魔女と令嬢、猫を殺す花
鍵崎佐吉
純白の令嬢
初夏の湿り気を帯びた夜風が黒いマントをはためかせる。かれこれ二時間ほど飛び続けているだろうか。目的地まではあと少しのはずだ。私は
しかし私の憶測はいい意味で裏切られることになった。前方にわずかだが明かりのようなものが見える。そこはちょうど私が目指している場所だ。とりあえず夜の山をあてもなく徘徊するのは避けられそうだ。私は周囲を警戒しながら、速度を落としてゆっくりとその場所に近づいていく。そこにはかなり大きなお屋敷のような建物があった。どこぞの貴族でも住んでいるのだろうか。しかしそれにしては随分と
物探しの占いは一番近くにある対象物の距離と方角を知ることができるが、例えばそれが地面に埋まっているとか金庫に隠してあるとか、そういうことまではわからない。この屋敷のどこかにそれがあるのは確かだが、果たして夜明けまでに見つけられるかどうか。やや不安に思いながらも、私はその小屋へと近づいていく。戸を調べてみるがどうやら鍵はかかっていないようだ。音をたてないようにゆっくりと戸を開けて素早く小屋の中に入る。その瞬間、甘い花の香りが鼻孔の奥まで広がっていくのを感じた。どうやら私の勘は当たっていたらしい。
魔力を込めて軽く指を鳴らすと、空中に小さな火の玉が浮かび上がる。照らし出された室内には、いくつもの花が並んでいた。きっとこの屋敷の住人の誰かがここで育てているんだろう。中には図鑑でも見た事がないような変わった花も咲いている。魔女も知らない花を育てているなんて、まったく貴族の道楽というやつには驚かされる。しかし今はそんなことはどうでもいい。私はその花たちを一つずつ丁寧に調べていく。そして部屋の奥のテーブルの上、鉢に入れられたその花を見つけた。ウェディングドレスのように美しい純白の花弁は、まさに私が探していた百合の花に間違いなかった。後はこれを拝借してとっとと帰るだけだ。その時、部屋の片隅から物音がした。私はとっさに身構える。
「誰?」
少し眠そうな、少女のものと思われる声だった。まったくなんでこんな場所で寝ているんだ。とにかく人を呼ばれると面倒だ。私は百合の花に手を伸ばしこの場を立ち去ろうとする。
「あ、だめ!」
すると暗闇の中から少女が飛び出してきて私の手を掴んだ。その予想外の行動に思わず動きを止めてしまう。そして眼前に現れたその少女の姿を見て、私は息をのんだ。
その少女は今まで見たどんな人間よりも美しかった。柔らかく輝く金色の髪、透き通るような碧い瞳、きめの細かい色白の肌。歳は十五か十六くらいだろうか。華奢なその体に白いネグリジェをまとった彼女は、まさに天使のような美貌の持ち主だった。彼女の手を振りほどき百合の花を奪って逃げることは、そう難しいことではないだろう。しかしこの美しくあどけない少女に力を振るうことは躊躇われた。そして私がまごついていると、少女は私の顔を覗き込むようにして言った。
「あの、もしかして魔女の方……ですか?」
箒を手にした黒装束の怪しい女を魔女だと思うのは当然の道理だ。しかし正体までばれてしまったとあってはいよいよまずい。ここはおそらく貴族の屋敷だし、どうにか逃げ切れたとしてもかなりの大事になるだろう。騒ぎを起こしてしまったのではわざわざここへやって来た意味がなくなってしまう。
「その、百合が欲しいんですか?」
少女は私の手を掴んだまま質問を重ねる。しかしその態度には少し違和感を覚えた。私が魔女であるとわかっているはずなのに、少女からはこちらを警戒するような素振りは感じられなかったからだ。私が返答に臆していると、少女は意を決したように言った。
「百合が欲しいのなら差し上げます。でもその花を手折るのはやめてください。代わりのものを用意しますから」
「……え?」
「その花は、私のお友達なんです」
花が友達なんて、そんなことは魔女の間でさえ聞いたことはない。だが少女の表情はいたって真剣で嘘を言っているようには見えなかった。少女は私の沈黙を肯定と受け取ったのか、ゆっくりと私の手を離した。私は、いったいどうするべきなのだろうか。私が迷っていると少女はランプを持って小屋の外へと歩き始めた。
「すぐに戻ってきますから、ここで待っていてくださいね」
そう言い残して少女は屋敷の方へと駆けて行った。
「お待たせしました」
そう言って戻って来た少女の手には五本の百合の花が握られていた。どれも根はついていない。おそらく花瓶から抜き取って来たのだろう。私は無言のままその百合を少女から受け取る。なぜ少女の言葉を信じようと思ったのか、はっきりとした理由は自分でもわからない。ただ心の片隅で、もう少し彼女と同じ時間を過ごしていたいと、そう思ったのは確かだった。そして今再び少女に会って、自分がどれだけ人との関わりに飢えていたのかという事実を突きつけられている。思えばまともに人と話したのはもう何か月も前のことだった。
「これって何かの魔法に使ったりするんですか?」
相変わらず少女からはこちらに対する警戒心を感じられない。どうも使用人とは思えないし、多分この子は貴族のお嬢様なのだろう。世間知らずゆえの無知か、それとも好奇心か、どちらにせよ少女は魔女という存在を恐れていないようだった。そして私もそんな彼女にいくらばかりか興味を覚えた。
「……まじないに使う」
「すごい……! 本当のおまじないが使えるんですね。どんなおまじないなんですか?」
「猫避けのまじない。……百合は猫を殺すから」
百合の花も葉も根も、花粉や花瓶に入っていた水ですら、猫にとっては強い毒になる。野良猫であればまじないに気づかず死んでしまうだろうが、魔女の使い魔である黒猫は決して百合に近づこうとはしない。
「え……その、猫がお嫌いなんですか?」
「色々事情があるの。確かに猫はあまり好きじゃないけどね」
黒猫は強い魔力を持つがゆえに気難しく、時には自分を主である魔女と同格の存在だと考えたりもする。だから私の使い魔は
「……あなたは花が好きなの?」
「あ、はい。私、体が弱くてめったに外に出してもらえないから、園芸くらいでしか自然と触れ合えなくて」
「これ、全部あなたが育てたの?」
「庭師さんにも見てもらってますけど、普段のお世話は私がしてます。時々こうやって一緒に寝たりもしてるんですよ」
「……そう」
どうも彼女にとってこの花たちは特別なものらしい。随分変わった子だが、魔女の私が言えたことではない。もう少し話していたい気もするが、あまりゆっくりしていると夜が明けてしまう。昼間の空を飛ぶのは人に見られる危険が高い。そろそろ家に戻らなければ。
「じゃあ私は行くわ。お邪魔したわね」
私は小屋を出て箒に跨る。意識を集中させ魔力を込めると、私の体は箒と共に少しずつ浮かび上がる。そして私が夜空に向かって飛び立とうとした時、その様子を眺めていた少女が私に言った。
「あの、他に必要なものはありませんか?」
「え?」
「大抵のものはご用意できるはずです。ですから……またここに来ていただけませんか?」
それは予想外の提案だった。少女の意図は読めない。しかし少女からは悪意のようなものは感じられなかった。もし私を騙すつもりなら、すでにそのチャンスはあったはずだ。私は少女に問いかける。
「あなた、魔女がどういう存在なのか知っているの?」
「はい。……怪しい術を使って人々を惑わす者だと、そう聞いています」
「ならどうして……」
「魔女さんはきっと悪い人じゃありません。ちゃんと私のお願いを聞いてくれました。だから、このままお別れしたくないなって……」
私はどうするべきなのだろうか。無暗に人間と関わりを持つのは危険だ。そんなことはわかっている。だが彼女の提案も、そして彼女自身も、私にとってとても好ましいものだった。——大丈夫、あと数回会うだけだ。危険を感じたらすぐに逃げればいい。そう自分に言い聞かせた。
「……あなた、名前は?」
「シャーロットです。シャーロット・エス——」
「そんなに簡単に教えたらだめ。名前さえわかれば、それだけで相手を呪うこともできるんだから」
「わぁ……魔女さんって本当にすごいんですね」
少しからかったつもりだったが、こんなに純粋な反応をされるとかえってこっちが恥ずかしくなる。私は箒に魔力を込め、夜空へと舞い上がりながら言った。
「私はアイラ。七日後の夜にまた来るわ」
体に吹き付ける夜風はここに来た時よりもなんだか涼やかに感じられた。
私はゆっくりと高度を下げて屋敷の庭に降り立つ。今日はあれから七日経った約束の日だ。周囲は静まり返っており人の気配はない。罠の心配はなさそうだった。そして庭の片隅にあるあの小屋には、以前とは違って明かりがついている。私はそこに歩み寄り、ゆっくりと小屋の戸を開けた。
「あ! お待ちしておりました、アイラさん」
そう言ってシャーロットは私を出迎える。その微笑みはやはり眩しいほどに美しい。そして私の手を引いて小屋の奥まで案内する。
「これ、用意してみたんですがいかがでしょうか……?」
そこには色とりどりの百合の花が並べられていた。花弁の形も様々で、東洋から輸入された珍しい品種のものもある。
「すごい……! たった七日でこれだけのものを用意するなんて」
「私、お役に立てましたでしょうか……?」
「ええ、期待以上よ」
「ああ、よかったぁ。誰かに贈り物をするのは初めてだったので、とても緊張してしまいました」
一口に百合と言ってもその種類は多岐にわたり、まじないの効力も微妙に変わってくる。万全を期すためにはなるべく多くの百合があった方がいい。私はその贈り物をありがたく受け取ることにする。
「あの、魔法って練習すれば私でも使えるようになったりするんですか?」
「それは無理。生まれつき魔女の資質を持つ女だけが魔法を使えるの。それは血統によって定められたことで、後天的に獲得する手段はないわ」
「じゃあアイラさんのお母上も魔女さんなんですね」
「……さあ、どうかしらね」
「え?」
「私、
「あ……! すみません、私……」
「いいのよ、気にしてないから」
実際、母親のことについて深く考えた事は今まで一度もなかった。親代わりになってくれる人はいたし、魔女の中にはそういう境遇の者も少なくなかったからだ。日々魔法の研究と修行に明け暮れ、気づけば大人になっていた。その力がどんな意味を持つかも知らずに。
「確かに魔法は便利だけど、こんなもの無くたって幸せになることはできるわ」
「……そっか。でもアイラさんが言うなら、きっとそうですよね」
そう言いつつもシャーロットの表情からはわずかに落胆が感じられた。きっと魔法でなければ叶えられないような、そんな願いを抱いているのだろう。人間というのはいつもそうだ。皆、心のどこかに夢を秘めている。私はできることならシャーロットの願いを叶えてあげたいと思った。自分以外の誰かのために魔法を使う、そんなことを考えたのは魔女になって以来初めてのことだった。
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