谷原 真理<終>

 まだ大きく開こうとするままの瞳をどうにか休ませるようにそっと目を閉じながら、真理は夜が明けるのを待っていた。すると少しして、普段はあまり鳴ることの無いベルの音がスマートフォンから響いた。こうして電話をかけてくる人がいるとすればそれは大体実家にいる両親や三つ上の姉、もしくは優美くらいであり、もし緊急の用事だったらいけないと思い立って、真理は慌てて画面をのぞき込んだ。画面には「栄斗」の二文字が映し出されていた。それは最初確かに「栄斗」と書いてあることは分かったものの、果たしてそれが現実に起こっていることなのかはっきりと分からなくなってしまい、そうしているうちにその二文字はほつれるようにしてただの線と点の集まりのようにも見えてきて、しかしもう一度目を凝らしてみるとそれはやはり「栄斗」の二文字に見えた。真理は心臓が縮こまるような感覚を覚えながらも、時間にしてようやく十五秒ほど経ってから、ゆっくりと応答ボタンに指をのせた。

 「あ、…もしもし」

 端末の上の方にある小さな穴の奥から聞こえるその声に、真理の交感神経は素早く反応して、鼓動はすぐに速くなった。頭が真っ白になった後で脳が慌てて今の状況を整理しようとする。自分は今、ずっと会いたかったあの栄斗の声を、実に五年ぶりに聞いたのだ。真理は「もしもし」と答えた後、栄斗から電話が来たことの嬉しさをこの時実感し始め、続けてどうしたの、と尋ねた。慣れない状況から来る緊張と嬉しさで、声は少し上ずってしまった。栄斗は仕事の関係で家の近くの農大まで来たことで自分を思い出したといって電話を掛けてくれたのだった。理由は何でもよかった。何かの拍子で栄斗が自分のことを思い、連絡を入れてくれたことが、ただただ嬉しい。それでも、栄斗が今どんな状況にあるのか分からないままでそれを露骨に表しては何かまずいと思い、真理は意識していつものように落ち着いて話すようにした。栄斗は突然電話したことを謝ったが、それも真理にとっては迷惑でもなんでもなく、この喜んでいる自分を何とか栄斗に見てほしかった。真理はついに我慢できず、嬉しい、としっかりと気持ちを言葉にする。それはこの時の真理ができる、ある種の告白に近いものだった。「栄斗」の二文字を口に出すのが今までで一番難しく、今度は口の中で「エイト」という音が繋がりを捨てて、離れ離れになりそうだった。

「なんか懐かしいね」

栄斗が静かに答えてみせる。それはまるで、古びたアルバムの写真を見つめながら言うような温かさを持っていて、そしてそれは、すでに過去の時間軸に縛り付けられた、「終わったこと」に思いを馳せて昔を見つめている冷静さも併せ持っているように真理には思えた。私は、俺も嬉しい、という言葉が聞きたかったのに。

 「あれから何かあった?」と尋ねても、栄斗は何もない、というだけだった。それに合わせるように、真理も答える。自分も栄斗のことが最近になって思い出していたとは、言える雰囲気ではなかった。

「そういえば栄斗が大手に行ったって誰かに聞いたんだけどさ、卒業するくらいの時。その、どこに勤めてるの?言いたくなかったら大丈夫だけど、ちょっと気になっててさ…」

真理は少し勇気を出して聞いてみた。

「一応、青山ビバレッジってとこ。まだまだペーペーだけど」

真理は栄斗がそこに勤めていることが嬉しく思えた。当時から栄斗のことを応援はしていたけれど、その行く末を見届けることはできなかった。それが、数年経った今になって大成功といえるゴールテープを切っていたと知って、自分と違って、真面目に頑張っていた栄斗に改めて惚れ直していた。それから自分がマルヤマに勤めていることも素直に褒めてくれた栄斗が、なんだか寛大に思えた。やはり、私はこの人が好きだと真理は思った。

 「本当はもっと早く言うべきだったと思うんだけど」

栄斗が低く落ち着いた声で切り出した。真理は次に何を言われるのかという恐怖に襲われ、自分にとって良くない知らせでないことをごくわずかの間に祈る。次に栄斗は、もう一度真理に謝った。真理も慌てて、自分の至らなかった点を謝る。本当は、自分から謝るべきだと思っていた。そうすることで、大好きな人が目標に向かって努力しているというのに、その人が自分から離れていかないように引き留めようとした卑怯な自分の存在を消し去りたい、それでも、真理はそれをそのまま口に出すことはできなかった。

「うん…」と真理がいって、それから二人とも黙った。真理はこの静寂を破りたくて、それでも何を言えばいいのか分からなくて、やがて真理は意を決して「反省してるからさ」と切り出そうとしたとき、

「だからさ」

栄斗が少し早く口を開いた。真理は思わず息をのみ、また心臓が一回り縮むような思いを味わった。反省してるから、私は———。

「なんか、やっと報告ができてよかった」と栄斗は続けた。それは少しおどけたような言い方であったように真理には思え、何か一つの出来事が載ったページがそこでパタン、と閉じられたような気になった。真理はまた栄斗に合わせ、栄斗がちゃんとしたところに行けたって知れてよかった、とできるだけおどけ、明るい声で答えた。

 それから栄斗とは色々な話をした。真理は大学のこと、二人でよく一緒に行った店のことを話した。思い出してもらいたかったのである。栄斗に、二人で一緒に見た景色を。そして彼が少しでもそこに映る自分の姿を記憶の中でなぞり、その姿がもう隣にはないことを心のどこかで悔いてくれたなら、嬉しかった。その話をしている最中、真理は少し泣きそうになるのをこらえながら、いつも栄斗と話していた時のように自然に、笑う時は声を上げて笑い、平然を装った。

 周りの友人についての話題になった時、ふと優美のことを話す。優美が取引先の人に目を付けられているということを何となく話しかけた時、しまったと思った。その話が、何か、禁忌とされているわけではないけれど、踏み込んではならない暗黙のルールの底の方にうっすらと存在しているところに触れるものであるような気がした。でも、もう止められなかった。この思いを止めたくはなかった。真理は、ついに尋ねた。でも彼の返答は、望んでいた答えではなかった。


 私は、彼がまだ私のことを想っていることに淡い期待を抱いていた。また彼が私のことを求め、また昔のような関係になりたいと強く思っていた。最後の望みだった。栄斗が、私のことを忘れられないと言ってくれるのが。彼の気持ちを知りたくて、私はあの質問をした。彼は「いないこともない」と言った。それは、もう大切な人がそばにいることが私には言いづらいから、私が万が一傷つかないように、攻撃性のある言葉で真ん中を抉られないように気を遣った、私の大好きだった栄斗の最後の優しさだったのだと思う。きっと彼は自信をつけてより素敵な男性になり、本当に駅前の商店街で会った、あるいは夢の中で会った女性のように美しくて素敵な人と一緒になり、幸せになったのだと分かった気がした。私はもう、彼の人生の登場人物ではなくなっていたのだった。

 夢のような時間だった。もう二度と会えないと思っていた、好きで好きでたまらなかった人の声を聴き、癒され、心の棘が一本、また一本と溶けて行くような心地。私は遠い思い出の中でしか彼の顔を見ることはできなかったけど、彼は笑って私の話を聞いて、時々困ったような顔をして私を見つめ、そしてまた笑ってみせて私を楽しませて。彼の優しさに、私はあのままずっと包まれていたかった。そのまま眠気に襲われる夜が、本当に幸せでかけがえのないものだった。彼は最後におやすみ、と言って電話を切った。いつもそうしていたように。眠りにつく前の、おやすみ、という栄斗の声はさらに丸みを帯びた一層の優しさと愛おしさを持っていて、その一言が次に目覚める前の最後に聞く声であることが幸せだった。

 私は私の隣に、いつかの夢の中で見た栄斗の横顔を思い出す。私はそのまま彼を見つめ、静かに涙を流した。もう二度と、彼と見つめ合うことも、話すこともないのだろうと思った。さっきまで窓を静かに叩いていた雨はやみ、少し体を起こして外を見てみると一面に潤いを得たアスファルトが広がっている。私は思い出す。ペトリコール。栄斗が私に見せてくれた世界。私の恋は、それがそこに確かにあった匂いを残しながら、それでもあなたに気づかれることはないまま、やがて消えゆく。

この、真夜中のペトリコールのように。

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真夜中のペトリコール なかのぶ @naka_nobu

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