最終話

「お……お父さん!!!血、血が……!」

「……大丈夫だよ。これくらい」

「で、でもそんなに深く切って……」

「だから大丈夫なんだよ。何度も何度もしてるから分かるんだ。これくらいは……平気なんだ……はは、いや、こうしていないと、もう心を保っていられないんだよ……」


 あまりの光景に狼狽して、止血しようと近寄った私と妹を静止して……でも、私を見ているのか分からない虚ろな目で、自分で切った左手首を見つめる父。


 血が赤く膨らんで、丸い球を作って滴っていくのをぼんやりと見ながら、薄っすらと笑って父は続けた。


……涙が、すぅっと頬を伝った。


「……こうして血が出るのを見ると、安心するんだ。カッターを当てて、すっと引くと鋭い痛みが走る。その痛みに……どうしても僕は安心するんだ……」


 ゆっくりと視線をあげた父が、私を捉えた。でもどこか父は、私を見ていない……ううん、私の向こう側を見ているようだった。


「……最初に瞳が高熱を出したとき。どうして僕は、すぐに病院に連れて行かなかったんだろう。でもすぐに下がったから安心して、ただ疲れが出たぐらいにしか思わなかった僕を、僕はずっとずっと許せないままだ……」

「そんな……!!違うよお父さん!お母さんが白血病になったのは誰のせいでもない!!お医者さんも、何度も何度も繰り返して言ってたじゃない!何よりも、お父さんが私たちに言ってくれてた言葉じゃない!!!」


 私と妹のほうが、母といる時間が多い。

 だから、その変化に、誰よりも早く気付けていたはずだったんだ。


熱の上下を一定の周期で繰り返す母を見て、病院に連れて行ったのは父だった。


私じゃ、なかった。

すぐそばに、いたのに。

いつもいつも、いたのに。


 自分を責めていた私たちを、お前たちのせいじゃない。誰のせいでもないと言い続けてくれたのは他でもない父自身だった。


でも――父は、ずっとずっと、自分を責めていたんだろうか――


 父が、私たちをまっすぐ見つめた。

 虚ろな視線だけど――泣き腫らした赤い目で、静かに続けた。


「そうさ……『誰のせいでもない』。医者にも繰り返し、聞き飽きるくらい言われた。瞳自身にも、ね。でも――状態は良くならなかった。抗がん剤を続けていて、あんなに綺麗だった髪も抜け落ちて、繰り返す嘔吐でまったく食べ物を受け付けなくなって、点滴でしか栄養をとれなくなっても……それでも、僕は『自分は悪くない、誰も悪くない』と思えるような、悟りを開いたえらいお坊さんでも何でもなかった。何かが悪かったんだよ!!抗がん剤が思ったように効かずに、それでも何度も、何クールも繰り返される抗がん剤に耐えていても……瞳は、どんどん悪くなっていった……もっと早く気付けたはずだった!!だって、ずっとずっと連れ添ってきたんだ!!何十年も前からずっと、彼女のことを見ていたんだから!!!」

「……お父さん……!」


まるで、泣き腫らした赤い目が、血を流しているように――

――それが、父の心からの叫びであるかのように感じた。


「なぁ、覚えてるか?……お母さんが……瞳が亡くなる、最期の瞬間を……?」


 胸が引き裂かれるように痛む。


「……うん……」


 ぎゅっと目を閉じて父の言葉を待つ。


「……だんだんと……力がなくなって……焦点が合わなくなっていった。もうどうしようもなくて……僕も、お前たちも、ただ瞳の手を握りながら彼女を見つめていた。」


 か細くなった母の手をみんなで握って、もうすぐやって来るかもしれないその瞬間まで、母と繋がっていたくて、ただただ、手を握っていた。


「実はね……あの時、小さく瞳が、僕に言ってくれた言葉があったんだ……」

「――え……?」


 母が、死ぬ。いなくなる。


 永遠に。


 その事実を目の当たりにして、当惑しきっていた私たちは、そのことに気づく余裕はなかった。


 見ていなかったのか。


 ううん、そんなことはない。


 きっと……目の前に映る光景が、他ならぬ私達の母に起きているということを、受け止められなかったんだと思う。


 思い出すように、ゆっくりと、父は口を開いた。

 大切に、丁寧に言葉を紡ぐように。


「……彼女はね……最期に笑ってこう言ってくれたんだよ。『一緒に逝けなくてごめんなさいね』って……!!」

「――!!」

「……人はね、いつかは死ぬものだ。命があれば、やがては死んでいくんだ。でも、それが瞳である必要が、どこにあったっていうんだ!?もっともっと、お前たちが成人して、花嫁として嫁いでいく姿を僕と一緒に見守っていく……そんな、ごくありふれた幸せを、僕たちは共有できたはずなんだ!!!僕が、もっと早く病院に連れて行っていれば!!!!」


 胸が、苦しい。父の思いが、洪水のようになだれ込んでくる。


「……誰がどれだけ、何を言ったとしても、僕は僕を許せなかった。今もそうさ。誰のせいでもないからこそ、僕は、僕は……そのときからだよ……これが始まったのは」


 父が、左手首を見て続けた。


「自分を傷つけると、どこか許された気持ちになれた。自分に罰を与えることで、自分が許された気持ちにさせられた。僕には、こうすることでしか、瞳のいない人生を、乗り切ることなんてできそうになかったから……」

「お、とうさん……」

「瞳が死んでからね……お前たちの顔を見るたびに、瞳が重なって見えてくるようになったんだ。そうすると、お前たちが生まれたとき、『生まれてきてくれてよかった』って、そう言い合った瞳との昔の思い出が蘇ってきて……どうしても離れなかった。だから……今いるお前たちが、成人して一人前の大人になるまでは……今度こそ、僕が守らなくちゃならない、そう思ったんだ」

「だ、だったらどうしてリストカットなんか……!!」

「そ、そうだよお父さん!ず、ずっと死ぬつもりだったってことなの!?」


 妹と二人で父につかみかかるように問いかける。

 もう何度切ったのか分らないくらい、おびただしい数の切り傷があった。

 治って、皮膚が黒く変色したままの切り傷もあれば、まだ傷口が塞がらないままの、痛々しいものまでたくさんあった。


 でも、父は力なく私たちを拒み……弱弱しく、でもはっきりとこう続けた。


「ううん、そうじゃない……。生き続けるために……僕が残りの人生を生き抜くためには、どうしても必要なんだ。こうやって自分を切り刻むことで、痛みが僕に、ここにいると教えてくれて……そして、瞳を失ったことも、その時にできなかったことも、思い出させてくれるんだ。でもね……僕は、もう……疲れた。ただ、疲れたんだ。自分自身に。仕事人間で、ずっと苦労だけさせて……それでも僕のことを支えてくれた瞳を救えなかった僕に。せめて子どもたちのことだけは守らなければと思って……でも……そう思うことで、瞳を救えなかったことを正当化しようとしている自分に。……どれだけ……どれだけ後悔しても、もう帰ってこない、瞳のいない人生に。だから……もう、いいかな……もう、これ以上は……」


 言葉を途中で切り、父が目を閉じる。

 父の目が……今度ははっきりと私達を捉えた。


「……お父さん……?」


 そして……静かにこう続けた。


「……あと何年かして、お前たちが成人式を迎えて、大学を卒業して、就職して結婚すれば……もう、いいだろう……?」

「え……?」

「そ、それって、どういう……?」


 疲労が色濃く滲んだ目を向け、すがるように……助けを求めるように、父は続けた。


「もう、終わりにしたいんだ……瞳を救えなかった僕という存在を。瞳のいないこの人生を。生きなければならないという呪縛から解放してほしいんだ……」

「……い、いや!!ど、どうして!?どうしてどうして…!!?」

「……言っただろう、瞳が死んだとき、僕はお前たちだけはきちんと育て上げたいと思ったんだ。いや、育てなければならないと思った。母親を失った悲しみを、少しでもやわらげてやらなければ、と思った。だって……お前たち二人は、僕たちの大切な娘だから……でも……!」


 父が、声を震わせて……嗚咽をこらえるように、続けた。


「でももう少ししたら……もう少しだけ頑張りさえすれば……お前たちは大人になる。そうすればもう、お前たちだけでも生きていけるようになるだろう?……僕は、瞳との思い出だけに生きてもよくなるんだ。もう……僕には、分からないんだ……!生き続ける意味も、走り続ける力も、何もかも……!!」

「……お父さん……」

「僕はいつからか、いつも真っ暗闇の中にいて、その闇の先に、きっと待ってる死こそ、僕には安息そのものに思えるようになったんだ……でもまだ……まだもう少し、お前たちを守っていなければならない。僕は、父親だから……」

「……お父さん……!」

「だからそれまでは何があっても倒てはいけないんだよ!父親だから、支えてやりたいんだ!でも、そのためのエネルギーも、もうほとんど残ってなくて……だからこうして傷つけることで、血を流すことで、まだ僕は生きてるんだと、死ねないんだと思えて……だから……」

「お父さん!!」


 あまりにも

 あまりにも悲痛な、父の叫びは


 私達の心の底まで届いて


「もう、いいよ、お父さん。もういいんだよ。」

「……!」


 私と妹で、力一杯父を抱き締めた。


「もう、お父さんは、お父さんのためだけに生きても。仕事も、家のことも、全部。何もかも忘れて。ね?」


 父の瞳に、私が映っているのが見えた。


「だから……お願い、お父さん……」


 父をぎゅっと抱き締めて、言ってあげたかった言葉をかけた。

 

「病院に……行こう?」


 堰を切ったように

 父の感情が溢れ出す。


 私達は震える父の背中を撫で、慟哭する父を、いつまでも抱き締めた。





――それから1ヶ月。


 エレベーターから出て、テーブルに置かれた用紙に、必要事項を記入する。

 それからチャイムを押して、中からモニター越しに声が掛かるのを待つ。


「……はい」

「伊藤正(いとうただし)の家族です」

「……お待ちください……」


 しばらくしてから、中から看護師が出てきて、さっき書いた用紙を確認して、私の手荷物の中身を尋ねる。


 着替えを持ってきたことを確認すると、看護師が病棟への自動扉を開けてくれた。


「では、お帰りの際はステーションにお声がけくださいね」

「はい」


 ピピ、という電子音の向こう側に足を踏み入れると、背中の扉が閉まった。


「――真美(まみ)」

「あ、お父さん。ここにいたんだね」

「ああ……今日は気分がよくてね」


 病棟の中はロビーがあって、他の入院患者が談笑したりテレビを見たりしている。

 父はその隅の方で、英字新聞を読んでいた。


 閉鎖病棟というものに、ようやく少し慣れてきた。


 私も、妹も、そして父も。




――鬱病による3ヶ月の入院。


 それが父の診断結果だった。


 これから、どうなるんだろう。


 ふと、そんなことが頭をよぎる。


 でも、1ヶ月前からは想像できないほど、表情が明るい父を見ると、私の心にずん、とのし掛かったような重りがすぅっと軽くなる気がした。


 父の手首からふと見えた、ズタズタの傷痕――


 その痛みは、父の悲しみ、怒り、苦しみ、いろんなやり場のない感情の象徴だ。


 私の視線に気付いた父が、苦笑いを浮かべる。


 私は――何も言わずに、ただ父の手を両手で握った。



 人生は山あり谷あり、とは誰が言い始めたんだろう。


 母を亡くし、父まで失いかけた私達は、それでもこれからずっとずっと続く道を、歩き続ける。


「人生は、天気と同じだな」

「――え?」


 急に父が言った。


「――曇りか……それか、雨が降ってるくらいがちょうどいい。晴れてばかりは、もう……」


 今朝からずっと降り続けている雨は、ようやく少し雨足が弱まってきている。


 窓の外を見ている父の言葉に、手を握ったまま振り返ってこう言った。


「……私も、雨は好きだよ?」


 その言葉を聞いた父は、久しぶりに笑顔を見せた。



Fin



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曇りのち大雨、ときどき晴れ さくら @sakura-miya

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