第5話
――あ、お母さん!
――『……』――
真っ白な景色の中、風が吹き込んでカーテンがたなびいている。
その中に、ベッドに佇む母が居て、私はなぜか幼いころに戻って母に話しかけている。
確かに母が返事をしたけれど、どうしてかその声は聞こえない。
でも不思議だと思わず、幼い私はベッドの上の母に話しかける。
――ねぇねぇ、今日私ね――
――あ、ずるいお姉ちゃん!私がお話しする番だよ!?――
何も言わずに微笑む母を取り合うように妹と喧嘩していた。
それをたしなめる父の姿もある。
父が声にならない声で、お母さんは病気なんだから静かにしなさい、と注意する。
母の顔は見えない。母だと間違いなく認識しているけど、まるで真っ暗な影が話しているみたいに感じた。
―え?お母さんが病気?そうだったっけ―
みんなそれをおかしなことだとも思わず、母に確認を求めるように「ねぇお母さん」、と話しかけようと振り向くと――
――父の顔が真っ黒に塗りつぶされていた。
「――わぁっ!!!」
あれこれと考えるうちに想像は妄想と化し、どんどん加速してゆくものらしい。
「……はぁ、はぁ……なんて夢……」
――夜に考えごとはするものじゃない。
そう思って時間を確認しようと起き上がると、ふいに物音がした。
――ゴトン――
「……まただ……また物音がする」
――カチリ、カチリ、カチカチカチ――
今度は別の音が混じり始めた。
なんだろう。何の音だろう……どこかで聞いたことがあるような音……
――カチ、カチ、カチ、カチ、カチ――
何か、とても身近な――そう、たとえば学校とかで聞いたような――
――図工室とか――ううん、もっと身近な――教室とかでも持ってる人がいるかどうかよく訪ねてたような――
母を偲ぶ涙。
不眠。
疲れ切った様子。
私達姉妹を見る、目。
バラバラだったパズルのピースが、だんだんとはまってきている気がした。
同時に、強い焦燥感に駆られる。
夜に聞こえてくる物音。
――図工室で使う道具。
「ひょっとしてお父さん……」
目が覚めたばかりで少しふらつく足元。
ぴしゃん!と自分の頬を両手で張り、廊下に出て父の部屋まで進んだ。
「――やっぱり…明かりがついてる」
ほんの数メートルの距離。
走らずとも、ものの数秒でついてしまう距離だ。
でも、走らないと駄目だった。
そうしないと――何かが起きそうだったから。
夢で見た、真っ黒に塗りつぶされた父を思い出した。
それがどうしても焦燥感をかきたてる。
急がないと間に合わない。そんな気にさせた。
「……お父さん……?」
父の部屋についた私は、逸る気持ちを抑え、静かにドア越しに話しかけた。
「……」
返答は、ない。再度呼びかけたけど、やっぱり無言だった。
意を決して、ドアノブに手をかけて入ろうとした。
が、鍵がかけられている。
「……ねぇ、お父さん……?今、入っていい?」
「……」
やはり返答のないドアの向こうに向かって、それでも話しかける。
今、父と向き合わないと、絶対に後悔する。
そう思った。
父が、いったい何をしているのか。
――カチ、カチというあの音。
あれは――そう、カッターナイフの刃を出すときの音。
そう気づいたとき、背中に冷たい汗が伝った。
何があっても、それだけは止めなければいけない。
ドアの向こうでカッターの刃を出す父の姿が思い浮かぶ。
その思いで必死に叫んだ。力一杯ドアノブを回して、ドアに体当たりを繰り返した。
「お父さん!!!ねぇ、何をしてるの?心配してるんだよ!?その音は何!?その音ってひょっとして――ねぇお願い!!」
ガン、ガン!!
なりふり構わず、ドアをたたいた。
「お母さんが死んじゃって、すごく辛かった。そんな私たちを、それでも支え続けてくれたお父さんに、本当に感謝してるの!」
母という、一番身近な家族を、白血病というとてつもなく巨大な病で失った私たち――。
何をする気もしなかった私と妹を、日常生活に戻してくれたのは、父だった。
「……お父さんの、お母さんを喪った気持ち……きっと、私たちとは違った苦しみも悲しみもあるんだと思う!!でも……でも今度は私たちがお父さんを支えるから!!」
どれほどの悲しみなんだろうか。
私も、妹も本当に辛くて悲しくて、今だってその喪失感は絶え間なく私たち姉妹の心を締め付ける。
一番身近な家族が、もう二度と帰ってこないということが、どんなにつらくて悲しいことなのか、いやというほど知った。
まして父にとっては、一生をその人と生きようと思えるくらい大切で大好きな人。
……きっとずっとずっと好きで、今でも大好きな人。
その人を、喪った悲しみ。
私には、想像もできなかった。
それでも、虚ろな目の父が、ずっと母を探し続けている、その痛ましい姿に、私の胸も潰れてしまいそうだった。
母がなくなってからも、私達を支え続けてくれた父――
でも、だんだんとその姿は……生きる希望そのものを失っているようにも見えた。
「……お父さん……お願い……」
声にならない声で、父に呼びかける。
確かに、母はもう、いない。
受け入れたくなんかないけど、どんなに泣いても叫んでも、変えられない事実。
そこから抜け出せなかった私達を助けてくれたのが、父だった。
「お父さん……お願いだから開けて!!!お父さんまで……お父さんまでいなくならないで!!!!」
嗚咽が混じって、大きな声を出し続けて喉が枯れそうだった。
でも、それでも構わなかった。
――カチリ――
すると。
肩で息をしてドアを背に座り込んでいると、後ろからドアが開く音がした。
「……やれやれ、お前たちには知られたくなかったんだけどね……」
そこに立っていたのは、まぎれもない父。
でも、その手にはカッターナイフが固く握られていて
そして、左手首からは、おびただしいほどの血が流れていた。
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