熱の声
藤井杠
熱の声
真っ暗な世界にいて、色が見えた。声がする、誰かの手が肌に触れる。
あぁ、また眠れない。
♦︎
ピッ、ピッ、ピッ、ピ
これは、自分の鼓動だ。とくん、とくん。と胸の音がゆっくりと起きかけの耳に届く。単調なリズムの中で、拍動とともに器械音が聞こえてくる。やわらかな風が窓から流れてきて、前髪を揺らす。じわ、とシーツの温もりが背中から伝わってくる。このベットに横になる生活は、今日で何日目だろう。
枕元の、少し後ろ側で一段高い場所から聞こえてくる音に耳を傾ける。
『みなさん、おはようございます。本日の天気は晴れ。さわやかな日差しが増え、街は春の陽気に包まれています。本日の開花予報ですが…』
テレビからアナウンサーの声がする。毎日同じ音程、だから、同じ色。私にはそう見える。
天気が晴れでも雨でも曇りでも、窓の向こうの景色は私の目には映らない。窓から身体に当たる太陽光の
不意に、この部屋に唯一ある入り口の開く音が足先の、もうすこし遠くの方で聞こえた。ガラガラと扉の開かれる音が止まないうちに、その合間から低めの、小さな声が聞こえた。
「失礼します。」初めて聞く声だった。
「緊張しないでね。」これはいつもの声。ササキさんだ。キュッキュという高い音が足下からする。
「はじめまして、カンゴガクセイのアカイと言います。」
「今日から2週間、アカイさんはジッシュウで
アカイさんは、自分はカンゴガクセイで2週間のジッシュウに来ているのだと話した。なるほど、さっぱりわからない。2週間が14日ということはわかる。つまり、月の半分。私の入院はどれくらいだったっけ。
「今日からよろしくお願いします。さなちゃん。」アカイさんの声、少し震えている。アカイ、なのに青っぽい色だな。
アカイさんの挨拶の後、ササキさんは私の熱を測る。「36.7度、いつも通りだね。」そして何か横の方でゴソゴソとカチャカチャとした後、2人はドアの向こうへ行ってしまった。
ササキさんの甲高い声が遠くで、ピンピンとばったが跳ねるように聞こえてくる。
「あの子は、ノウセイマヒで数ヶ月前から入院しているの。今こんな時期だから、家族もメンカイに来れなくてね……」
なに、何の話をしているの。私にもわかる様に説明してくれ!!自分の気持ち、それは声にならない。だから誰にも伝わらない。いつものことだ。しょんもり、と心がしぼんでいく。いつの間にか諦めることの方が癖になっていた。
授業の時間になった。
ムライ先生が来て、ピアノの音のチャイムが鳴る。
「今日は、学生さんも一緒だよ~」
「よろしくお願いします。」アカイさんの小さい声が後に続く。
何だって、授業にまでついてくるなんて。聞いてないぞ。勉強って、一緒に授業にも出るんだ。アカイさんは、何年生なのかな。
「さて、1時間目は音楽です。まずは先生が弾いてみるね。」
アカイさんは横でじっと見ているのだろうか。だとしたら少し恥ずかしいな。
それに目には見えないけれど、なんだか視線を感じる。わかるんだよ、見えないけどね。
ピアノから曲が流れてくる。……これは、さくらの歌だ。知っている曲だ。楽しい。先生が歌う言葉の1つひとつを聴いているうちに、歌詞の風景が音に乗って頭の中に広がりだす。
花びらの1枚いちまいが散っていく様子が、思い出の映像がぼんやりと頭の中に流れていく。
「さて、次は図工です。先週の続き、この絵を完成させましょう。」
手に筆の硬い感触が伝わってくる。「黄色を塗っているよ。」ムライ先生が添える動きから、筆の滑る感触と、毛先がスッと鳴る音で、描いているなという感覚が伝わってくる。中々に描けたのではなかろうか。ムライ先生の反応はいつもと同じ。描けたら次の工程、で反応が心なしか薄い。
「この絵、何か分かる?」ムライ先生が聞く。なに、その質問は。
「すごく、綺麗ですね。」アカイさんが答える。
ほほう。見えないけれども、アカイさんがそう言うのなら、これは名作に違いない。
ずっとそばにいるなんて。最初に聞いた時は、正直ちょっと嫌だった。なんだか気の休まる感じがしないからだ。でも、アカイさんの話す言葉は嫌いじゃない。低い、小さな声。けれど他の人たちとは違って、なんだか柔らかい音がする。
昼食の時間。カンザキさんが「お昼ご飯だよ」と声をかけてくれる。
これも苦手だ。しばらくして鼻に通った圧迫感に、どろりとした液体が流れてくる。するとお腹の中に同じ感覚が積もっていく。うぅん、何度やっても慣れない。喉にまで嫌な感覚が上ってくるみたいだ。
あ、そういえばアカイさんはどこに行ったんだろう。気づくと周りに音はなかった。
それから、アカイさんは昼食後しばらくしてから私の部屋に戻ってきた。そしてナカヤマさんと手と足のマッサージをして、「また明日、よろしくお願いします。」と去ってしまった。何だ、ずっといるわけじゃなかったのか。
夜、耳元のテレビの音が消えた。だけど扉の外は相変わらず騒がしい。
心がコトン、とどこかのスイッチを押したみたいに落ち込んでいく。重み、暗闇の中で見えない虫の様に頭の中の思考があっちこっちへと飛んでいく。
誰もいないね。嫌だ、自分でもそう思うのに止まらない。ふと、家にいるお母さんのことを考える。考えてしまった。今何をしているんだろう。夜ご飯を食べたかな。お父さんは帰ってきたかな。どうして、私はここで1人なんだろう。そこまで考えて、目と胸の奥がぎゅうっとなった。えぇい、やめよう。また眠れなくなる。いつもと違うことを考えよう。
そうだ。アカイさんのことを考えてみよう。アカイさんはカンゴガクセイで、私の担当。2週間そばにいて、いろいろしてくれる。今日は授業を一緒に受けて、マッサージをしてくれた。最初は、黙ってじっと見ている様な感じで、ちょっと嫌だった。何を言われるのか怖かった。けれどアカイさんは私の絵を褒めてくれた。アカイさんは、どんな人なんだろう。あの小さくて低い声と、肌に何回か当たった手の感触から多分、恐らくオトコの人、なのだろうと思う。
ショートカットに目がスッとしていて、優しい笑顔で見つめている。前に読んだ漫画の男の子の絵が、ぽんと浮かんだ。アカイさんが明日もいる。その確かな一欠片に胸の中で色が広がっている。
アカイさんが来て、数日経った頃。
体調が悪い。喉に何か詰まったみたいに、呼吸が苦しい。辛い。
看護師さんが、ゴオッっと耳元で何か音を立てる。辛い、息が苦しい。真っ暗な世界がぐるぐると回る。
嫌だなぁ、でも自分ではどうしようも出来ない。ただただ苦痛が過ぎるのを待つ。それしか出来ないから。
ぽん、とあたたかい感触が手に入った。少し力の入った手。でも1番柔らかくて、熱を持つ手。
アカイさんに、静かに手を握られていた。
ふぁーーー!!!脳にピカピカ輝く閃光が、夏の夜友達と最後にやった線香花火の光のような閃光が、頭の奥から身体全体へと弾け飛んだ。
「あ…少し、触るね。」声が聞こえた。アカイさんはもう片方の手で私の背を撫でる。何度も何度も、優しくてあたたかい手が背を撫でる度に、自分は後ろを撫でられているはずなのに、何故か心臓や肺の奥のほうまで波が伝わるような気がした。
呼吸が、少し楽になった。
アカイさんが来て、今日で何日目だろう。あれから毎日一緒に授業を受けて、足を洗ってもらったり、手を握ってもらったり。アカイさんと過ごす時間が少しずつ楽しくなってきた。
だけど、いつもの時間になっても、テレビの音が変わっても。アカイさんは部屋に来なかった。
カンザキさんが熱を測りにくる。お医者さんが冷たい聴診器を胸に当てる。いつも通りに。
だけど、アカイさんだけは来なかった。テレビの音が、お昼過ぎを伝える。アカイさん、どうしたんだろう。
寂しい。こんな感情を持つことは初めてじゃない。友達のあやちゃんが来なくなった時も、毎日来ていたお母さんが来なくなった時も『寂しい』とは感じていた。
けれど、いま私の胸の中にある寂しさは、これまでのものとは違うもののように感じられた。アカイさんの顔と表情(頭の中の漫画のお兄さんが、それとなく動く)そして手の温もりが思い出されて、微かに指が動く。でも、小さな手の中には、私の短い指がちょんっと乗っかるだけだった。
胸が重たい。食事の後だからだ、と思うより前にもう一つの感情が胸をよぎって、モヤモヤっとする。
ササキさんが熱を測りにきた。
「37.2度。あらら、微熱だねぇ。氷、ヒヤッとするやつ頭の後ろに入れておこうか。」
熱に浮かされていた。でも、氷なんかでこの熱を冷やしてほしくもなかった。
それから2日後の、朝。テレビの音が流れる。頭が重い。ずうっとテレビの音に耳を傾けていると、扉を3回ノックする音がした。コンコンコン。あっ、と思うよりも早く、その声が部屋全体に広がっていく。
「おはようございます、アカイです。本日もよろしくお願いします。」
アカイさんが、来てくれた。「土日、来れなくてごめんね、今日からまたよろしくお願いします。」
そばに来て座って、声をかけてくれる。数日前と変わらない声、青空に似た優しい音。すごく、嬉しい。その声をずっと見ていたいと思った。アカイさんが居ない2日間、自分がどう過ごしていたかを忘れてしまうほどに。
「あと1週間か、あっという間だねえ。」ササキさんが、何かを言っているのが聞こえた。
「今日で、最後なんです。」朝、いつもと変わらない声でアカイさんは言った。
え。……あ、そうか。2週間、ジッシュウに来ていると言っていたじゃないか。あれから14日経ったからだ。…本当に?そんなに時間が過ぎたの?
「紗奈ちゃんのそばで、たくさん学ばせてもらいました。」アカイさんの声が続いていく。これも、最後。
アカイさんに何か伝えたい。そんな思いがぱっと思いが浮かんだ。だけどどうやって言えばいいのか分からない。授業で習った言葉も、テレビで聞いた台詞も、どれも私の言葉にすることはできない。いや、そもそも、私とアカイさんは、出逢ったその時から言葉を交わしたことがない。
私は、声を出すことができないのだから。
喉に入った
いっそのことこの管を抜こうにも、私の両腕は、両足は、身体は動かない。もうずっと。
あぁ、どうすればいいんだろう。
最初はどう思えばいいか分からなかった。でも私はアカイさんから色々なものを受け取った。そのどれもからアカイさんの色が、映像がある。だからアカイさんがここからいなくなってしまうと、それらが薄れてしまいそうで、アカイさんと一緒に消えてしまいそうで。別れが、寂しい。
アカイさんが、手を握ってくれる。こうして手を握ってもらえるのは何度目だろう。
嬉しい。声は出ないけれど、どうにか、伝わらないだろうか。この胸の思いが、熱が。
重い瞼にうごけ、動けと脳が指示を出す。それなのに目には、私には映像が見えない。アカイさんの表情もわからない。ただ、耳から聞こえる音が、アカイさんの「今日までありがとうございました」という言葉が別れの言葉だということが、アカイさんともう二度と会えないことが分かった。足元でキュキュと音がする。あれが消える前に、どうか。
少しだけ、手が動く。腕が、かすかに震える。私は嬉しかった。楽しかった。アカイさんと2週間過ごすことができて。筋肉が、脳からの声が少しずつ身体を震わせる。
はっ、とアカイさんが耳元で息を呑む音が、確かに聞こえた。
伝わったかな。伝わっていたらいいな。声は出ないけれど、アカイさんを引き止めるためにこの手を動かすことはできないけれど。この胸は、脳は、「私」は、確かに動いているから。
トク、トクと優しく胸が時を刻む。アカイさんの手が、ぐっと私の手を握ってゆっくりと離れていく。
手の中の温もりが、まだ少しだけ残っていた。
♦︎
看護学生の、赤井さん。自分にはその肩書きが誇らしくも、重苦しくもあった。
これまでの実習で、感謝してくれる患者さん。看護師という職種に対する希望と期待。そんな仕事を見れば見るほど、自分がそうなることに不安だった。そんな中での今回の実習。
最初は、どうしていいかわからなかった。ベッドの上に横たわる少女は寝たきりの影響で指先が膨らんで。見慣れない、そのことだけでどうしても胸の中から体全体へとこわばりが広がっていく。
どんな人にも笑顔で関わる、ケアを行う。そう決心してどうにかここまで来たはずなのに、その気持ちがギリギリのトランプタワーの様にバラバラと崩れていく。
最初は、声をかけることしか出来なかった。でも看護師の佐々木さんや神崎さん、それに村井先生の関わり方を見ていて、自分のこの関わり方は、何かが違うと思った。紗奈ちゃんの呼吸が苦しくて、看護師さんが処置を行う。何かしたい、そう思って手を握った。
どうしてだろう、彼女のためにしている行為のはずなのに、手のひらから伝わる温もりが、腕と胸を通って、自分の心にまで伝わってくる。じんわりと緊張がこわばりが解けていく。あ、いけない。ケアをする前は必ず声をかけないと。それは目の見えない彼女を驚かせないためにも必要なことだ。
そして、実習最終日。もう彼女には会えないけれど、きっと、自分のできることをやった。
そう思いたい。
彼女の胸に繋がる心電図モニターから音が鳴る。
もう一度、彼女の手を握った。
自己満足だったとしても、この温もりだけは確かにここにある。
少女の手に、グッと力が入る。
どうか、聞こえていますように。
「ありがとう、ございました。」
「あら、あなた笑うといい顔してるのね。……そんな笑顔、この2週間で初めて見れたわ。」佐々木さんが実習終わりに声をかけてくれた。そんな顔を、自分はしていたのだろうか。自分の顔は、見えない。だから手のひらを見つめる。そこに残る感触とかすかな温もりが、思い出を確かに胸に残していた。
熱の声 藤井杠 @KouFujii
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