春雷

「差せッ! 差せ差せ差せッ!! 行け〜ッ!」


 人でごった返す立ち見席に外れ馬券の紙吹雪が舞い、ターフの端を白く彩る。レース直後の喧騒は歓喜と落胆が混じり合い、僕はその様子を遠巻きに見ていた。


「あ〜ッ、畜生ッ! 軸が飛んでどうすんだよッ! 今日は馬連どころか単勝すら当たってねぇし!!」

「あのー、嵐さん?」 


 群衆の中で一際目立つ黒髪長髪の男は不機嫌そうに舌打ちし、視線だけで僕に指令を出す。この感じは、次のマークシートだ。


「……これ、でいいんですよね?」

「おう。次は3勝の1600センロクだろ? それなら騎手的にコイツとコイツか……?」

「あの、嵐さん……」


 嵐さんは束ねた競馬新聞を僕に放り投げ、スマホの画面を凝視してマークシートに印を付ける。鬼気迫るほどの真剣さだ。


「とりあえず500円分。後はパドック見て決めるから、追加のマークシートも頼んだ」

「いや、さっきから負けまくってますけど……! 全部僕の財布から出てるんですよ、これ」

「お前が渡した3万だろ? じゃあ、もう俺の金だよ」

「……そうなんですけど!!」


 嵐さんに初めて会った翌日、僕は促されるままに競馬場に来ていた。全財産は嵐さんが預かっていたので運賃が足りるかヒヤヒヤしたが、通学用ICカードの残額で辿り着けたのはラッキーだったのかもしれない。

 ギャンブルとは程遠い人生を送ってきたので、競馬観戦すら初めてだった。家族連れや女性客、自分と同年代くらいの若い客もそれなりにいるが、多数を占めるのはギラついた目のベテラン達だ。日々の生活を懸けて声を枯らして馬を応援する一団の中に、嵐さんが紛れていた。


「あれだけ凄い占いが出来るなら、1着になる馬も占えばいいんじゃないですか?」

「……あのなぁ、ナギホ。それじゃ駄目なんだよ」


 嵐さんはターコイズカラーの箱から煙草を取り出し、火を点ける。こんな特殊な状況でも、煙草を吸う姿は様になっていた。


「1時間後にメインレースがある。テレビ中継されるような“重賞”ってやつだ。ほら、紙面にも大きく出てるだろ? お前も予想してみろ、楽しさがわかるから!」


 競馬新聞と余ったマークシートを押し付けると、嵐さんはパドックの様子を見るために僕のいる場所から離れていく。とんでもない難題を押し付けられたのかもしれない。

 新聞紙面に書かれている用語やマークはどれも専門的なもので、どこから何を見ればいいのかさえピンと来ない。そもそも馬券の種類すら怪しいのに、この情報の塊からどの情報を信じればいいのかわかるわけがないのだ。不安だ。酒を飲みたい!


 きっと、僕の人生は誰かの決定に従い続けて動いてきたのだろう。流されるままに義務教育を終え、入った大学では周りの様子を伺いながら過ごした。それが生きていく上での最善の選択肢だった。失敗した責任を負うこともなく、その場その場の環境変化に適応して生きる。そうしていれば、順調だったのに。

 気付けば誰も道を示してくれなくなって、周囲は一足飛びに大人になっていく。最近までバカ話をしていた大学の友人が面接官に口先だけの夢を語る中、僕は無気力にモラトリアムを浪費している。

 ジョッキーに導かれて走る競走馬が、ひどく羨ましく思えた。勝ちたいという意思がなくても、鞭に合わせて走ればいい。その結果で人間が一喜一憂したとしても、彼らに責任は無いのだから。


 スチロール皿に入ったモツ煮をつまみ、再び競馬新聞に目を通す。想定オッズを参考にするのか、記者の評価に乗るのか。或いは周囲の声か、それとも直感か……。僕が意を決してマークシートを染めようとするのと同時に、背後で何者かが肩を叩く。振り向けば、既にパドックを見終えた嵐さんがニヤニヤと笑っていた。


「どうよ。予想は固まったか?」

「……全然わからないです。そもそもセオリーを知らないし、新聞だって情報量が多くてどこを読めばいいかなんてわからない。正直、途方に暮れてます」

「ふーん。俺の本命、教えてやろうか?」

「……さっきから外しまくってる人の予想なんて信用できませんよ」

「うるせー。次は来るんだよ」


 嵐さんはそう言うと、買った馬券をひらひらと揺らしてレースを応援しはじめる。数分後、嵐さんは掲示板に映る番号を見ながら悪態を吐いていた。


「……よし、次行くぞ。そっちのレースが本勝負なんだよ」

「今日だけで何連敗でしたっけ。というか、渡した金ほとんど使ってません?」

「次で逆転する……運は向いてるんだよ……」


 僕から取り上げた新聞をまじまじと見ながら、嵐さんは小さく唸る。次の予想をしているのだろう。僕はそれを邪魔しないように、静かにマークシートに印を入れた。


「なぁ、ナギホ。競馬で馬が勝つ条件ってなんだと思う?」

「……わからないなりに色々と情報入れましたけど、馬の能力とかジョッキーの腕とかじゃないんですか?」

「そうだな。でも、それだけじゃねぇんだよ」


 メインレースが始まる前の喧騒が場内を包み込み、ターフに吹き込む風が嵐さんの髪を撫ぜる。その表情には、何かの含みがあった。


「調教時のタイムに前走の成績、騎手との相性に血統、その日の天気とコース適性……。レースが始まるまでは、どの馬にも勝つ要素と可能性がある。その中から完全な予想をするのは、ほぼ不可能だ。だから俺たちは、情報を集めるんだよ。自分の選択を信じるために」

「自分の選択を……?」

「勝敗を予測する情報は無数にある。その中から掴むのは、正解なんかじゃない。自分が後悔しない選択肢なんだ。だから、俺は結果を占わない。正解が欲しいわけじゃないんだよ」


 嵐さんは腕を組んだまま、指先だけを動かす、それがサムズアップに似たジェスチャーである事に、僕は数秒後に気付く。


「だから、好きにやれ。自分に後悔のない選択肢を選ぶんだよ。ほら、もうすぐ発走時刻だぞ!」

「……はい!」


 賭ける馬の情報にも詳しくなければ、レースのセオリーに詳しいわけでもない。だから、これは勉強代だ。僕は印を入れたマークシートを何度か確認し、発券機に向かう。レース開始まであと5分。かなりギリギリだ。


 場所取りをしていたスペースに僕が戻る頃には、場内にファンファーレが響いていた。興奮に似た歓声と手拍子が場内を包み、群衆の昂りは波になる。各馬がゲートに収まり、一斉に飛び出した!


「行けーーッ!!」


 叫ぶ嵐さんを尻目に、僕はタラタラと冷や汗をかいていた。僕が熟慮の末に賭けた馬は、最後方に控えている。周囲の人は各々違う馬の名を叫ぶが、その中に僕の本命は居ない。当然だ。僕が選んだのは勝ちの目がとても薄い下位人気なのだから。

 各馬がコーナーを回り、観客席に最も近い直線を駆ける。凄まじいスピードで逃げる一頭を追跡する後方集団に紛れる本命を前に、僕は大きく溜め息を吐く。

 無理だ。馬群の間隔は狭く、間を縫って追い越すのは不可能に近い。やはり、自分の選択は間違っていたのだろうか。そう思った矢先——僕は目を疑った。


 その瞬間は、世界がスローモーションに見えた。馬群に包まれて見えないはずの瞳の輝きが、たった数秒の間にしかと目に焼き付いたのだ。そこにあるのは明確な闘志と勝ちたいという意思。そして、栄光に向かう強い足取り。


「……行け」


 その瞬間、馬に『ジョッキーに従うだけで意思がない』と思っていた自分を恥じた。海を割って進むかの如く、気迫で他馬に道を開けさせるかの如く。彼らは共に、人馬一体となって勝ちたいと思っているのかもしれない。

 だとすれば、僕にできることはひとつだ。他の誰が信じていなくても、僕が一番信じてやらないと。声が枯れるまで叫んで、勝利を願わないと。


「行け、行け……行けーーッ!!!!」


 ゴール板を越える瞬間の勇姿を、一生忘れることはないだろう。賭けていた金額も忘れ、僕は一際大きな声で歓声を上げる。いつものスピードで時間が流れていく世界に、途切れ途切れの実況アナウンスが祝福のように響く。


「……れは大波乱! 栄光を手にしたのは——」


 その日、誰にも期待されていなかった挑戦者は、無数の儚い夢で形作られた白い紙吹雪に祝福される。夕陽に照らされた馬体がキラキラと輝く様子を、僕は清々しい気分で見守っていた。


「8-3-15……? めちゃくちゃ荒れたな。8と3とかほぼ最下位人気の大穴じゃねぇか。誰が買ってるんだよ……」

「買ってますよ、8と3」

「ウソだろ、一点買いかよ!? おいおい、しかもこれ……馬単か!?」


 馬単とは、1着と2着を順番通りに当てる買い方らしい。今回のような結果で的中するのはほとんど奇跡のような出来事であるらしく、嵐さんは自分が外れたことも忘れて興奮を隠せない様子だった。


「これ、めちゃくちゃな高配当だぞ!? なぁ、いくら買った!?」

「100円ですけど……」

「……それでも10万、僥倖だ。今日のマイナスを取り戻すどころか大勝ちなんだよ。そんな十万馬券、どうやって当てた……?」

「あー……誕生日なんです、8月3日。考えてもわからないから、直感で選んだんですよ」

「オカルトかよ!? でも、確かにこれはお前しか選べない選択だな……」


 気付かない内に握っていた馬券を眺める。これは己の選択によって勝ち取ったものだ。僕にとって、それは金額以上に価値があるように思えた。

 徐々に陽は落ちて、無数の観客は肩を落として帰っていく。それでも残り1レースに夢を賭けるギラついた目の人々を眺め、嵐さんは『帰る』旨のジェスチャーを行う。


「あっ、嵐さん。昨日払えなかった残りの金、払いますよ!」

「……本当は現ナマでもらうつもりだったんだが、気が変わった。ナギホ、飯行くぞ。昨日の差額分は奢れよ!」


 アンニュイな後ろ姿から逸れないよう着いていきながら、僕は観客席を後にする。またいつか来よう。次はもっと情報を集めて、自分の選択に自信を持てるように。


「嵐さん、次どこ行きます?」

「回らない寿司?」

「ガッツリ奢らせる気だよ……」


    *    *    *


「いやー、美味かったな!」

「時価ってなんなんですか……時価って……」


 午後11:30の街にはまだ活気があり、僕たちは寿司屋から駅までの帰り道を歩く。

 嵐さんが贔屓にしている寿司屋は完全予約制の高級店で、海外の有名な美食家が足繁く通う名店らしい。目が回るほどの高級なネタは舌が溶けるほど美味で、出された日本酒は僕も聞いたことがあるくらい有名な吟醸だった。臨時収入で温まった財布から逃げていく諭吉の数を思うと、深く味わう気分にはなれなかったが。

 高級な日本酒を飲み続けていた嵐さんは、今も顔色ひとつ変えず歩き続けている。飲酒と緊張で顔を赤らめている僕とは大違いだ。きっと飲み慣れているのだろう。普段なら、モデルみたいな美女に個室で愛を囁いているのかもしれない。


「……ナギホ。煙草切れたから、コンビニ寄るわ」

「僕も一緒に行きますよ。色々買いたいものもあるし」


 嵐さんがコンビニのレジで煙草を買う間、僕は酒類のコーナーを確認する。慣れた手つきで例のスト缶を何本か手に取り、小脇に抱えてレジまで持っていく。冷蔵庫から出したばかりの缶は冷たく、火照った体を冷ましてくれた。


 近くの公園のベンチに腰掛け、嵐さんはポケットから取り出したオイルライターで煙草に火を点ける。切れかけた街灯に照らされた街の片隅に、蛍火が散った。薄い唇が吐いた煙がたなびく様子を眺めながら、僕はプルタブを開ける。


「また飲んでやがる。さっき、もっと良い酒飲んだろ?」

「こっちの方が落ち着くんです。身の丈に合ってて、ちょうどいいから」

「夢が無い奴だな。それ、そんな美味いか?」

「……一本飲みます?」

「いらねーよバカ。それ飲むと頭痛くなんだよ……」


 喉を通る炭酸の味わいと、安いアルコールの香り。胸が焼けるような感覚の後にやってくる多幸感。昨日の夜飲まなかっただけで、身体がこの酒に会いたくて悲鳴を上げていたのかもしれない。

 あまりの高揚感と多幸感に、思わず鼻歌を唄う。ハミングが明確な歌詞になり、四方を囲むビルによって額縁のように切り取られた空に静かな歌声が響く。


「ゆめならぁば……どれほどぉ……」

「ずいぶん陽気だな。酔うとそうなるタイプ?」

「……今の人生が、本当に夢なら良かったんですけどね。去年付き合ってた彼女に別れを切り出されたんですけど、思った以上に悲しくなくて。僕は確かに愛してたし、まさか振られるなんて思ってなかったんですよ。なのに、全然泣けなかったんですよね! 意味わかんなくないですか!?」

「お前のことだから、嫌われたくなくて全然進展させなかったんだろ? 自分が傷つきたくなくて、相手を信用しない。そういう部分でフラれたんだよ!」

「そういう正論が一番人を傷つけるんですよ!!」


 嵐さんは煙草を吹かすと、酒を啜る僕の顔をまじまじと見つめる。どこか真理を理解しているような聡明な瞳に、僕の心は奇妙なざわつきを見せた。初対面の時にも感じた、安寧の港を襲う暴風だ。


「占いに来るやつはだいたい2パターンに分かれるんだよ。自分の選択を曲げたくなくて背中を押してほしいやつか、本当に人生に迷ってるやつ。お前は後者だが、そういう輩に毎回やってるアドバイスがあるんだ」

「……教えてください」

「今やりたいことをやれ。誰にでも出来る無責任なアドバイスだよ。ただ、これが誰かに責任を取ってもらいたい人間には格段に効くんだぜ? そういう連中は、だいたい惰性で生きてるからな……」

「やりたいこと……」


 やりたいことを探さなくなって、何年経っただろう。僕は失敗によって傷つくことを恐れるあまり、自分の望みに理性で蓋をしていた。『どうせ望みは叶わないのだから』を枕詞に、消極的選択を繰り返して今に至る。そこに吹き込んだ嵐は、僕の帆を壊しかねないほど煽り続けるのだ。


「なんでもいい、俺がなるべく叶えてやる。お前に足りないのは、成功体験だよ。今日の競馬であれだけ稼いだんだぞ? ナギホ、ここで言ってみろ」

「……ちょっと待ってください、考えるんで」


 僕は残りの酒を一気に呷り、呼吸を整える。僕が今求めている望みは、ただひとつだ。どうしようもなく後ろ暗い欲望を、酒の力に頼って口に出すのは卑怯だろうか?

 嵐さんを困らせたい。この感情が嫉妬なのか、それともここ数日の意趣返しなのかはわからない。ただ、全てを理解して達観した表情を見せる嵐さんの表情が崩れるのを見たい。そう思ったのは確かだ。

 隣でくつろぐ嵐さんに視線を合わせる。近付いてくる遠雷の音を心の内で聞きながら、僕は緩く息を吸った。肺に入り込んでくるエキゾチックな香水の香りが脳をクラクラと揺らす。


「……嵐さん。一緒にラブホ泊まりませんか?」


 一瞬面食らったのか、嵐さんは咥えていた煙草を取り落としそうになっている。切れ長の瞳が見開かれ、微かに揺れた。


「なるほど、ラブホ。……俺と?」

「はい!」

「というか、俺で?」

「……はい」


 数秒の沈黙。マズい、これは間違いなく引かれた。僕の酩酊は急激に治まり、冷や汗が止めどなく流れる。なんでこんなこと言ったんだ僕、と自省している間に、嵐さんの黙考は終わった。


「お前さ……お前さぁ!! 誘うの下手かよ!!」

「すいません……嫌だったら全然断ってくれていいんで……というか忘れてください……もしくはこの場で殺してください……」

「いや、すげぇなお前。初めて会った時から思ってたけど、変なところで度胸あるよな……」


 嵐さんはケラケラと笑いながら、持っていたスマホで何かを調べ始めた。困惑している僕を見てまた笑い、スマホの画面を見せる。近くのラブホテルのHP画像だ。


「ここなら男二人でも入れる。ホテル代はお前が払えよ!」

「……嵐さん?」

「初めてが俺だってことを後悔しても、もう遅いからな。狂わせてやるよ、ナギホ」

「……嵐さん!?」


胸を貫く落雷が、僕の春に落ちた。

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