吉村 栄斗<終>

 「またいつか話せたらいいね」

 それが最後の言葉だった。でもそれは、恋人として、という意味だった。栄斗に別れを拒む権利は保証されていなかった。恋人同士でなくとも、人と人の繋がりというのはそのどちらか片方がその関係の終結を望んだ時点で、確実に終結へと向かうようにできている。もしその関係を続けたいともう片方がどんなに強く望んでいたとしても、それは相手にとって負担となるという事実の前では、一切の効力を持たなくなる。この時栄斗が分かっていたのは、もうどれほど猛省しても、どれほど愛する気持ちを語っても、すでに真理の恋人でいることは不可能であるという残酷さだった。それを受け入れて別れを告げたくても、その代わりに真理のことを愛している自分しか出てこなかった。二十歳を越えてまでこれほどまでに泣きじゃくる姿は、我ながら哀れな男であると思った。ただ、ずっと、真理と一緒にいたかった。

 あれから五年以上の月日が経つなか、一度として彼女と話したことはなかった。若いながらも互いを信頼し愛し合っていたはずの二人が、あの時から赤の他人としてそれぞれの人生を歩み、その人生の登場人物の中からすっかりいなくなるというのは、人間とは不思議なものだと思える。栄斗はソファに寝ながら天井を見つめていた。最近は、ずっと真理のことを考えていた。今、元気にしているのだろうか。仕事は何をしているのだろうか。辛いと思うことはないだろうか。だがもし今真理が辛いとしても、彼女を救うことができるのは、もう自分ではない他の誰かなのである。それはいったいどんな人なのだろうか。今だったら、もう決してすれ違わないように真理のことを大切にするのに、彼女が求めるのは別の男性なのだ。それが、今になっても胸の痛みに変わる。

 「うん。私も栄斗とまた会って話したい。今まで楽しかった」

真理の返答。そう言ってくれたことが嬉しくて、でも、それならこれからも一緒にいようという一言を、栄斗は飲み込んだ。それは別れを告げる女が恋人に最後に向ける、情けと建前の言葉だと思ったからだった。今自分はその言葉を聞いて本当に嬉しいのに、真理はそう思っていないことが、悲しかった。

 今真理と話をしたらどんなことを話せばいいのだろう。伝えたいことがたくさんある。あの時、もうこれから会えなくなる人には話せなかった、本当の気持ち。栄斗は変わりたかった。もう二度と真理に会えないことになっても、嫌われてしまっても、自分の過去を清算したかった。別れを告げられた男の、数年越しの我儘だった。

 栄斗は思い切って、真理に電話をかけた。




 「どうしたの?」

数年ぶりに聞く真理の声だった。動揺しているのか緊張しているのか声は上ずっているような感じがし、それは初めて彼女と話した時のことを思い出させた。経済学についての授業だった。真理と話すことで何か過去を清算できるような気がして電話を掛けたのは自分でも分かっていたが、つい勢いでかけてしまったこと、思いのほか真理が電話に出てくれたことで栄斗は混乱し、「ん、なんか最近仕事で農大に行ってさ、何か、真理のこと思い出して」と歯切れの悪い返事をしてしまった。

「そうなんだ…今何の仕事してるの?」

「なんて言ったらいいかな、まあ、メーカーの営業みたいな感じ」別に濁す必要はなかった。

「そっか…。大変そうだね。元気?」真理が尋ねる。本当に愛おしい声だった。高くもなく低くもない透き通るようなこの声が、本当に好きだった。

「うん。まあまあうまくやってる。…そっちは?」真理、と呼ぶことができなかった。

「私もまあまあ。ほんとに久しぶりだね」なぜ今になって電話をかけてきたのかと改めて聞かれるのが、栄斗は怖かった。

「うん。ごめん。急に電話なんかして」また、すぐ謝る。嫌われないように。

「いや…大丈夫だよ」

「うん…」

「嬉しい」…何が?

「何が?」

「なんか、栄斗とまた話せて」栄斗、と女性に呼ばれるのが久しぶりに思えた。その新鮮さは栄斗の心音をトクン、と高鳴らせる。名前を呼んでもらえるというのは、こんなに嬉しいことだっただろうか。

「なんか懐かしいね」俺も嬉しい、と答えられない。「懐かしい」という一言に、その意味をそっと込めた。

「…うん、…あれから何かあった?」あれから、というのは別れてからだろう。

「いや…特に。普通に就職して、働いて、うん。特に何もない…。真理は、仕事は?」

もちろん、何もないわけではなかった。

「私もずっとそう。今出版社で働いてるんだけどさ、うん、特に何もないよ」

「まあ、そんなもんだよな」

「…うん。そういえば栄斗が大手に行ったって誰かに聞いたんだけどさ、卒業するくらいの時。その、どこに勤めてるの?言いたくなかったら大丈夫だけど、ちょっと気になっててさ…」

「そうなんだ。一応、青山ビバレッジってとこ。まだまだペーペーだけど」一応、と一応つけておいた。

「すごいじゃん!良かったね!」

嬉しそうな声が聞こえた。真理に喜んでもらえて栄斗も嬉しくなり、自分が誇らしく思えた。

「栄斗、頑張ってたもんね。ホントにすごいよ」

頑張ってた、という一言に胸が痛んだ。そのせいで、真理に嫌な思いをさせてしまった。それでも今、真理が喜んでくれている。あの時必死になったのは、いい企業に入って真理に良いところを見せたいという見栄もあったのだろう。そうして初めて、正々堂々と真理と向き合えるようになる気がしていた。それが実現する前に離れてしまうなんて、当時は想像していなかった。その軽率さは、完全に自分の落ち度だ。

「うん、ありがとう。真理はどこに勤めてるの?」それは前から気になっていることだった。

「マルヤマ出版だよ」

それが出版社の中でもホワイト企業として有名で人気であり、入るには難しいことは知っていた。たしか出版業界を志していた大学の時の友人が落ちてしまったところだ。

「え、すごい難しいところじゃん。真理、すごいな」

嬉しいのは確かだったが、悔しさも、羨ましさも抱いた。真理は、マルヤマ出版に入社したのだ。自分のように、何も考えられないほどに就活ばかりに打ち込んでいたわけではなかったのに。真理はあんなに自然体でいながらしっかりと結果を残していた。当時必死にならない彼女のことを見下していた自分が、さらに恥ずかしくなった。

「ありがとう。」優しい声がした。

「やっぱり、真理はすごいな」

「そんなことないよ」

「…」

「…」

「ほんとはもっと早く言うべきだったと思うんだけど」栄斗は勇気をもって切り出した。

「ごめん、就活の時全然真理のこと気にかけられなくて」

「え、いや」

「俺あの時全然真理のこと考えてなかったと思う。今になって。もうちょっと真理に会ったりできたはずなのに、連絡とかもろくにしなかったくせに、別れたくないって駄々こねて…。本当にひどかったと思う。ちゃんとまだ謝ってなかった」

「うん…いや、私も栄斗のこと応援してあげればよかったのにしつこく連絡取ってたと思うし、いつも何も考えてないくせに大丈夫だよ、とか余裕見せてて、私も栄斗のことちゃんと考えてなかったと思う…ごめん」

「いや、真理は悪くないよ。…別れてから真理のこと考えないように勉強ばっかして、俺真理のこと思い出すまでちゃんと反省してなかった」

嘘偽りのない、本心だった。

「うん…」

重苦しい空気が漂った。次の言葉は何を言えばいいのか。…本当は、こんな話がしたいわけではなかった。少しでも変わった自分を真理に見てほしくて、そして、本当は———。

「だからさ」

「…うん?」

また俺と———。

「なんか、やっと報告ができてよかった」

「うん、私も栄斗がちゃんといいところに行けたって知れてよかった」

「良かった、電話して」

また俺と、会って、やり直してほしい。その一言が、言えなかった。

 それから二人は時折黙っては話すのを繰り返しながら他愛もない話をした。昨年二人の通った大学が創立百二十周年を迎えたこと、職場のある街がここ五年の間に変わったこと、最近知ったアーティストのこと、新しい料理に挑戦してみたこと、転職した共通の知人のこと。気が付けばこれまで会うことのなかった五年余りの歳月が嘘のように、二人は次々といろんなことを話した。まるで三日前に会ったばかりの恋人のように。

だが、真理の大学の友人、ユミさんが取引先の人から言い寄られているという話になった時、二人の呼吸は少しの間止まったようになり、それから「栄斗はいい人いないの?」と真理が尋ねた。

「まあ、いないこともないけど、んー、って感じ」と栄斗は少し考えてから言った。言えなかった。未だに自分が真理のことを忘れられないでいることを知られたらどうなるだろうか。迷惑に思われるのではないだろうか。真理は自分の気まぐれでかけた電話に出て、あの時のようにリラックスして話し、笑い、そしてその余裕は、精神的な充実からきているのだろう。今もこんなに気立てが良く、こんなに愛おしく優しい声で話す彼女にはきっと素敵な恋人がいて、それは本当に幸せなのだろうと思った。他愛もない話をし、自分がその声に心を染み入らせていることも彼女は知る由もないし、大学の話とか、いつか一緒に行った店がつぶれてしまった話とか、思い出を掘り返すような話をすることにも深い意味はなかったのだろう。それを分かったうえで、まだ君のことが忘れられないということを、栄斗はどうしても言えなかった。

 気が付けば夜の街は次第に光を失って、辺りはすでに真っ暗な静寂にくるまれていた。本来であればかすかに聞こえる虫や鳥の鳴き声のような音や、どこかの家からか聞こえる物音は、静かに降り始めた雨の音に隠れている。愛していた人の声を聴いている幸せな時間にも眠気は容赦なく瞼を重くさせ、栄斗はまた空に明るさが生まれる前におやすみ、といって電話を切った。

 終わったはずの恋の、始まりと終わりが同時にそこに存在していた。栄斗はせめて夢の中で真理に会えるようにと願い、静かに目を閉じた。

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