじゃうところだったからね」
雨の中ここまで運んで来るには遠すぎると、そういうわけらしい。
けど、どうして人形はそんな救命知識を知っているのだろう? 天使の頭は疑問符だらけだった。
「……よし、こんなものだろう」
そうしている内に入り口を掘り返す作業は終わった。
確かに、絶壁の下に穴が空いていた。ここを通って、洞窟の中に入るらしい。
「通れるよね?」
「うん、大丈夫」
人形は天使の翼を心配してくれているようだったが、穴の広さは、翼を畳めば十分に通れるだけあった。……人形が少し無理してくれたらしい。
天使と人形は、その穴から滑り落ちるように、洞窟へと入った。
昼間も日の当たらないそこは、とてもひんやりした場所だった。天使には少し肌寒く感じられたが、人形は平気らしい。慣れた足取りで洞窟の先を行くと、残骸の斜面をゆっくりと降りる天使に手を貸してくれた。
「どうして洞窟の中に家があるの?」
「残骸が降らないからね。木の屋根だと、時々穴が空くことがあるんだ」
「入り口が埋まっちゃったら同じでしょ」
「……そ、それにさ、建てる必要がないだろう? 小屋を建てるとなると、土台を作ったり木を切ったりで結構時間がかかるんだ」
「ただの洞窟を、住めるだけ改造するのにも随分時間がかかると思うけど」
「そんな事ない。この洞窟は最初からあったんだ。手を加えたのは、……ほんの、少しだよ」
“ほんの”の所を自信なさげに、人形は言った。……やっぱり随分直したんだということは、天使でも分かった。
床は歩きやすいようにしっかりと整地してあるし、天井には電線を引いて電灯まで灯っている。
通路の先には木の壁とドアまである。……恐らく、広い洞窟内を仕切る為にわざわざ作ったのだろうけど、それは家を造るのとどれほどの差があるだろうか?
この人形の事だから、それらの手順を“苦も無く”やってのけたのだろう。
「バカみたい」
「……、で、でも、部屋の中を見たらきっと驚くよ。いや、喜んでくれるはずだ。まだ出来てないけど、きっと」
天使をここまで導いてくれた人形は、言い訳のようにそれだけを言うと、目の前にあった扉を開けて、部屋へと入った。そして均された壁に飾ってあったその「見せたかったもの」に左手を掲げると、勝ち誇ったように胸を反らした。
天使もそれを目にして言葉を失った。
小綺麗な部屋の中、ただ一番奥の床だけが何かの工具で散らかっている。その場所で、その工具を使って組み立てたであろう、人形が見せたかった「何か」は、工具の直ぐ側の壁に、自慢げにかかっていた。
広い部屋一杯まで広がる鉄の銀色。鱗のように連なるその一枚一枚に至るまで丁寧に作られ、またしっかりと組み合わされた、そんな鉄の板が左右対称に二枚。
それは明らかに翼を模していた。
鋼鉄の、翼である。
「……バカみたい」
天使はそれを見て、嘆息混じりにその一言だけを返した。
人形の表情が唖然となった。棚に飾ってあったブリキの箱が、大きな音を立てて石の床に落ちた。
「人形なんて随分バカだとは思ってはいたけど、これほどバカだなんて思わなかった」
「ど、……どうして? これが完成すれば、きっとあの庭園まで行けるんだよ」
「見ただけで考えても、絶対に無理。鉄なんていう重いものが羽根になると思う? 風は受けられても、こんなの空にだって上がれない。そもそもあなた達人形がこんな鉄の翼を背負っただけで、どうやって羽ばたくの? ……ううん、こんな大きな物を背負って立っていられると思う?」
「立つだけなら……」
「そう、立つだけならできるでしょうね。あなた自身も鉄や木でできてて、ものすごく重いんだから。それで、その重いの二つ合わさって、どうやって風に乗るの。嵐が来たって地上の残骸は飛ばされもせず残っていたでしょ? これはその塊なのに」
「………」
さすがに言い過ぎたらしく、人形はまた黙り込んでしまった。
天使もまた、呆れたように嘆息すると、剥き出しの地面へとペタリと座り込んだ。この人形といると、すごく疲れる。
「……飛べる、って思ってたんだけどな。ボクが無理でも、キミだけは。せめて失くした分の代わりになれば…って」
人形は天使を励まそうとしている。何とか天使を庭園に返してやろうと、ただそれだけの為に、人形がずっと作り続けてきた翼を見せてくれたのだから。
天使には分かってる。優しくて、努力家の人形だ。悪いのは、難癖つけて怠けてる自分の方。だけど……
駄目なのだ。
元から翼を持って生まれてきた天使は、その時からある翼でなければ、空は飛ぶことなどできはしない。
墜ちた天使が庭園に帰ってきたことなど、今まで一度も無いのだから。
「……よし。でも、ボクは諦めないぞ」
俯いていた人形が顔を上げた。一度鋼鉄の翼を見上げると、作業場の直ぐ側にあった机に向かい、……おそらく設計図なのだろう。紙の束を見ながら何かのメモを取り始めた。
その姿は熱心に見えたが、何かのアイデアがあるとはとても思えなかった。
「だから無理よ」
天使はその姿にいたたまれなくて、もう一度声をかけた。
「無理かもしれない」
「だったら」
「でも、いつかきっと空を飛びたいんだ」
天使はもう一度嘆息した。
天使と言えど、翼をなくしては飛ぶことはできない。
ましてや、元から翼など持っていない人形が、どうして飛ぶことなどできるのか。生まれるとき翼を与えられた天使と違って、人形は空を飛ぶようにはできていないのだ。飛ぶという事がどういうことかすら分かっていない。人形のやっている事は全くの無駄であり、部屋に掲げられた鋼鉄の翼はその象徴だ。それにどうして気付かないのか。
指摘したところで、机に向かう人形は諦めそうになかった。
「……どうして、空を飛びたいだなんて思うの?」
天使がようやくその疑問を尋ねることができたのは、さらに二日も経ってからだった。
その間、人形は一度も机を離れることは無かった。疲れて眠った天使が目を覚まして、時間が経っていないのかと戸惑った程である。そんな時は、一度外に出てみて、ようやく時の流れを知る事ができた。
「おかしいかな」
「おかしいわよ」
微かにペン先の折れる音が聞こえた。
照れ顔だった人形の顔も、天使の一言で落ち込んだ表情に変わった。
「それとも、天使には分からないのかな」
「かもしれない」
わたし達は飛べるから、と天使は背中の羽根を弄り始めた。もう使わないと分かっていても、羽根を繕う癖は直ぐに無くなるものではない。
人形は折れたペン先を交換しながら、そんな天使の姿を見ていた。
「地上からだって庭園は見えるんだよ。勿論、キミ達が楽しそうに飛び回る姿もね。……本当に楽しそうだよね」
「そんなに楽しいわけじゃない。……確かに、飛べないのはもっと嫌だけど、空を飛ぶのが怖い時だってある。空は晴れてる日ばかりじゃないもの。晴れていても風の強い日もあって、そんな日はだんだん翼が痺れてきて……それでも飛ばなきゃいけないの」
「どうして?」
「堕ちたら、助からないから……」
天使はやや躊躇うような表情で言った。
地上は天使にとってあまりに残酷だ。
「何度も思った。“どうして翼を持って生まれちゃったんだろう、翼が無かったらこんな日に飛ばなくたっていいのに”って。向かい風に煽られる日は、翼はどんな鉄よりも重くなるの。……信じられないでしょう?」
「そんなことはないよ」
人形はそう言いつつも、笑っていた。
天使はもう怒ったりはしない。この人形の性格も、少しずつ分かってきた。
「地上にも雨は降るからね」
それだけ言って、人形は立ち上がった。一緒にペンを置くパタンという音が聞こえた。
「外、出ないかい?」
「手伝わないから」
反射的に、天使はそう返していた。
「わたし、絶対に無駄なことなんかしない」
「うん、それでもいいよ」
人形はいつものようにビー玉のような目を輝かせて笑っていた。片隅に座る天使に手を差し出す。
天使もまた、それに自分の手を重ねた。特にこの部屋に留まる理由もなかったからだ。
「今日もきっと、晴れている筈だ」
さっき話題に上った事で、もしかしたら、などと天使は考えていたが、全くそんな事はなかった。雲は多いものの、太陽も青い空も、そして空中庭園も見える、……涼しくて過ごしやすい天気だった。
人形の予報が当たったのである。もっとも、人形はその事が当然であるというように、機械残骸を拾い始めた。
あんな暗くて涼しいだけの洞窟に二日も籠もっていたのに、どうして外の天気なんかが分かったんだろう? ひょっとして、天使が眠っている間密かに外へ出たりしているのではないだろうか。
と、天使がそんな事を考えていると、不意に顔を上げた人形と目があった。人形は離れて見ているだけの天使に微笑んで手を振って、また残骸拾いを続けている。
「……ねぇ、そんな事してどうするの?」
「翼の部品さ。いつか飛ぶためにね」
「だから、無理だってば」
天使ははっきり言って呆れていた。けど、無駄な事をいつまでも続けるその人形は、いつだって笑って返す。
「絶対に無理だとは思わないよ」
「そうかもしれない。けど、それはいつのこと? いくつゴミを拾って、いくつの翼を編み上げたら、あなたは飛べるの? 滅多に起きない偶然が、空に届くくらい、いくつもいくつも重なったって……きっとあなたは飛べないの。そんな事、時間の無駄でしょ?」
そう言うと、人形はまたフフっと笑った。
「ボクらは歯車が欠けたって、部品を交換すれば、ずっと生きていられる。たとえ全身を入れ替えても」
「それはあなただと言えるの?」
「空への憧れを失ったりはしない」
その自信があると頷く人形に、天使は呆れのため息をつく。
「わたしは……そんなに長くは生きられないもの。わたしじゃないわたしに望みを託すことなんかできない。時間こそ貴重よ」
「うん。そうかもしれない。でも、ボクは諦めないよ。いつか、きっと」
人形は、拾ったパーツのいくつかを空にかざし、また上下に揺り動かしながら、慎重に選別を繰り返していた。天使に指摘された欠点……鉄は重いと言うことを、彼なりに工夫した結果なのだろう。
随分続けても、人形の手に長く留まるパーツすら、なかなか見つからない。それでも、今ようやく一つのパーツが、人形の背負う箱の中へと入れられた。
それを見ながらも、天使は嘆息した。
おそらく、ここに『墜ちてきた』部品では、どんなふうに組み上げた所で、空を飛ぶ翼になりはしない。けど、それを言っても、あの人形は止めないのだろう。
「命が永遠にあるなら、もっと大きな事ができると思うのに」
「ボク達がうらやましいかい?」
「そんな意味じゃない。わたし、あなたみたいなバカなことはしたくないもの。それに、ずっと空も飛べないままなのも嫌だから」
「うん。ボクもそう思う。いつか飛びたい、ってね」
「だからそんな事を言ってるんじゃなくて……」
「ボク達が昔空を飛んでいた、なんて言ったら、キミは驚くかな」
天使は自分の耳を疑った。人形がとんでもない事を言い出したからだ。
「驚くかい? ボク達、昔には空を飛んでいたんだ」
翼も持っていない、……あったとしても、重くて風を受ける事もできない人形が、空を飛んでいただなんて。
人形に目を戻すと、彼はやっぱり笑っていた。
「……冗談を言ったの?」
「いや、本当だよ。……ボク達はね、この壊れた部品の中から生まれてくるんだ。庭園が捨てていったゴミの山からね」
人形は、空に浮かぶ庭園の一つを指さした。
天使は、人形が何を言おうとしているのか直ぐに理解できた。理解できたけど、なんだかそれは少し悲しい事だった。
「昔何かをしていた、何かの装置の残骸なんだろうね、ボクらは。壊れて捨てられて、その時の事もみんな忘れちゃったけど、時々何かを憶えているんだ。見たこともないキミ達の事も少しだけ知っている。……たとえば、キミ達は体温が下がれば死んでしまうとか、ケガをしたら血を止めなければいけないとか」
天使は、自分が目覚めた時、しっかりと手当がなされていた事を思い出した。原始的だけど、壊れたら取り替えるだけの人形が、その方法を知っていたのは、人形が庭園にいた事を証明する、確かなものである。人形は最後に「そんな曖昧な記憶が、ボクに空を飛ぶことの素晴らしさを教えてくれるんだ」と締めくくった。
この場所で夕日を追って遠ざかって行く庭園を見て、人形は空を飛ぶ夢を見たのだろうか?
あの不格好な飛べない翼を背に広げ、風を受けようとしたのだろうか?
だとしたら、天使と人形―――庭園から墜ちた、帰れないと嘆く天使と、帰ろうとする人形。
天使はただ嘆くだけ。人形は頑張っている。寿命の違いだけじゃなくて、元々天使と人形には、それ程違いなんてなかったのかもしれない。
「……部屋に戻ってる」
天使は踵を返した。まだ人形はパーツを拾っている。けど……
「ごめん……面白くなかった?」
「面白いわけがないでしょう」
「う……」
「手伝って上げようかなって、そう思っただけ」
翼を無くした天使にも、やりたいことができた。
「あなたの設計図、見せて貰うから」
人形がどれだけ時間をかけても飛べるはずもなく、
天使が無くした翼も甦るわけではないけど、
「え……じゃあ、ボクも……」
「あなたは探していて。軽くて丈夫なパーツを」
ひょっとしたら、なんて思った。
「でも今背負っているのは全部駄目。もっと軽くてもっと丈夫なものを探しなさい。いい?」
二人で頑張れば、あるいは庭園に帰るぐらいには飛べるんじゃないかとか、
そんな風に思えたのだった。
山ほど積み上がる偶然というものじゃなくて、
本当に、……必然的に飛べる気がしていたのだ。
二人が部屋に籠もり、また天使が人形を怒鳴りつける日が随分続いた。
設計図もパーツもなかなか順調にはいかない。人形は設計図が書き換えられる度に「また一歩近づいたんだよ」と楽しそうにしていたが、天使はそんな人形を見て「空を飛ぶ日が遠くなったの」と不機嫌になる。
おおよそ単純な計算くらいしかできない人形に、天使はほとほと呆れ返る事も多かったが、それでも諦めてふてくされる日はだんだん少なくなってきた。
「先が見えてきたからだ」と人形は言ったが、それを言った時も天使に怒られた。
冗談じゃない。天使にとっては、先など全然見えていない。
どう考えたって、降ってきた物が空を飛ぶなど無理なこと。人形の重量を考えると、なおさらである。
ならばいっそ、と風の強い日に限定して計算をした事があったが、出てきた数字を見てまた天使がふて寝を始めてしまった。だってそうだろう。嵐の日、一辺が二十数メートルの翼は、簡単に壊れてしまう。飛べるものか。これも白紙だ。
風の強い日限定でもいいならと、翼の大きさをこの部屋一杯と決めて、必要となる風速を計算した事もあったが、そこにもあり得ない数字が出てきた。天使はこの時、人形が大木と同じほど重いのだという事を知った。
「……やっぱり鉄なんかが飛ぶ筈がない、無理よ無理」
二ヶ月も過ぎる頃、ようやく出た結論はそんな事だった。天使にとっては最初から予想していた事だったが、人形が受けた衝撃は今までにないものだった。
「大体、わたし達だって翼を動かして飛ぶのには、それなりにコツが必要なのに、元々翼を持ってない人形が、どうしてその翼を動かすコツを補えるっていうの? 飛ぶようになんかできてないのよ、あなた達人形は」
「そ、……そうだよね……」
珍しく弱気だった。普段は頭の鈍い人形でも、こうして数字ではっきりと不可能を示されると辛いらしい。
天使は息をついた。自分も悪いのだけど、何よりこんな風に落ち込んでいる人形なんか、見たくはなかった。
「発想を変えなきゃ。人形がどうしたら飛べるのか、じゃなくて、わたしたちがどうして飛んでいるのか、……そこから考えましょう」
そして、さらに一ヶ月が経った頃、
ずっと設計図と向き合っていた天使は再び叫んだ。
「無理! 鉄なんて、どんなに軽くたって羽根よりも何十倍も重いのに! どうやって空に飛ばせっていうの!」
「え……」
これを聞いて、外から軽い鉄を探して帰ってきたばかりの人形は唖然となった。
できるだけ軽いもの、軽いものと条件が厳しくなるにつれ、人形が一日に持って帰る鉄片は少しずつ少なくなっていた。落として大きな音がする程も量はなかったが、それでも微かな音はした。
「無理よ無理。どんなに拾って集めてきたって、そんなので空は飛べないんだから」
「…………」
重苦しい沈黙が続いた。それは随分長かった。
天使は計算式を見たまま動かなかった。その間、眠りもしなかった。
人形は拾ってきた鉄を取り落としたまま、ピクリとも動けなかった。
やがて……
「決めた」
天使が何かを思いついたらしい。新しい紙を取り出して、何かの形をスケッチし始めた。
「ど、どうするの? 鉄じゃ無理なんだよね?」
「鉄なんか使わない。木を使う」
「木?」
天使はスケッチを続けながら、人形に説明を始めた。人形も、そのアイデアがどういうものかと、天使と一緒に机の席についた。
木は確かに鉄よりも軽いが、水を吸ったらかなり重くなる。それは、人形も天使もよく知っている事だった。
だから、火を使って水分を飛ばした後、湿気を防ぐための上薬を塗る。そういう上薬は、人形達が家を建てる時にも使われるらしく、調達は簡単だ。
むしろ問題なのは、まだ十分とは言えない重量である。どこまで行っても、重さとの戦いだ。
「木だって風に耐えられるだけ丈夫ではあるけど、さすがにそれよりも軽いものだなんて思いつかないなぁ……」
人形もさすがにお手上げのようだったが、天使にはまだアイデアがあった。
天使の背に生えている翼は十分に軽い。強度だって風に耐えられるだけはある。それを模倣した近い材料なら、きっとまだある左の翼と同じくらい軽い翼が作れる筈である。
「翼の骨は木。羽根を支える骨の所だけ丈夫なら、それで十分の筈。翼の膜は……」
そこで天使は少しだけ躊躇ってから、意を決して口を開いた。
「膜は羽根。この間ね、羽根が落ちているのを見つけたの。だからきっと、それから薄ぅぅぅい布を作って膜を張れば、同じだけ軽い翼ができる筈でしょう?」
「羽根か……」
いつもなら新しいアイデアに喜ぶ人形も、さすがにこの時ばかりは顔を強張らせた。
何しろ羽根は軽い。空を行き交う天使が時々落としていくとはいえ、風が吹けば直ぐにどこかに飛んでいってしまう。……墜ちればそこにある鉄片なんかより、はるかに見つけるのが難しい。それを、布一枚作れるだけ集めなければいけないのだ。
「うん、探してみるよ」
人形は、天使ほど間をおかずに頷いた。天使は確かめるように人形の顔色を伺うが、その表情に躊躇いはない。きっと、この人形はやるだろう。
「キミは設計図を完成させてよ。ボクは外から羽根を集めてくるから」
「大丈夫? 辛い作業だけど」
「我慢するのはボクの仕事さ」
そう言って、人形は威勢良くガンと胸を叩いて外へ行った。
しかし天使の方は、一抹の不安を拭いきれずにいた。
おおよそ今までも天使が抱いてきた予感というのは当たってきたのだが、
それは今回も、ものの見事に的中する事になる。
人形が最後に部屋を出て丸一日くらい経った頃。あまりにも人形の帰りが遅いのを不思議に思い、天使が探しに行ったのだ。
表は雷の鳴る大雨。庭園さえ見えない黒雲の下で人形は、いつかどこからか飛んで来るであろう天使の羽根を待ち、そして探していた。ガラクタの胴体を雨に濡らし、つたない動きを引きずったまま、駆動系どころか思考回路すらもショートさせて……
表でそれを見つけた天使は大いに慌てた。雨除けを取りに戻るより先に、ほとんど動けなくなっていた人形の元に走り、その体を洞窟の中まで引っ張り込んだ。
「……バカみたい」
「頑張ったんだけどね」
部屋の中、疲れ切った声の天使と、調子は同じだがどこかくぐもった声の人形が、そんないつもの会話をしている。
二人とも池に飛び込んだようにびしょ濡れ。天使は何か言ってやる力すら残っておらず、人形に至ってはあちこちがおかしい。……人形も雨に当たれば風邪をひくのかと、しばらく続いた沈黙の終わりに、天使は思い呟いた。
「……嫌なら、そう言って。……こんなになるまで」
「頑張ろうって思ったんだ。頑張れば……」
「ただ頑張ったって、空が飛べる筈ないでしょう!」
言ってしまってから、天使は言ってはいけないことを口にしたのに気が付いた。
「……ごめんなさい。わたし、飛べないって思ってるんじゃない……」
「うん、分かってる。でも、キミの言ってた事も、みんな正しかった」
人形は、やっぱりどこかおかしいようだった。
口調は変わらない。いつもの優しく、笑ったような声だけど。
ノイズ混じりの声はどこか気が弱く、人形の意志は今にも消え入りそうに感じられた。
「天使の羽根って、なかなか、見つからないなぁ。でも、見てよ。たった一枚だけど、今日は、これだけ見つけたんだ。あと何枚必要になるか、分からないけど、その中の一枚だよ……」
人形はガタガタになった指先で、身体に隠していたたった一枚の羽根を天使に見せた。それは、人形と同様雨に濡れてすっかり萎えていたけど、それでも、空から零れた天使の羽根の一枚だった。
でも、そんな事はどうだっていい。天使は、その羽根を機械の手と一緒に握りしめ、人形の腕の調子を確かめた。
「喋らないで。またおかしくなってるじゃない」
「そんなに慌てる事はないよ、大丈夫。ボク達は、乾けば元通りになる。……でももう少しだけ、キミにはどうしても聞いて欲しい事があるから」
天使は手を止めなかった。少しでも早く人形の繊細な部分が乾いてくれるように、絞ったタオルで懸命に、関節のあちこちを拭っていった。
多分、その必死の表情など見えていなかったのだろう。人形は言葉を続けた。
「ボクは、やっぱり空を飛ぶことはできないと思うんだ」
「! バカ! 何を言い出すの!」
人形の口から飛び出した言葉に、天使はいよいよ慌ててきた。このまま、死んでしまうのではないかと思えたのだ。
そんな事はない。人形は濡れたくらいで死んだりはしない。死にそうなのは、
今までだって決して諦める事の無かった人形の意志だ……
「あなたが諦めたら、誰が空を飛べるって言うの? わたしには、もう空を飛べる翼なんてないんだから、あなたが翼を作らなければ、空を飛べないんだから」
「そんなことないよ。……まだ、半分以上も残ってる」
人形の手が、天使の右の翼に触れた。
天使の羽根だってびしょびしょだ。そんな事をしたら、折角拭った手が、また雫で濡れてしまう。……天使はもう一度人形の手を取り、もう動かないようにしっかりと自分の身体に抱いた。しかし天使の身体もまた、人形の身体以上に濡れていた。
(地上にも雨は降るから)
人形の言葉を思い出す。
雨に当たって翼を重くしてしまうのは、空を飛ぶ天使だけではない。地上にも雨は降って、向かい風は吹いて……それでも、絶対に諦めちゃいけない。この人形のように、いつか辿り着く庭園を目指して、雨風に耐えて……
そうして、空を、目指すべき空を、じっと見つめていなければいけない……
辛いことだ。それはどんなに辛いことだろう。
天使は知っていた筈だ。人形が、どんな気持ちで空を見上げていたか。
地上を歩く者達の翼は、決して風を孕む事などありはしない。
「ずっとキミ達が羨ましかった。自由に空を飛べる翼があるから」
「だから、あなたがそれを造るんでしょう? いつか空を飛ぶって……」
「……うん、諦めない。いつかは……飛んでみせるよ。でも、今は無理なんだ。キミが言うとおり、ボクらは飛べるようにはできていない」
「そんなの……!」
「お願い、聞いて欲しいんだ。
ボクらはずっと、長く、生きられる。でも、キミは違う。早く翼を、取り戻さなければ、庭園に帰る前に、死んでしまうかも、しれない。……いや、長く生きられても、このままずっと地上にいたら、本当に、飛べなくなってしまうかも、しれない。
キミの、翼は、鋼鉄製じゃ、ない。永遠の、命なんて、持って、ないんだ……ボクは、キミが、そうして、空を飛べなくなって、しまうのが、一番…嫌だ。キミ達天使は、ずっとボクが、憧れていたんだから」
天使は首を振った。
いつの間にか溢れてきた涙が、再び人形の身体を濡らした。
「……ボクは、バカだけど、雨に当たって、少しだけ、賢くなったのかもしれない。羽根を集めていちゃ、間に合わないって、思った。キミが、苛々、していた訳が、ようやく、分かった。初めて、感じた……きっと、“焦り”って、言うんだ。……キミの翼を、補うだけ、なら、丈夫な布でもいいんだろう? だったら、キミだけでも、先に庭園まで、飛んで見せて、欲しいんだ。ボクとキミが造った翼が、本当に、空を飛べるって……」
「分かった! ……分かったから、もう嫌なこと言わないで……お願いだから、黙っててよ」
天使は必死だった。
人形の手足は少しずつその動きを錆び付かせている。その上に、天使の零した涙が降り注ぎ、またそれが人形の動きを止めてしまうような気がした。人形が飛ぶことを諦めるよりもっと悲しいことが、今目の前に押し寄せているような気がしてならなかった。
人形の声は、外で吸い込んだ雨がノイズとなっている。それでも、人形の口調は優しく、そしてとぼけていた。
人形は死なない。けどそれは、死を知らないだけなのかもしれない。あるいは、今まで人形が宿していた鋼鉄の如き丈夫な意思は、こうして地上の雨に当たるたびに朽ちていくのではないか……丁度、天使が風で墜落するみたいに、人形の意志は今、翼の折れた天使のように消えかかっているのではないか……自分がそうだったからこそ、天使は必死だった。必死に、今までしたこともない人形の手入れをこなしていった。
そんな天使に、人形の「フフ」と笑う声が届いた。
「何だか、初めてキミに勝った気がするよ」
「……
……バカっ!」
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