漆黒の魔女
それからも七日に一度、私はシャーロットの屋敷をこっそりと訪れた。シャーロットは私の要望に応じて様々な物を用意してくれた。チューリップやヒヤシンス、ラベンダーの香油など、猫にとって有害となる物を私はかき集めた。そして決して長い時間ではないが、シャーロットと二人で色んなことを語り合った。シャーロットはとても好奇心豊かで、魔女や屋敷の外の世界の話を聞きたがった。
「あの、失礼かもしれないんですけど……アイラさんっておいくつなんですか?」
「十九歳よ」
「え、そうなんですか!? 大人びて見えるから、もっと年上かと思っていました」
「そういうあなたはいくつなの?」
「十七歳です。来月には十八になるんですよ」
「あら、てっきり十五くらいかと思ってたわ」
「ええ!? 私ってそんなに子供っぽいですかね……?」
今日この日まで私たちが歩んできた道のりはまったく異なるものだろう。本来であれば私たちは決して交わることのない存在なのかもしれない。それでも明るく無邪気な彼女と話していると、心が安らいでいくような気がした。
「それにしてもどうしてこんな辺鄙な場所に住んでいるの? 貴族なら都に近い方が何かと便利じゃない?」
「もともとここは別荘で、二年前に越してきたんです。母上も私と同じでお体が弱く、私が十歳の時に流行り病で亡くなってしまいました。それ以来父上は極度の心配性になってしまって……都は空気が悪いからと言ってここに住むことにしたんです。でも越してきてからも、山には危険が多いからと言って私を外に出してくださらない。それが父上の愛情なのだというのは、わかっているつもりなんですけど……」
「……そうだったのね」
親を知らない私には彼女の気持ちはわからない。どんな言葉をかけても慰めにはならないだろう。だからこそ彼女のために何かをしてあげたいという気持ちは日に日に強くなっていった。
私が森の中の隠れ家に帰ってくると、玄関の前でジャックが待っていた。ジャックはその足元をくちばしで何度かつつく。そこには黒猫の死体が転がっていた。
「どこで見つけたの?」
ジャックはその黒いつぶらな瞳を輝かせながら流暢に答える。
「川の近くを飛んでるときに見つけた。この辺を嗅ぎまわってたみたいだから仕留めておいた」
「ご苦労様。あの辺りにもまじないをかけておいた方が良さそうね」
「なあアイラ、これ食っていいか?」
「だめに決まってるでしょ。使い魔なんて食べたらお腹壊すわよ」
烏は利口で従順だが、悪食で何でも食べたがる。長所があれば欠点もあり、完璧な使い魔というのはなかなかいないものだ。私は家の中に入り、マントを脱いで横になる。シャーロットの協力もあって今のところはうまくいっている。しかしこれからどうするのか、将来の展望というのはまだ見いだせていない。
——もし、シャーロットと一緒に暮らせたら。
気づけばそんな妄想をしてしまっていた。彼女のことを好ましく思っているのは事実だが、それが実現不可能なことくらい誰にだってわかる。彼女は貴族の令嬢で私は孤独な魔女、そしてお互いに決して自由とは言えない状態にある。今のこの関係がいつまで続くかだって定かではないのだ。余計な期待は抱かない方がいい。それでも彼女のことを思う度に、私はもう一度会いたいと思ってしまう。このままだと本気で抜け出せなくなってしまいそうだった。
——彼女の誕生日に贈り物をしよう。そして、その日で会うのを最後にしよう。
それが一晩考え抜いた末に出した私の結論だった。
私はまた屋敷の庭へと降り立つ。今日を最後にもうここを訪れることはない。彼女への贈り物は厄除けのまじないをかけたペンダントにした。持ち主に魔法の加護を与え、病や災いを遠ざける効果がある。私がいなくなってもきっと彼女を守ってくれるだろう。これを渡され、そして別れを告げられた時、シャーロットはどんな顔をするだろうか。あまり想像したくはなかった。
私は意を決して小屋の戸を開ける。シャーロットはいつもと同じようにそこで私を待っていた。
「あ、アイラさん……お待ちしておりました」
私は少し違和感を覚える。なんだかいつもよりシャーロットの元気がないように思えたからだ。もしかしたらどこか調子でも悪いのだろうか。私の決意は早くも揺らぎつつある。
「今日は少しお話したいことがあるんです」
「……何かあったの?」
「今日、父上に言われました。お前も十八になったのだから、そろそろ身を固めよ。相手はすでに見つけてある、と」
「それってまさか……」
「……お相手は十歳上の実業家の方だそうです。きっとお前を幸せにしてくれる、郊外に私のための新たな別荘も建ててくれるから心配はいらないと、父上はそうおっしゃっていました。ですから、直にこのお屋敷からも離れなければなりません。だから……」
シャーロットは言葉を詰まらせる。そして私の中でも、今まで感じたことのない感情が渦巻いていた。どうして私はこんな気持ちになるのだろう。今日で最後にすると、そう自分で決めてここに来たのではないか。なのに、なぜ。
重苦しい沈黙を破ったのはシャーロットだった。
「私……ずっと外に出られなくて、だから母上が亡くなってからは、お花しか心を打ち明けられる相手がいなくて……。そんな時にアイラさんに出会ったんです。アイラさんは優しくてかっこよくて、自分の力でどこにだって行ける……。私もそんな人になりたいなって」
その真っすぐな眼差しに、心を深く抉られているようだった。シャーロットに偽りの自分を信じさせたまま離れ離れになることに、私は耐えられなかった。
「……違う」
「え?」
「私は、あなたが思ってるような人間じゃない」
「そんなことありません……! だって——」
「私はずっと逃げてきた。逃げて、逃げ続けて、それなのに誰かを救いたいと思ってしまった。臆病で無責任な私には、あなたに尊敬される資格なんてない」
「アイラさんは臆病なんかじゃありません! 私のわがままを聞いて、危険を承知でここに来てくれました! だから……!」
その時、シャーロットが口元を抑え急に咳き込み始めた。しばらく待っても彼女の様子が良くなる気配はない。体が弱いと言っていたし、何か持病があったのかもしれない。心理的な重圧や急激な感情の昂ぶりによって発作が起きたのだろう。
薬学の知識なら多少はあるが何の準備もないこの状況では手の施しようがない。早く屋敷の人間を呼ばなければ……! しかし私の姿を見られるわけにはいかない。私はとっさに近くにあった花瓶を床に叩きつける。花瓶の割れる音は周囲に響き渡り、静まり返っていた屋敷の方から人の声が聞こえた。これで誰かが異変に気付いてくれるだろう。
「……ごめんなさい」
私はうずくまるシャーロットを背に小屋を飛び出し、素早く箒に跨る。そしてそのまま振り返ることなく真っ黒な夜空へと飛び立った。
暗い夜空を飛びながら、私はずっとシャーロットのことを考えていた。無事に見つけてもらえただろうか、今も苦しんでいるのだろうか。そして彼女の寂しげな表情を思い出すたびに胸に鋭い痛みが走る。結局贈り物は渡せなかった。このままもう二度と会うことはないのだろうか。だとしたら私は——
「アイラ、大変だ!」
一羽の烏がそう叫びながら私に近づいてくる。それは間違いなくジャックだった。
「隠れ家の結界が破られた! このままだとすぐに見つかってしまうぞ!」
「え!? そんなバカな……!」
魔女の結界は同じく魔力を持つ者にしか破れない。だからこそあれほど入念に猫避けのまじないをかけておいたのに……。
『……やっと見つけたよ』
不意に暗闇の中からしわがれた老女の声が聞こえた。そして次の瞬間には黒い波のようなものに飲み込まれ身動きが取れなくなっていた。視界が閉ざされ、次第に意識が遠のいていく。ジャックが必死に何かを叫んでいたが、その言葉の意味を理解する前に私の意識は途絶えた。
どれくらい時間が経ったのだろう。気が付くと私は見知らぬ場所にいた。そこは黒い布でできたテントのような場所で、私は椅子に座らされていた。手足は紐のようなもので縛られていて思うように動かせない。さらに私の足元には魔法陣が施され、術の発動を阻害されている。
「あんな小細工がこの私に通用すると思ったのかい?」
再び目の前の暗闇から声が聞こえてくる。そこから現れたのは黒衣を身にまとった小柄な老婆だった。しかしその眼光は鋭く、目を合わせるだけで身がすくむようだ。
「……先生」
「育ててもらった恩を忘れたわけじゃないだろう? いい加減戻って来な」
「嫌です……! 私はあなたの元には戻らない」
「強情な子だね。自分の置かれてる立場ってのをわかってるのかい?」
すると周囲の暗闇から輝きが放たれる。それは無数の瞳。数えきれないほどの黒猫が、じっとこちらを睨んでいた。
「アイラ……あんたはまだ若いのに才能に溢れている。私だってこんなことであんたを失いたくないんだよ。……この意味、あんたならわかるだろう?」
魔女にとって師は絶対だ。逆らえばどんな罰を与えられてもおかしくない。それでも私は首を縦に振るつもりはなかった。
「……先生には感謝しています。孤児だった私を見出し、アイラという名を与え、そして生きていくための術を教えてくれた……。だけどやっぱり私は先生の考え方には納得できない。人間に戦いを挑むなんて……そんなの間違ってる!」
「ふん、もう少し賢い子だと思ってたんだがね。いいかい? 魔女と人間は決してわかり合えない。だから魔女の力を示し、人間の土地を奪い、魔女の国を創る。私たちが生きていくためにはそうするしかないんだよ」
「魔女だって人間じゃないですか! どうしてその二つを分ける必要があるの!?」
「勘違いするんじゃないよ。人間の方が魔女を差別し恐れているのさ。このままでは魔女はやがて滅ぼされてしまう。あんただって本当はわかってるんだろう?」
「そんなことない! 例え立場が違ったとしてもきっとわかりあえるはずです!」
「魔女はいかなる時も冷静であれと教えたはずだよ。今のあんたの心は大きく乱れている。そしてその心の乱れは魔法にも影響を及ぼす。結界を破ることができたのはそのお陰さ。……何があったのかは知らないけどね、後悔しているんだろう? 自分の選択を」
「それは……!」
後悔。ベッドの上で一人泣きじゃくるシャーロットの姿が脳裏に浮かんだ。きっと私に裏切られたと、そう感じているだろう。まるで心臓に杭を打ち込まれたかのような激しい痛みが私の心を苛む。
「しょうがない子だね。……これも師としての情けだ。今楽にしてやるよ」
すると黒猫たちの瞳が妖しく輝き、私の視界がぐにゃりと歪む。まずい、何か術をかけられている……!? 混濁する意識の中で、何かが遠のいていくような感覚があった。これは……私の記憶……?
「どうせ苦しむだけさ。だったら忘れてしまった方がいい」
シャーロットの屈託のない笑みが浮かび、そして消えた。
「……! だめっ!」
体の内側で何かが弾けるような感覚があった。気づいた時には椅子はバラバラに壊れ、手足を縛っていた紐も焼き切れていた。
「ほう、やるじゃないか。魔力だけで私の術を破るとは……」
先生はそう言いつつも、まったく焦っているような素振りはなかった。先生が本気を出せば私に勝ち目はない。どうにかしてここから逃げないと……!
「あんたならいずれ私を超える魔女になれる。人間なんぞに心を惑わされるんじゃないよ」
「私はそんなものになりたくない……! 誰かを傷つけるだけの力なんていらない!」
「力がなければ奪われ虐げられるだけさ。人間は強欲で他人を傷つけることをためらわない」
「違う! あの子はそんな人間じゃない!」
「……たとえそれがどれだけ美しく無害に見えても、私たちにとっては毒でしかないんだよ。黒猫は決して百合には近づけない。何人もの弟子たちが人間に心を許したせいで、その命を散らすことになった。人間を愛するその心が、魔女を死へと追いやるのさ」
「それでも……それでも私は、あの子と一緒にいたい……! もう一度、シャーロットに会いたい!」
それはずっと押し殺していた、私の心からの願いだった。その時、耳をつんざくような不快な叫び声が聞こえた。音が聞こえてきたのは上。……これは、烏の鳴き声だ! 私はとっさに床に散らばる木片を拾い、左の手のひらを思い切り引っ掻く。鋭い痛みと共に裂かれた皮膚から血が滲む。
「屍を喰らう獣よ! 血の契約に従い、その真の姿を示せ!」
私が叫ぶのと同時に周囲に強風が吹き荒れ、テントがビリビリと破られていく。上空から舞い降りたのは、翼の生えた狼のような姿をした漆黒の怪物だ。怪物は逃げ惑う黒猫たちを蹴散らし、先生へと飛び掛かる。しかしその鋭い爪が触れる前に、先生の体は暗闇の中に溶け込んでいった。私がその怪物の側へ駆け寄ると、聞きなれた声で怪物が話しかけてくる。
「アイラ、大丈夫か?」
「うん……ありがとう、ジャック。でもどうしてここがわかったの?」
「黒猫どもがどこかへ集まってるようだったから、その後をつけたんだ」
やっぱり使い魔にするなら烏に限る。利口で従順だし、どんな場所へも飛んできてくれる。
『やれやれ、やっぱり猫は気まぐれだね。いざという時に頼りにならない』
暗闇の中から先生の声だけが聞こえてくる。私は息を整え、ゆっくりと虚空に向かって語りかける。
「……先生、確かに私は後悔しています。だけどそれを忘れてしまうことの方が、もっと辛いんです。……あなたとの思い出が今も私の中に残っているように、それは消してはいけない大切なものなんです」
『……ふん、随分立派なことを言うようになったじゃないか。それでどうするんだい?』
「やっぱり先生の考えには賛同できません。たとえどんな危険があろうとも、私は人間を諦めてしまいたくない。……だけどわからないんです。私なんかに、人間を愛する資格があるんでしょうか?」
『いつだって自分の人生を決めるのは自分自身だよ。誰かのためじゃない、自分の望むままに生きていいのさ。道に迷った時どうすればいいかは教えてあるはずだ』
「それって——」
『私ももう歳でね。疲れたから帰らせてもらうよ』
「……ありがとう、先生」
『私を止めたいのなら、あんた自身の力で道を示してみな。……なんたってあんたはこの私の一番弟子なんだから』
声は少しずつ遠ざかり、やがて暗闇の中に消えていった。気づけばすでに地平線から朝陽が顔を出し、辺りを照らし始めている。テントの周りには黒い羽毛や何かの破片が散乱していた。その中に占い盤が転がっているのがふと目に入った。私はまるで吸い寄せられるようにそれを拾い上げる。
私が今何を求め、何をすべきなのか。それを知っているのもまた私しかいない。私は占い盤に魔力を込め、ゆっくりと唱えた。
「私が一番欲しいもの、その在処を示せ」
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