横になる男【ショートショート】

樋田矢はにわ

横になる男

 男がそこに居を構えたのは、半年ほど前のことだ。居を構えた、といっても、段ボールを敷いてその上に毛布を掛けただけなのだが。

 そこ、とはN駅の構内から地下街へとのびる地下道の途中である。N駅はいくつかの地下鉄と私鉄が乗り入れる巨大なターミナル駅で、そこから延びる地下街は日本一といわれるぐらいに発達している。と、同時に、男と同じように特定の家を持たない浮浪の人間には恰好の住処となっているのである。


 「まったく、住みやすいとこだ」


 男はひとりごちた。なにしろ屋根つき、というのが助かる。この入梅の時期、雨に濡れる心配をしなくてもいいのだから。しかも申し分のない広さ。彼らの世界につきものの、ナワバリ争いというものがないのである。辛いことといったら通勤途中の人々の冷たい視線や好奇の目にさらされることぐらいだが、それも毎日のことですぐに慣れてしまった。


 今朝もまた、スーツ姿でせかせかと急ぎ足のサラリーマンたちをぼんやりと見送る。男も半年前までは、こうして毎朝スーツを着、電車にゆられて通勤していたものだ。

 会社での男は、ごくごく当り前のサラリーマンだった。朝の7時に家を出、1時間半かけて出社。ちょっと残業して6時過ぎに退社。一杯飲んで7時半、それからまた1時間半かけて、妻と子の待つマンションへと帰るのである。仕事にも家にも大きな変化はなく、日々は淡々と、あっという間に過ぎ去っていく。

 そんな生活に突然恐怖を覚えたのは、40歳を目前に控えた年末のことだ。40という区切りを前に、ふと会社に入ってからの自分を振り返った男は、そのあまりの印象のなさに愕然とした。文字通り、同じことの繰り返し。それはそうだろう、平日は仕事、土日の休みは家族サービス。もはや自分の時間なんてものは存在していなかったのだ。自分が何をしたかったのかさえ、わからない。あっという間に40になるはずである。このままいったらどうなる? 男は先の見えない将来、いや、見えすぎてしまった将来に恐怖したのである。


 その年の大晦日、男は会社、家族、友人の前から姿を消した。


 その後はデタラメに電車に乗り、知らない街をさまよい、この地下道へとたどり着いた。幸いなことに年末のボーナスがまるまる手元にあったので、食い物には困らない。ホテルに泊まろうと思えば可能だったが、あえてそうしなかった。なぜかは自分でもよくわからないが、なるべく誰とも関わり合いたくなかったというのが大きな理由だろう。家族に対する後ろめたさみたいなものもあったかもしれない。

 ともかく、こうして男は日がな一日地下道の段ボールに横になって暮らす、浮浪生活に入ったのである。


***


 その日も男は段ボールの上で、地下道を行き交う人々を見るともなしに眺めながら、ごろごろと過ごしていた。そして人影もまばらになった午後2時半ごろ、ウトウトと眠りかけていた男の頭上を、人影が覆った。


 「まあ、おかわいそうに…」


 目の前に立っていたのは、中年の女だった。どこが胸やら腹やらわからないタルのような体と、厚く白く塗った化粧。そしてキンキラキンに輝く派手な洋服と貴金属。わかりやすく言えば、派手な格好をした中年のオバチャン、が立っていたのだ。

 一瞬、男には何が何だかよくわからなかった。さっきまでのうたた寝のおかげで頭がはっきりしない。ただ、派手なオバチャンが何かしゃべってるな、ということしか認識できていないのである。


 「…なのよ。これ、少ないけど取っといて」


 オバチャンは、ひとしきり話し終わると、男の傍らにひざまずいて、つやつやと光る蛇皮のバッグから何枚かの一万円札を取り出した。そしてそれを男の手にぎゅっと握らせた。


 「な…」


 呆気にとられた男が口を開こうとするのを遮るように、そのオバチャンは言った。


 「頑張るのよ、くじけちゃダメだからね」


 目に涙さえ浮かべている。

 と、そこに、「オッケーでーす」という男の声が響いた。それで初めて気付いたのだが、オバチャンの背後を、巨大なカメラを担いだ男や、照明を当てる男、集音マイクを構える男など、数人の若い連中が取り巻いていた。そのカメラには「NTV」という文字が入っている。どうやらテレビの撮影か何かだったようだ。

 「オッケー」の声がかかったとたん、オバチャンははね除けるように男の手を放すと、すたすたとスタッフたちの方へ歩いて行った。男には一瞥もくれようとしない。その冷たい横顔を見たとき、男はこのオバチャンの名前を思い出した。

 大沼美津子という女優である。毎日拾い読みしている新聞の芸能欄を、最近毎日のように賑わせている人物である。男が読んだ記事によると、その傲岸不遜な態度のおかげで各方面からバッシングに遭っているらしい。それがテレビなどで取り上げられ、一種のブームになっているようだ。なるほど、と男は思った。不遜な性格、というイメージをふっ拭するためのパフォーマンスだったのだろう。しかしその態度の豹変ぶりを見れば、叩かれるのも無理はない。だいたいこのパフォーマンスに効果があるとは、ここにいる誰も思ってはいないだろう。要はネタになればいいのだ。「大沼美津子バッシング」という美味しいネタをいつまでひっぱれるか。それだけが問題なのだ。

 やがて5分もすると、大沼美津子とテレビクルーの一団は男の前から姿を消した。むろん、男に話しかけることはもうなかった。そして後には、男と、大沼美津子に渡された札束が残されていた。

 なるほど、出演謝礼というわけか。男はそんなことを考えながら札を数えてみた。…7…8…9…10。1万円札がきっかり10枚。謝礼にしては豪勢である。


 「この金で、新しい服でも買うか」


 浮浪の人間ではあるが、男は身ぎれいだ。3日に1度は銭湯に行くし、着ているものもコインランドリーでこまめに洗濯している。金はいくらあっても困るものではない。変わったこともあるものだ。男はズボンの尻ポケットから取り出したサイフに、その10万円をしまうと、ふたたび横になった。


***                                 


 まったく、テレビの影響とは恐ろしいもんだ、と男は正直、舌を巻いた。おそらくあのVTRが繰り返し放送されたのだろう。大沼美津子の一件以来、男の地下生活は大きく変化を始めた。


 大沼美津子がやって来た翌々日のことだ。いつものように段ボールの上でうたた寝をしていた男の鼻を、キツイ香水の匂いが刺激した。薄目をあけると、またしても厚化粧の中年女の顔があった。


 「あなた、騙されちゃだめよ。あの女はあなたを利用しようとしているの」


 女は男の手をとると、芝居がかった口調でそう言った。女の後ろにはこの前と同じNTVのクルーたちの姿があった。


 「アタシはあんな卑怯な女許せない。断固戦うわ!」


 芝居がかったセリフはどんどん熱を帯び、ついには立ち上がっての演説になっていく。もう男のことなど眼中にない様子である。

 その様子をボーッと眺めながら、男は、ははあと思い当たった。こいつは女優の日下千恵子だ。大沼バッシングの急先鋒である。新聞によると、この日下千恵子と大沼美津子の対立がこのネタの基本的構図らしい。そしてそれぞれを支持する人物が現れ、中傷合戦を繰り広げているのである。


 「こんなかわいそうな人をダシにして! そこがあの女の浅はかなとこなの!」


 どうやら一昨日のことを言っているようだ。つまりは大沼美津子のポーズを逆手に取った、日下千恵子の逆パフォーマンスなのである。

 と、突然、日下千恵子は振り返り、男の手に何枚かの紙を握らせた。どうやらまたしても万札のようだ。大沼美津子のときと違うのは、日下千恵子はカメラの陰になるように、こっそりと握らせたことだろう。しかしそれも演出にすぎないことに、男は気付いていた。あからさまな大沼美津子との違いを強調したいのだろう。どうせ別の角度からもう一台のカメラが狙っているに違いない。

 日下千恵子は、オッケーの声がかかるとスタスタと歩き去った。大沼美津子のときと同様である。そして、男の元には10枚の一万円札が残った。


 その翌々日。男はいつもの場所で、大勢の取材陣に遠巻きにされていた。その数はざっと見たところ20人ほどであろうか。しかし、その中の誰一人として直接話しを聞きにくる者はいなかった。ワイドショーという舞台で、男のような立場の人間をどのように扱ったものか、判断がつきにくかったのだろう。

 結局、その20人からの団体は、2時間ほどかけて思い思いの角度から男の姿をVTRに収め、何も話すことなく帰っていった。

 そしてその奇妙な行事は、毎日行われることになったのである。


 地下街でただ横になっている男を、毎日2~3時間撮影しにくる何局かのテレビカメラ。男も始めのうちは、わざと寝返りを打ったりとサービスもしたが、3日も経つとカメラのことなど忘れてしまった。

 しかし、テレビカメラが回っている、という事実を周囲は見逃さなかった。男の周りには様々な人間が現れるようになった。

 最初にやってきたのは、あるボランティア団体の会長を務める、タレントの須藤信子だった。須藤信子はやってくるなり、男を指差しカメラに向かって叫んだ。


 「みなさん! 今この日本には、働きたくても働けない、この方のようなかわいそうな人が350万人もいるんです」


 彼女はどうしたらこういった人々を救えるのか、みんなで真剣に考えよう、と訴え、寄付と称して男に数万円を手渡して去っていった。


 次にやって来たのは、野党最大勢力である民政党を率いる神戸委員長だった。彼はカメラに向かって、与党の失業者救済政策の甘さを指摘、糾弾した。最初、男はこのよくしゃべる小男が誰だかわからなかったが、地下街を通りかかった労働者風の男が「いいぞ! イインチョー!」などと素頓狂な声を上げたおかげで合点がいった。民政党は「労働者の味方」を謳い文句にしていた。

 神戸委員長はひとしきり演説を終えると、男の方を向き直り握手を求めてきた。その後、委員長の秘書が持ってきた「謝礼」は驚くほどの金額だった。


 また別の男は、ある宗教法人の幹部を名乗り、我が教団に入信すれば、こんなみじめな生活をすることはないと男を熱心に勧誘し、その様子をテレビで流すことに成功した。


 男の元を訪れたのは、こうした有名人ばかりではなかった。ただテレビに写りたい若者、酔っ払い、人生に悩んだ主婦、ユーチューバーにお笑いタレント志望の2人組…。さらにはそういった放送が続くうち、女子高校生の間でブームになり、1日に100人近い女子高校生が押しかけた。男は何をするでもなかったが、彼女たちはスマートフォンで動画などを撮って、めいめい楽しんでいたようだ。

 そして男の元を訪れる人々が、それぞれ金額の多少はあれ、いくばくかの金を置いていく。おかげで男のサイフには、入りきらないくらいの金があふれていた。


***


 「じゃあ行ってくるよ」


 男は玄関を開けると、振り返らずに妻に言った。右手には大きなゴミ袋がぶら下がっている。今日はゴミの日なのだ。

 大沼美津子が初めて男の元に現れてから、1年が過ぎようとしていた。

 あれから半年ほどで、大沼美津子と日下千恵子の対立はほとんど話題にのぼらなくなっていった。しかし、男の前のカメラはその後もずっと回り続けている。

 男は、男の元を訪れる人々から得た収入でマンションを借りた。地下街のあるN駅から駅4つ離れた閑静な場所だ。今はテレビで男を見つけて飛んできた妻と子供と一緒に暮らしている。そのとき様子はまた恰好のワイドショーのネタになったのだが。


 ともあれ男は毎日電車に揺られ、あの地下道へと通う。そして段ボールに寝そべり、やってくる様々な人々と一緒にテレビカメラに収まる。単調な毎日だが、まぁそれもいいかな、と男は思う。嫌になればまたどこかへ消えればいいのだから。


 そんなことを思いながら、今日も男は、いつもの場所に横になるのだ。


(了)

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