その翼は鉄でできていた
七洸軍
第1話
この日、空に浮かぶ空中庭園は嵐の雲の中にあった。
煤のような真黒い雲。嵐の季節はまだもう少し先だが、先日やってきた黒雲は何かの悪意があるかのようにじっと空に留まり、優雅な空の街を覆いつくしていた。まだ雨も風もないが、いつ嵐が牙を剥いてきてもおかしくはない。
勿論大昔から飛び続けていた空中庭園都市群が、そんな嵐ぐらいで揺らぐはずもなかった。嵐が過ぎ去った後でも、平然と浮かび続けるのだろう。
そこに住む天使達もそう。
背に大きな翼をもって生まれた彼らは、多少風が吹いたくらいならなんということもない。嵐になったとしても、無限の空にいくつも浮かぶ庭園のどこかにじっと身を隠し、おさまった頃には何事もなく翼を広げるのだ。多少嵐の規模が大きくとも、それは変わらない。
ただ、この雲は少しだけおかしかった。いつまで経っても、大雨が降るどころか、吹き抜ける風すらも弱いまま、ただ重そうな雲を重ねに重ね、伺う者を脅しつけるかのよう。
……それに我慢出来なくなった天使がいたようだ。おそらく、適当な庭園で雨をやり過ごそうとしていたのが、一向に荒れる気配のない様子に痺れを切らしたのだろう。
天使は不気味に蠢くだけの煤雲の中へと、ただ一人、飛び立っていった。
空中では、庭園から伺う限りではわからなかった気まぐれな風がそこかしこに渦巻いていた。そしてそこに飛び込んだ天使は、早くも後悔し始めていた。
背中より生えた両翼は、おかしく吹き抜ける風を懸命に受け流す。はためくたびに風を飛び越え、追い風よりも速く滑空する。この嵐でさえ、天使を捉えることは出来ない。このまま行けば帰るべき庭園にも直ぐ辿り着ける。
……その筈だった。
目的の庭園はなかなか見えては来ない。
濃い雲に隠れてしまったせいだと思っていた。けど、方向が合っているなら、もう見えていてもおかしくはない筈。まさか風に流され方向がずれたのか、それとも鈍色の雲間に埋もれて見過ごしてしまっただろうか。……そもそも今いる場所は、自分の想像と合っているのだろうか。
そんな不安を抱えている内、それまで前から当たっていた気流が、突然横向きへと変わった。気持ちは否応に焦る。
……巻き込まれて地上へ落ちたりしたらいい笑いものだ。前に聞かされた「墜ちた天使」の話を思い出し、身を震わせた。
ゴミだらけの地上は酷い所だという。その天使も、地上に墜ちて帰ってきた仲間など聞いたことがない。空を飛ぶ為に生まれた天使が生きられる所ではないのだ。
天使は羽ばたく翼により一層の力を込めた。既に、両方の翼が疲れを訴えていた。
……ポツ、……ポツ、ポツリ……
冷たい雫の感触。とうとう雨が降ってきた。
帰るべき庭園は見えない。風も雨もどんどん強くなるばかりだ。
飛び立ってから降り出すだなんて、なんてついていないのだろう。もう引き返すことはできない。いよいよまずい事になってきた。
気づけば風は真後ろから吹き抜けている。方向も経路も随分ずれてしまったかもしれない。頭がぼうっとしてきて、よく分からない。疲れと冷たさに感覚の麻痺してきた翼は、雨を吸って重くなり、天使を地上へと引きずり落とそうとしている。
……もう庭園でなくていい。翼を休められる所が見えてきてくれれば、……もう少し雲が晴れるだけでもいい、……なんとか、翼を休めなければ……
朦朧とする意識の中で、天使が願ったその時……
ピシャアァ―――――ッ!
一条の閃光が走った。
蛇の舌のようにうねる雷は、空を駆け抜けようと懸命に持ち上げられた天使の翼を真っ直ぐに撃ち抜き、そして、
激痛に呻く声を上げる間も無く、その天使は雲海の蠢く中へと墜ちていった。
……もうその翼で羽ばたく事はできなかった。
天使は見知らぬ寝台で目を覚ました。
頭はおかしくない。何があったのか……即ち、自分が雷に撃たれたことは直ぐに思い出せたからだ。しかし、その後どうなってどうしてここにいるのかは、分からなかった。
ここには天井がある。だから、空からここに墜ちてきたわけではない。
そこは建物の中だった。床から始まり、壁、天井、そして横たわっていたベッドや調度品に至るまで、全てに木でできていた。その木の壁を突き破って伸びる機械部品もあちこちに見られる。
しかし何て下手な造りなのだろうか?
庭園では樹木は観賞用だ。建物も石の素材を使った永久材に、好みの壁紙を貼りつけるのが普通だ。木目が好きでも、腐りやすい木をそのまま建材に使ったりはしない。無粋な機械部品だって、その中に組み込んで見えないようにしてしまう。ここにあるようにむき出しにしたりはしない。
……ここは庭園ではないのだろう、きっと。私は、地上に墜ちたのだから。
思い、天使は背の翼に力を込めた。
先程から何かの違和感には気が付いていた。翼を広げれば明らかだ。
崩れた左右のバランス。
目をやれば、右の翼が半分無く、血の滲んだ布がそこに巻かれている。
一度軽く羽ばたいてみても、軽くなった右の翼が空気を掴む事は無かった。
もう飛ぶことなどできはしない。空中庭園には、もう戻れないのだろう。
……天使はそれだけを確かめて翼を閉じ、布団も何も敷かれていない寝台の上へと腰を下ろした。
「やぁ、目を覚ましたんだ」
その時、部屋の奥から誰かがやってきた。
何かの箱と、布の束と、そしていくつもの道具を両手一杯に抱えて近づいてきた、
それは人形だった。荷物の陰から覗く顔や手足、指の節々には、稼動用の球体が挟まっている。そこを通った鉄線が、顔と四肢と各々の指を動かしている。声や足音よりも小さなキィキィという音が、消されずに天使の耳まで届いている。
「ひょっとしたらもう目を覚まさないんじゃないかって心配したんだ。でも、助かってよかったよ」
部屋の隅に荷物を降ろし、人形は振り向いた。ビー玉のような目に天使が映る。
「……人形?」
「人形……キミ達天使は、ボク達の事をそう呼んでいるのかい?」
すっとぼけた……怒っているのか笑っているのかも分からない調子で、その人形は尋ね返してきた。何となく不気味なものを感じて、天使は頷くだけしかできなかったが、人形はそれでも十分だったらしい。何やら顎に手を当てて考えるような仕種を見せると、こう言った。
「そうか。ボクも天使と話すのは初めてだから、勉強になるよ。何しろキミ達は遠い空を飛んでいるばかり。どんなに会ってみたくても、地上に降りてきてくれないから」
「………」
「背中の翼は痛む? 我慢できるかい?」
天使は我に返った。
墜ちてきた自分をここまで運んできて手当をしてくれたのは、きっとこの人形だろう。
「……平気。動かしたときにちょっと痛むくらい」
「うん、それなら良かった。正直困ってたんだ。ボク達とは随分勝手が違うからね。何もできなかったわけではないけど、意識が戻ってくれる自信も無かった」
不器用な手当だとは、指摘できなかった。人形が何の設備もなくやってくれたにしては、この上ない出来だとは思ったからだ。
「でも、その包帯はもう替えなきゃいけない。また少し痛むかもしれないけど、我慢しておくれ」
「ここは何処?」
人形の言葉を遮って、天使は解りきった事を尋ねていた。
……そうせずにはいられなかった。認めたくなどなかった。
「ボクの山小屋さ。下れば町もあるけど、ここからだと遠いな」
「空中庭園じゃないの?」
「空中庭園? 空のお城の事を言ってるのかな? ……少なくともここは空の上じゃない。ボクらは空を飛べないからね」
それだけを聞くと天使は寝台から腰を上げ、部屋にあったただ一つの扉まで行き、
外へと通じる、その木の扉を押し開け――――
そして、天使は愕然となった。
見えたのは、一面を覆い尽くし、山となっている無数の機械部品。
そしてそれが何処までも続く地面。
ネジと針金、歯車とバネ。それに骨子となる鉄片。その内のいくつかが組み合わされた何かの部品。
全てが壊れているように見えるのは、乱雑に積み上がっているせいだろうか? ……いや、違う。本当に壊れているはずだ。
その全ては、空中を行き来する庭園都市群が捨てていったもの。壊れて、使いようの無くなった部品だ。
……そんな無用の残骸で出来上がった、これが地上。
空中庭園が壊れたり使われなくなった機械部品を地上へ捨てていたのは知っている。けど天使の誰もが、地上など見たこともなかったし、見ようともしなかった。地上は天使が寄りつきたくない場所であり、翼を持って生まれてきた天使は生きてはいけない所。
残骸だらけの風景を見て片羽の天使は、自分が“その”地上にいるのだという事を、改めて思い知った。
「住むところが変わったなら、戸惑うのも当然かもしれない。けど、ここもそんなに悪い所じゃないよ。確かにボク達から見ても、自由に空を飛び回るキミ達は羨ましくて仕方なかったけどね」
背後から、人形が慰めのような声をかけてくれたが、それは片羽の天使には聞こえていなかった。ようやく我に返ったのは、人形の固い掌で肩を叩かれてからだった。
「さぁ、中へ戻ろう。包帯を代えないと、キミの翼は本当に無くなってしまうかもしれない。……そうなったらボクも残念だよ」
傷……断裂された翼の切り口をそう呼ぶならば、傷は痛みを感じるほど深くはなかった。それが人形が塗ってくれた「薬」と称するもののおかげだというのは、こんな原始的な治療を受けたことの無い天使にも、容易に想像する事ができた。
痛みの知らない木製の胴体を持つ人形がそんな物を持っていて、なおかつそれを活用する方法を知っていた事については、「偶然」とだけ、本人は笑って説明してくれた。ともかく、それが翼を無くした天使の命を救うことになったのは確か。
しかし幸運であったわけではない。
「……どうして、助かったの」
「?」
包帯を替え終えた人形は首を傾げる。地上に住む人形が知るはずもない。
断裂された翼は、庭園の施設を使ったとしても再生することはできないだろう。即ち、再び空を飛ぶことは出来なくなったということ。生まれた時より空を飛ぶことを定められていた天使にとって、それは真に絶望を意味する。
「どうして、助けたりしたの?」
「どうして? 変かな? まだ息があったから、手当ができれば直ぐに元気になると思ったんだけど」
「余計な事!」
天使の怒鳴り声に、人形の目がクルクルとなった。
「あのまま死んでしまった方が良かった! こんな翼じゃあ、もう空は飛べないのに!」
「飛べなくたって、生きていけるよ。大丈夫、慣れるまでここにいればいい」
人形は笑った。笑って、ガンと自分の胸を叩いた。全て任せてくれと、そう言うように。
「あなたと一緒にしないで。わたしは天使。あなたは人形でしょ」
「そうだけど……」
「あなたは知らないかもしれないけど、天使はね、飛べないままで生きていけない! 生きている意味なんてないんだから!」
八つ当たり。人形は悪くない。天使にはそれが分かっていても、自暴自棄になる己の言葉を止める事はできなかった。
人形も、遂に言葉を失ってしまった。怒る天使にどうしたらいいか分からず、ただ鉄線の通る両手を、まごまごと絡ませるだけだった。
「……もう、放っておいて!」
天使はそう言ったきり、寝台の上に横になり、そっぽを向いてしまった。
……悪いと思ったから、それしかできなかった。それは自分で分かっていた。でも今更どうして人形に謝る事なんかできるだろううか?
もう空は飛べない。悔しいし、たまらなく悲しいけど、事実なのだ。
…………
「―――きっと」背後から人形の声が聞こえる。「きっと大丈夫、だから」
人形の励まし。しかしそれは、塞ぎ込む天使と、そしてどう慰めたらいいか分からない人形自身を、余計に悲しくさせただけだった。
互いに話す事の無い日が二日続いた。
その間、天使は家の窓から空を眺めてばかりいた。
墜落し天使が目覚めた時には、あの意地悪な黒雲はとうに過ぎ去ってしまっていた。空は本来の色を取り戻し、……いつものように、澄んだ空気が陽光にキラキラと楽しそうにしていた。
その小さな窓から見えるだけで、三つの庭園が空にある。
ずっと遠く、小さく……
勿論そこを行き交っているであろう天使の姿など、ここからでは見えはしなかったが、片羽の天使が巡らす想いは、もはや届く事のなくなったその空中庭園を飛んでいた。
ここの空は、庭園から見たものとあまりにも違っている。
空に浮かぶ空中庭園は青空を奪い地上に影を落としている。その上に雲が重なる日となると、地上はほんのおこぼれの様な陽の光が降りてくるだけ。飛べない者が這い回る地上では、青い空の全てが自分のものになる事などない。
天使はため息をつき、目を下の方へと向けた。
窓越しにも、地上を覆い尽くす機械の残骸は異様に見えた。
ネジと針金、歯車とバネ、管とクランク、鉄板に円盤。
ガラクタの山と言うにもまだ綺麗すぎる。
天使にとってここは、冷たいゴミの山。
歩くだけで素足を傷つける、残酷な大地。
翼を失くした天使が絶望する場所。地上はあまりにも過酷に出来ている。飛べなくなった天使が永く生きられないように。
「空に帰りたいかい?」
人形が声を掛けてきた。人形は、いつも机に向かって何かをしていて、目覚めたときのようにあれこれと声を掛けてくることはなかったのに。
どうしたのか、今日はあのビー玉のような瞳を一杯に開き、何やら調子良さそうにこちらへと歩み寄ってきた。
天使はそんな人形に一瞥をくれただけで、特にこれといった関心も無さそうに、また外から零れる光へと目を戻した。
「外ばかり見ていたからね。キミ達天使はあの庭園に住んでるんだよね。なら、帰りたいだろう」
「……それは、帰りたい。でも、帰れない」
「翼が無いから?」
「……あなたはわたしをからかいに来たの?」
天使が非難の目を向けると、人形は首を傾げた。
そしてフフッと笑ってから、一度後ろを向き、机の下に手を伸ばし、そこにあった物を天使の前に差し出した。
「キミにプレゼントだ」
「……いらない」
「外に出るのに必要になる。ボクの思い過ごしでなければ、キミ達の体はここの外を歩くのに柔らかすぎる筈だ。だから、痛くならないように。その綺麗な肌を傷つけないように」
……天使は人形の方に目をやる。人形の手には、機械でできた“足”が握られていた。確かに、これなら外を歩いても歯が足に刺さることはないだろうけど。
「それをつけて、人形になれっていうの?」
「交換するのは直ぐだ。きっと気に入ってくれる」
「バカみたい」
天使はそっぽを向いた。人形は、部品を握る手を少しだけ引っ込めた。
それを知ってか知らずか、天使はフウとため息をついてから、見えていない人形へこう言った。
「……わたしは天使。人形とは違うの。……そんな重いものをつけたら、歩くのだって不便よ」
足を切り落とせというのか、という言葉は飲み込んだ。人形に分かる筈がないことを指摘するのはさすがに八つ当たりが過ぎる。人形は気付く様子もなく言葉を続ける。
「なら、動力をつけよう。力を入れなくても動けるように。簡単だ。昔やったことがある。多分十日もあれば炉と骨ができる」
人形は十日で作ると言った。そういえば天使が目を覚ましてからは二日経っている。その間、人形はずっと机に向かって何かをしていた。紙に何かを描いたり、何かを組み立てたり……
「まさか、そんな足を二日もかけて作っていたの?」
「そう。そんな窓枠からじゃなくて、外に出て空を見られれば、気分も違ってくると思ったんだ」
「バカみたい」
人形が部品を取り落とした。ゴトンという、重たい音が部屋全体に、そして床を揺らす振動が天使のいる寝台まで届いてきた。
その音が消え、
部屋の全ての音が消え、
互いに沈黙が重くなってきた頃。人形は再び話し出した。話しながら、目一杯に両腕を広げて見せた。
「……そ、それじゃあ、外を片付けよう。キミのその足でも歩けるように道を造って」
「一体何日かかるの? そんな事してたら、十日じゃきかないでしょ」
「うん、きっとそうだろうね。でも大丈夫、失敗しない簡単な作業だよ。時間は少しかかるけど……」
「無駄。直ぐに空中庭園がまた残骸を捨てていっちゃうもの。片付けた道も埋まってしまう」
「だったら、まず大きな屋根を作ろう。機械の残骸がその上に落ちるようにして」
「それじゃ空が見えないでしょ」
そもそも何のためか、忘れたわけではないだろう。
指摘すると人形が固まってしまった。次に答えるべき手段を模索しているが、一向に浮かんでこないというような様子だ。
「……構わないで。わたしなんか」
「そんなことはできないよ」
「…………」
「きっと、大丈夫だ。頑張れば、きっと前よりももっと元気になるよ。空のお城にだって、きっと帰れる」
「“きっと”“きっと”“きっと”……、一体いつのこと? あなたの言うことをいくら続けたって、どうにもならないでしょ。翼はもう無いの。いくら頑張ったって時間の無駄よ」
「………」
しょぼくれる人形の様子を見て、さすがに天使も悪い気になった。
でも、どうしようもない。元気なんか出るはずもない。
天使はもう空を飛べないから。
生まれた庭園ではない、こんな残骸の山に捨てられるようにして、死んでいくのだろうと、その事ばかりが心を埋め尽くしてゆく。
……人形が一生懸命に励ましてくれているのは分かる。自分が、もっと元気を出せれば、人形だって喜んでくれるだろう。
「…………」
天使は人形の足元に落ちた足の部品に目をやった。
デザインと呼ぶにはあまりに恰好の悪い形。機械のゴミをつなぎ合わせて作ったなら、それも当然なのだけど。
人形は、こんな使えもしない部品を二日もかけて作っていた。それを思うと、馬鹿らしくあるけど……
…………
この人形が安心してくれるなら、ちょっとだけ……
天使は心に呟いて、その足を拾い上げた。
それは異様に重く、天使には片手で持ち上げる事はできなかった。一体中はどうなっているのか……外のがらくたを組み合わせて作ったのが分かっていても、そんな疑問が頭に浮かんだ。
「……要は、足が残骸に埋まる位置に触れなければいいんでしょう」
「?」
「そんなの簡単。……ちょっとだけバラすから」
それだけを言って、天使はそこに転がっていたドライバーを手にとって、人形の作った足部品の“中身”をほじくり始めた。人形は自分が作った渾身の道具を分解され、最初こそ慌てたが、天使が真剣になっているのを見ると黙って見守るようになった。
天使の額に汗が浮かぶ。
中からは、どうやって入っていたのかさえ分からないような大きな部品が、いくつもいくつも出てきた。取り出すのに難しくなってきた頃には、部屋の中はそんな残骸で一杯になっていた。よくもまぁ、これだけの部品をたかが両足の中に詰め込んだものだと、天使は改めて感心した。しかも、その一つ一つが何も意味をなさない物のように見える。
「何のためにこんなに詰め込んだの?」
「そうすれば丈夫になると思って」
「あのねぇ…」
「絶対に壊れないように。……失う辛さはボクにも分かるから」
「…………」
そう言われたら、もう何も言えなくなった。
「……こんなものかな」
残った外側だけの足部品を、天使は満足そうに見て回した。
あれだけほじくり返したのに、つなぎ目は思いのほか丈夫にできている。隙間もなく、そして頑丈だ。天使の足にはまだ重いが、その代償と思えばいい。そんなに都合のいいものは出来上がらない。
しかし中はまだデコボコしていて、指で触ると固いトゲのような突起が指に触れた。天使は自分が眠っていたベッドのシーツを破り、それを靴の中に敷いた。これで、触れても痛くはない。
「それをどうするんだい?」
「足につけるの。こうして」
言って、天使はその空になったパーツの中に、そっと足を入れてみた。
大丈夫、痛くはない。意外なほど大きさもピッタリだ。……人形が天使の足に合うように作っていたからだろうか?
「ね? これで……」
天使は、まず手始めに鉄くずで散らかった床の上を、そのパーツで覆われた足で歩いて見せた。
鉄の壊れる音がする。プチプチという、……塵の潰れる音だ。足は大丈夫。少しも壊れはしないし、天使の足も痛くない。
それは“靴”という道具だった。空で暮らす天使は勿論、元より丈夫な鉄や木で出来ている人形がそれを見たことなどないのだけど。天使と人形は、今始めてそれを目にしていた。
「すごい! こんなのが作れるだなんて!」
「何言ってるの。ちょっとした思いつきよ」
「それでも、すごいよ!」
予想していた通り、人形は諸手をあげて喜んでくれた。天使もまた、ほんの少しだけ嬉しくて、散らかった部屋を人形と一緒に歩き回りながら、その靴の感触を楽しんでいた。
「外! 外に行こう!」
当然人形がそう言い出すことも分かり切っていた。
もし人形が言い出さなかったなら、自分の方が言っていただろうと、固い手に引かれる天使は思っていた。
外に出たとき、空はすっかり薄暗くなっていた。気温が下がるに連れて出てきた雲が筋を引き、ずっと遠くのまだ明るい所へ飛んで行こうとしている、……その風景は、何故だかそんな不思議な絵に見えた。
庭園も勿論ある。
いくつも見えている都市群の中の、どれが帰るべき場所なのかは、ここからではよく分からない。
けど、天使の追う視線は、空高く、はるか遠くの方へと向けられる。そこにあるような気がしていたから。
雲が走り去るその絵の中で、日を追いかける影となった庭園は、自分から逃げているように、天使には感じられたからだ。
「いい天気だ。明日も晴れるよ」
そんな天使の気持ちに気が付かないように、人形は空を見て笑った。
「そうしたら、散歩してみるといいよ。地上は空中庭園よりもずっと広いから、きっと面白いものだって沢山見つかる」
「明日が晴れるだなんて、どうして分かるの?」
「晴れるよ。そんな気がする」
「……曖昧」
「条件は沢山ある。雲や風の感じとか、ボクの顔がどれだけ汗をかいているかとか、……きりがないけどね。でもボクの予想は当たるよ。だから明日は晴れる」
「そう」
関心が無さそうに、天使は返した。晴れたからどうしようだなんて、少しも思わなかったからだ。
足の具合はいい。転んだりしないかぎりは、ゴミの山の中でも怪我をする事はないだろう。
けど、だからどうだというのだろう? 天使の目に、空に浮かぶ庭園が見えた。捨てたゴミが地上に落ちる音が微かに聞こえた。
「………」
人形は天使が外を歩けるようになった事に、これだけ喜んでくれているけど、庭園が捨てていったゴミしか見えないこの地上で、天使の気を引くような何かなど、見つかる筈もないのだ。……空にそれまでに住んでいた庭園を見上げ、……あるいは、その場所への未練を断ち切るにはいいのかもしれないが、きっとその程度だろう。
フウゥーと風が吹き抜けた。涼しく優しい風だった。
風が吹けば空へ飛び立てる。庭園でいつもそうしていた天使は、
背の翼を、自然と、大きく広げていた。
左の翼が風を受け、籠もっていた熱を解き放った。空気の冷たさが、広がった翼をより一層大きくしてくれるような感覚……このまま足で地面を押すなら、庭園まで飛んで行けそうな気がした。気がしたのだけど……
無理だというのは分かっている。
今も包帯の巻かれた右の翼。途中で千切れ、今は半分にも満たないその翼は、目一杯に広げても、風を捕まえる事は出来なかった。
やはり駄目。どれほどの風が吹いた所で、もう庭園に帰る事はできない。
「飛べそう?」
「……分かりきったことなんか、聞かないで」
「これは大事な事だよ。キミが飛べるかどうか」
「無理に決まってるでしょう。翼がないのだから。翼の無い生き物が、どうして空なんか飛ぶの?」
「翼があったら、飛べるんだね?」
人形の言うことは、いちいち気に触った。どうしてそれ程、自分の傷口に触るような事を言うのだろうか?
天使がそうしてイライラを募らせていると……
「おいでよ」
と言って、人形は再び天使の手を引いて走り出した。
ガシャガシャと凄い音を鳴らして、残骸の上を走る。……靴を履いたばかりの天使は、その起伏に戸惑うばかりなのに、人形はおかまいなしである。
「一体何処に行くの?」
文句を言うように、天使は叫んだ。
けど人形は気づいていない。
「見せたいものがあるんだ」
嬉しそうな声でそれだけを言うと、天使を引っ張る手にさらに力を込める。
……文句を叫ぶ天使の声を聞いて、天使も楽しみにしていると勘違いしているのだろう。なんて鈍い人形だろうか?
天使は渋々、人形の後を懸命に追った。人形の言う、「見せたいもの」が気になったというのも、少しはある。
「何なの?」
「本当は、出来上がるまでずっと秘密にしていようと思ってた。キミに笑われたくないからね」
「だから何っ?」
「キミに必要なものだよ」
声を高ぶらせながらも、人形は結局それしか教えてはくれなかった。
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