sailing day

「嵐さん、ホントにやるんですか……?」

「お前が言い出したんだろ? 今さらビビってイモ引くのか?」

「いや、その……まだ覚悟が……」

「……いいから、やるぞ。卒業したいんだろ? 俺に任せろって」


 受付のタッチパネルを手慣れた様子で操作しながら、嵐さんは何事でもないかのように話す。いや、マジかこの人。僕が想像していた遍歴以上に色々な経験をしているかもしれないことに動揺しながらも、僕の頭は無数の可能性を演算し続けている。

 チェックインを済ませ、確かな足取りで歩みを進める嵐さんの背中を追う。これから何が起きるのかわからない不安と期待が心臓をノックし、僕は逸れないように必死で足を進めた。


「初めてなら、この部屋でいいだろ。ベッドも広いし、風呂もデカい。それに、この部屋は喫煙可なんだよ」


 2階の角部屋はそれなりに広く、モノクロの内装とガラス張りのシャワールームが都会的だ。壁際の間接照明が明滅し、夜を彩っている。

 嵐さんはベッドに腰掛けると、着けていた指輪やネックレスなどのアクセサリーをまとめてサイドテーブルに置いた。盗るなよ、と笑いながら服を脱ぎ、引き締まった身体が露わになる。細身ながら筋肉質な肉体に、シンプルなカルバンクラインの下着。白い肌と長髪が目を眩ませるほどのコントラストを生み、僕は小さく息を呑んだ。


「先にシャワー浴びてくるわ。AVでも観て待ってな?」


 嵐さんが肌身離さず着けているアクセサリーは、きっと鎧だ。どこか無防備な雰囲気さえも醸し出すその表情の端で、片耳だけのピアスが揺れる。壁に設置された鏡越しに見える僕の顔は、確かに紅潮していた。

 考えるより先に、身体が動いていた。理性あたま欲望こころがチグハグな結果を出力し、僕は胸に残る昂りを優先する。


「いかないで、らんさん……っ!」


 僕は力を込め、嵐さんの腕を掴む。そのまま頭を下げると、白いシーツに広がった黒髪の艶が目に飛び込んでくる。花が開くような髪の流れを見て、その姿を見下ろしていることに気付いた。体格では劣っているはずの僕が、嵐さんを押し倒している。

 僕はそのまま静かに息を吸い、香水の香りに混ざった汗の匂いを確かめる。この匂いだ。この匂いが、僕を狂わせる。この匂いがシャワーなんかで落ちてしまうのは、嫌だ。


「このままがいいです……っ! このままじゃないと、嫌なんです……!」


 少し戸惑い気味だった嵐さんの指が、僕の無造作に跳ねた髪を撫でる。細くてもゴツゴツとした、落ち着いた温かみのある手だ。指はそのまま首筋を伝い、Tシャツ越しに僕の汗ばんだ身体に触れる。嵐さんの手が汚れてしまう、と思い、反射的に身を引いてしまった。


「犬みたいだな、凪帆。こういう時、普通ならもっとムードとか段取りってのがあるんだけどなー」


 酩酊時の浮遊感はとうに消え失せ、足を掴んでくる現実は僕を嘲笑っている。世の中は選択の連続で、一度道を間違えると簡単には戻れない。この突発的な衝動の発露は、失敗に繋がる短絡的な選択ではないのか?

 気付けば、僕は泣いていた。情緖がおかしい。高揚なのか、恐れなのか、突如として襲ってきた不安なのか。


「ごめんなさい……僕、何もわからなくて……浮き足立ってて……」

「……でも、自分のやりたいことを言えるようになったのは立派だ。いいよ。お前がそうしたいなら、俺はそれに従うさ」


 嵐さんがもう一度頭を撫でる。抱きしめるように僕の身体をハグし、艶のある髪が僕の視界を覆う。

 夢ならよかった。これが夢なら、僕は現実と完全に距離を置くことができたのに。僕の欲望を赦してくれる人がこんなに近くにいるのなら、辛いはずの現実に期待を込めてしまう!


「改めて聞くけど、こういうのは初めてだろ? なら、俺が下だ。……女じゃ満足にイケないようになるかもな?」


 囁くような言葉が鼓膜に届き、僕の体温は徐々に上がっていく。絡み合う吐息が重なり、嵐さんは枕元のアメニティを指で確認する。


 僕の胸に棲みついた嵐が平穏や安寧をぐちゃぐちゃにして、進むべき針路は未だ見えない。それでも、前を見るのは楽しいと思い始めてきた。

 正解か不正解は、後で自分が決めればいい。今日笑えるなら、これからの未来で何度泣いたっていい。

 僕は帆を張り、夜明けを待たずに遠雷の輝きに手を伸ばした。


    *    *    *


 スト缶を飲んでいないのに、数センチ浮いた感覚だ。ただ、今日は落ちなかった。

 朝焼けが射し込む部屋は未だ熱気が篭もり、午前5時の街は灰色だ。僕はベッドの上で息を整え、嵐さんが買ってきたスポーツドリンクで喉を潤す。

 一度夜に漕ぎ出す経験をすれば、世界は違って見えるらしい。大きな窓から見えるのは何も変わらない街の風景だが、きっとこれから変わってくるのだろう。

 嵐さんは既にシャワーを浴び、バスローブを着たままベランダで煙草を吸っている。一見すると女性と見紛う後ろ姿だが、僕はその中の身体を知っている。昂った後に漏らす声も、重なる肌の温かさも。あと一つ知りたい事があるなら、僕は間違いなくこれを選ぶだろう。


「らんさん、たばこ一本もらっていい?」

「お前、煙草とか吸わないだろ?」

「……今日から吸います!」


 差し出された箱から一本抜き、嵐さんの咥え煙草から火をもらう。下着のままでベランダに出れば、風が妙に心地よかった。

 肺に空気を取り込み、煙を目一杯吸う。脳がクラクラして、思わず咳き込んだ。


「……美味いか?」

「独特な、味、ですね……」

「無理すんなよ。いきなり色々やらなくていいんだよ!」


 嵐さんは僕の頭を乱雑に撫でると、近くの灰皿に自分の煙草を押し付ける。吸い殻の山はまるで灰色の珊瑚礁で、銘柄のイメージカラーであるターコイズによく映えていた。

 たなびく煙が街に溶けていく。僕はずっと抱いていた疑問を、嵐さんにぶつける事にした。


「あの、なんで嵐さんは占い師を始めたんですか?」

「……金になるから?」

「身も蓋もないですね!? いや、確かに占いの腕は凄いですけど、その選択肢を選んだ時に迷いとか無かったのかな、って」

「迷わねぇよ。仮に金にならなくても、面白い客と出会うこともあるしな」


 お前みたいな奴、と指され、僕は吸っていた煙草を落としそうになる。


「なんで!? 僕なんて嵐さんに比べたら平凡で、自分では何もできないのに……」

「よく分かってんじゃん。確かにお前はダメな奴だよ。でも、勝負運と変な思い切りの良さはある。俺はそういう変な奴が好きなんだよ」

「……いま、好きって」

「凪帆。お前、2000年の8月3日生まれだったよな?」


 嵐さんは戸惑う僕の目の前にカードを突き出し、笑った。巨大な鎌を持った髑髏の絵柄に『ⅩⅢ』のローマ数字。それがタロットの死神である事は知っていた。


「死神の正位置。暗示するのは、憂鬱、失敗を恐れる、希望が持てない……。あと、分岐点」

「……悔しいけど、めちゃくちゃ当たってますね」

「だろ? ただ、ポジティブな暗示もあるんだよ。死の裏の再生、大きな人生の変革、一気に嵐を起こして去るような革命が起きる……。俺はその手助けをしたかった」


 改めて、この人はすごい占い師なのだ。僕の抱えている悩みを一目で当て、僕の傷を丁寧に埋めてくれる。


「もうちょっと詳しく聞いていいですか? 対人関係とか、探すべき人とか」

「このタイプに合ってるのは、意志が明確で心の決まった人だな。2人で迷いなく進む事ができる……」

「それは、嵐さんみたいな人って事です?」

「おぉ……?」


 今まで燻っていたのは、やりたい事が見つからなかったからだ。たとえやりたい事があっても、自分には無理だと諦めてしまう。

 だが、今は違う。明確にできた目標は、嵐さんの目を見て伝える事ができる。


「嵐さんの店、一人で接客も清掃もやってて凄いなぁって思ってたんです。でも、そういう仕事は誰かに任せてもいい気がしてるんですよ」

「……俺、お前の言いたいこと分かったわ」

「短期のバイトでも構いません。迷惑をかけるつもりもありません。僕を、あなたの側で働かせてください」


 視線が交錯する。数秒の沈黙の後に、嵐さんが言うことは予想できた。


「あとで『給料安い!』って文句言っても、知らねぇぞ?」

「よろしくお願いします!!」


 嵐の後に広がる空には、呆れ返るほど綺麗な朝陽が輝いていた。

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夕凪と遠雷 @fox_0829

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