ストロベリーヴァンパイア

赤猫柊

百年ぶりに雨が降った。

 百年ぶりに雨が降った。

 真っ赤な雨だ。黒く濁った安物の赤ではなく、酸素をたっぷりと含んだ動脈から流れる鮮やかな赤い赤い雨。鋼の檻をつたう血液がぽたりぽたりとしたたり落ち、浴槽を満たしていく。

 カミラはその白い肌を鮮やかに染めながら、天井に吊るされた棘の籠めがけてグラスを掲げた。

 器を満たすは、正真正銘本物の"生き血のカクテルブラッディ・メアリー"。


 あぁ、百年ぶりに浴びる生き血はなんと甘美なことか。


 カミラは至福のひとときを余すことなく味わうと、シャワーで全身を流し、浴室を後にした。


「カミラ様、お身体をお拭きします」


 メイドの衣装を纏った女性が一人。

 艶かしい裸体を前に恭しく頭を下げた。


「あら、逃げずにいたなんて。感心ね」

「当然のことでございます。わたくしはカミラ様の忠実なしもべですので」

「ふふ、身の程を弁えているじゃない」

「ありがとうございます」


 メイドはより一層深くお辞儀をした。

 この屋敷の使用人たちはことごとくが逃げようとしてカミラの餌食となり、主人と夫人も八つ裂きにされ、早々にこの世を去った。残った住人は、もはや彼女一人。

 メイドを見つめるカミラの瞳が三日月のように細まった。


「――じゃあ、そうね。この屋敷にはまだもう一人、エルフの女がいるでしょう? そこに案内してもらおうかしら」

「な、何を仰っておられるのか」

「あら、しらを切るつもり?」


 バスタオルを持ったメイドの手が微かに揺れる。

 カミラはメイドの頬に白い指を添えた。乳液を塗りこむかのように、いたずらにぐるりと円をかく。何度もくりかえし、ぐるりぐるりと。

 やがて、メイドはカタカタと音すら聞こえてきそうなほど震え始めた。


「痛い思いはしたくないでしょ」

「……ぅ、ぁ」

「正直になりなさい」


 カミラは指先にわずかに力をこめた。吸血鬼特有の鋭い爪がメスのように食いこみ、頬に緋色の線を刻んでいく。

 メイドの前髪は汗でべたりと張りつき、滲んだ涙がたらりと頬を流れ落ちた。

 恐怖に耐えきれなくなったのだろう。ついにメイドは裏返った声で、叫ぶようにカミラへ謝罪した。


「ももモ申シ訳ございまセん! カミラ様、おゆッ、お許し、ください!」

「あら、そんなに怖がるなんて失礼しちゃうわ。私はただ案内してってお願いしただけよ。それってそんなにおかしなことかしら」

「い、いえ、ですが――」

「それってそんなにおかしなことかしら」

「つッッ!」


 絹を裂くような悲鳴が脱衣室に響き渡った。

 カミラの爪がメイドの頬を貫通していた。ぼたぼたとこぼれ落ちる血が、白のエプロンドレスを赤く染めていく。


「ねえ、それってそんなにおかしなことかしら?」

「滅相もございましぇん、わたくひが間違っておりました」

「そうよね。安心したわ。じゃあ、案内お願いね」

「は、はい」


 カミラは優しく微笑むと、メイドの頬から爪を引き抜いた。




 一面のガラス窓。

 割れたグラス。

 新品のナイフ。

 冷めたローストチキン。

 爪痕の刻まれたローテーブル。

 真っ赤に染まったソファ。

 血溜まりに浸かった絨毯。

 そして、無数に転がるかつて使用人だったものたち。

 凄惨な屋敷の中をメイドが怯えながら進む。その後ろに続くは、赤黒のドレスを纏った吸血鬼だ。カミラは、血溜まりと肉塊で足の踏み場もない床をまるでランウェイを歩くかの如く、優雅に通り抜けていった。


「……ここです」


 大部屋を抜けて書斎へとたどり着く。一際大きな本棚の前でメイドが足を止めた。メイドはしばらく、ぼんやりと立ち尽くしていたが、カミラが「開けなさい」と告げることでようやく意を決したのか、ゆっくりとかがみ込んだ。

 棚から植物図鑑を取り出し、空いた空間に手を差し込む。カチリと何かが嵌まった音の後、本棚は大扉のように両側へと開き、地下へと続く階段が現れた。


「あらあら、なんとも御大層な隠し部屋ね。分不相応とはまさにこのことかしら」

「……」

「あなたもそうは思わない?」

「……はい。仰る通りでごさいます」


 カミラはメイドの返事に満足そうに頷くと、地下へ向けて足を踏み出した。

 カツン、カツンとふたつの足音が反響する。


 階段を降りた先には、隠し部屋というよりも独房に近いような石造りの部屋があった。

 部屋の隅では、一人の少女が両膝を抱え、震えていた。伏せた顔は長いブロンドに覆い隠され見えない。ブロンドの隙間から覗く矢尻のように尖った耳が、彼女がエルフであることを知らしめてる。


「……ゆ、ゆるし、て、ください」


 顔を上げることもなければ、立ち上がって逃げ出すこともない。ただひたすらに「ゆるしてください」とうわ言のように繰り返すエルフ。

 そんな光景を前にカミラの足が止まった。

 その時だ。

 背後のメイドが音もなく動いた。

 カミラの首筋目がけて貫手ぬきてを放つ。

 しかし、その指先が肌に触れることはなかった。


「……私ね。今、とても機嫌が悪いの」


 切断された腕が宙を舞う。

 不意打ちが失敗に終わったことを悟ったメイドの瞳に絶望がよぎる。しかし、一度牙を剥いた以上、もはや食らいつくしか道はない。


「どうしてかわかる?」


 逃げるのではなく、前に進むために。

 メイドは足を動かそうとして、その場に崩れ落ちた。理解よりも先に激痛が身を襲う。

 ついさっきまであったはずの両脚が、膝から下が切り離されていた。


「――うぁ」

「所有物に手を出された上に、こんなに雑に扱われて。……ねぇ、これで怒らない者がいるかしら」

「どうして、たかが一匹のエルフに、そんな」

「あら、それを言ったら、貴方も私も、たかが吸血鬼・・・でしょう?」


 カミラはボロボロになったメイドの首をつかみ、ゆっくりと持ち上げた。


「これは私のための食事、私のための食料よ。手を出して許されるなんて思わないことね」

「――ぁ」

「さようなら」


 カミラが指に力をこめると、メイドの首から下がぼとりと床に落ちた。そのまま、掌状しょうじょうに残った頭を一瞥し、やがて興味なさ気に放り捨てた。

 屋敷に住人はもう誰もいない。

 部屋に残ったのは一人の吸血鬼と、一人のエルフ。

 現実を拒むようにうずくまっていたエルフの少女は、気づけば顔を上げていた。赤く泣きはらした瞳がカミラを真っ直ぐに見据えていた。


「か、カミラ、さま?」

「ええ、私よ。フラウラ。迎えに来たわ」


 エルフの少女はカミラの元へよろよろと駆け寄り、血に塗れたドレスに躊躇なく抱きついた。


「カミラさま……カミラ様!」

「まったく、私が直々に迎えに来るなんて滅多にないことよ」

「ご、ごめんなさい」

「知らない人に勝手についていってはダメよ。貴方は私のものなんだから」

「でも、カミラ様の知り合いだって言われて」

「なおさら、ダメじゃない。吸血鬼の知り合いなんて吸血鬼なんだから」

「……ごめんなさい」

「まぁ…………無事でよかったわ」


 フラウラの頭を撫でようと手を伸ばしたが、ブロンドに触れる直前、その手に血がついていることを思い出して止めた。

 フラウラはドレスに埋めていた顔をあげると、ゆっくりとカミラから離れた。


「あの、カミラ様、匂いがちょっと」

「……う、それは、しかたないでしょ」


 エルフの多くは血の匂いを苦手とする。

 鼻を押さえて一歩後ずさるフラウラの姿に、カミラは小さく頬を膨らませた。

 しかし、フラウラの空いたもう片方の手はドレスの裾を握っており、視線を逸らしたカミラもその手を払い除けることはなかった。


「とにかく家に帰りましょう」

「はい」

「傷はない?」

「はい」

「自分で歩ける?」

「大丈夫です」

「血を抜かれたりとかしてない?」

「だから、大丈夫ですって」

「でも――」


 誰もいない隠し部屋を置き去りに、二人の話し声はゆっくり遠ざかっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ストロベリーヴァンパイア 赤猫柊 @rorororarara

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ