灰色の明日

 ごめんなさい。それがあの人の最後の言葉だった。行かないで、とは言えなかった。きっと発作が起こっていなかったとしても言えなかっただろう。あの人の優しさに甘えて、付け込んで、縋りついて、そして最後に謝らせてしまった。そんなわがままで無責任な私に罰を与えるように、縁談の話はとんとん拍子で進んでいった。


 久しぶりに外に出て、いろんな人に会って、だけど私の気持ちはずっと沈んだままだった。出会う人は皆、私の容姿を褒めるばかりで、誰もそれ以上踏み込んだ話をしては来なかった。特別な才能があるわけでもない、社交界とも縁のない私が、ただのお飾りでしかないことを皆わかっているのだ。

 彼は仕事熱心で私にはほとんど関心を持っていないようだった。私に与えられた役割は、彼の隣で人形のように静かにほほ笑むことだけ。後でわかったことだが、彼には前妻との間にすでに子供がいた。彼はいかなる形でも私に向けて愛情を注ぐことはなかった。

 あの日からずっと、私は夜になると空を見上げてじっと目を凝らしている。屋敷を離れてしまった今、あの人が私の前に現れることはもう二度とない。頭ではそうわかっていても、どうしても暗い夜空から目を離すことができなかった。


 そしてついにその日はやって来た。用意された純白のドレスは高価な装飾がふんだんにあしらわれたものだったけれど、なぜだか美しいとは思えなかった。式場は色とりどりの花で飾られ、見知らぬ人たちが何やら楽しそうに話をしている。私はこの花たちと同じだ。どこへ行くこともできず、ただ花瓶の中で枯れるのを待つことしかできない。私は近くの花瓶に飾ってある花に目を向ける。その中の一本をそっと抜き取り、髪を編んでそこに挿した。それが私にできる精いっぱいの抵抗だった。

 滞ることなく式は進み、時間は淡々と過ぎていく。どうしてこれほどまでに空虚な気持ちになるのか、自分でも不思議だった。屋敷の中で花を愛でながら静かに暮らしていく、その生活が変わるわけではないのに。やっぱり私はあの時、魔女に魅入られてしまったのだろうか。あの人との思い出は心に強く焼き付いて少しも色褪せようとしない。きっと一生この痛みに似た感情を抱えたまま私は生きていくのだろう。

「それでは誓いのキスを」

 青く晴れ渡った空の下、ついに私たちが夫婦になる時が来た。彼の顔を見ても何の感情も湧いてこなかった。きっと向こうも同じだろう。私はゆっくりと目を閉じた。


 ……何かが聞こえる。人の話し声ではない。どこか遠くから、何かが近づいてくる。これは——。


「……おい、なんだあれ?」

 誰かがそう呟いた。見上げた空には無数の黒い影が舞っている。そして次の瞬間にはその影はこちらに向かって急降下してきた。それは数十羽にもなろうかという烏の大群だった。誰かの悲鳴と鳥の羽ばたく音が入り混じり、一瞬で式場は大混乱に陥る。

「魔女だ!」

 その一言を聞いた瞬間、驚きも恐怖もすべて吹き飛んでしまった。そして立ち尽くす私の前にひと際大きな影が舞い降りる。そこにいたのは狼の体に烏の頭と翼をくっつけたような漆黒の怪物だった。

「ひぃぃっ!? 化物!?」

 私の隣でただ狼狽えていた彼は、その怪物を見ると一目散に逃げだした。すると怪物は彼のことを目で追いながら翼を大きく広げる。

「アイラ、あいつ食っていいか?」

「やめときなさい。汚れるでしょ」

 私の心の中で何かが弾け、それと同時に心臓が脈動し、全身に血が巡っていく。怪物の背からひらりと降り立ったのは、夜空のように深い黒を全身にまとった魔女、私がずっと待ち焦がれていた人だった。やっと出会えたのに、私は思うように言葉が出てこない。彼女はそんな私にゆっくりと手を伸ばし、髪に挿していた花をそっと抜き取った。

「黄色い百合……花言葉は、偽り。そうだよね?」

「アイラさん……」

「これをあなたに」

 そう言って彼女は懐から何かを取り出す。それは綺麗なペンダントだった。彼女の瞳と同じ色をした紅い宝石があしらわれている。美しくも妖しい輝きを放つそれはまさに魔法の品という感じだ。

「ちょっと遅くなっちゃったけど……誕生日おめでとう」

 私の中でゆっくりと何かが解けていく。婚約者の彼に対してはついに抱き得なかったものを、私は今はっきりと自分の中に感じている。それが決して許されないものだとわかっていても、湧き上がる気持ちを抑えることなんてできなかった。

「……やっぱりアイラさんは臆病なんかじゃありません。こうして私を助けに来てくれました」

「それはちょっと違うかな」

「え?」

「私はあなたをさらいに来たの」

 そう言ってアイラさんは優しく私の手を取る。私たちが初めて出会ったあの夜と同じように、お互いの意思を、存在を確かめるように、静かに見つめ合った。すると逃げ惑う群衆の中から狂ったような叫び声が聞こえた。

「あああ! 離せ、離せっ! その子に、私の娘に手を出すなァ!」

「父上……!」

 アイラさんはただ静かに叫び続ける父上を見つめている。きっと魔法を使えば父上を黙らせることなど造作もないはずだ。あえてそれをしないという事は、アイラさんは私にすべてを委ねてくれているという事だろう。そして私の心はもう決まっていた。ただ花瓶の中で枯れ朽ちていくよりも、一瞬でもいい、確かな生の輝きを。そして行く先のわからない灰色の明日だとしても、アイラさんと共に歩む未来を。

「父上……今までありがとうございました」

「シャーロット……!」

「私、この人と一緒に行きます。……誰よりも、この人のことが好きだから」

 それを聞いたアイラさんはパチンと指を鳴らす。すると烏たちが一斉に羽ばたき、式場に黒い羽根と色とりどりの花を散らせる。吹き荒れる風がすべての音をかき消し、私の体を攫って行く。

「本当に、これでいいのね?」

 空中を舞い踊りながら、アイラさんはそっと私に囁きかける。繋いだ手から彼女の温もりを感じる。やっぱりアイラさんは優しい魔女だ。攫うなんて言っておきながら、最後まで私の意思を尊重してくれた。だからこそ私の決意が揺らぐことはない。そう確信することができた。

「はい。……あなたを愛し続けることを誓います」

「魔女に誓いを立てるなんて……相変わらず不用心なんだから」

 そう言ってアイラさんは小さくほほ笑む。ただ風の音と烏の鳴き声だけが二人を祝福しているようだ。私たちは怪物の背に乗って晴れ渡る空へと飛び立っていく。純白のウェディングドレスが陽の光を受けて美しく輝く。アイラさんと見る青空は、今まで見たどんな景色よりも綺麗だった。

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魔女と令嬢、猫を殺す花 鍵崎佐吉 @gizagiza

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