夕凪と遠雷

9.9㎡

 数センチ浮いて、無様に落ちた。


 テーブルに背中をぶつけ、連動するように飲みかけのロング缶が床に転がる。狭いベッドから転げ落ちたことを理解した直後に、二日酔いによる鈍い頭の痛みが襲ってきた。


「……最悪だ」


 溢れたレモンサワーで濡れた紙を拾い上げ、ゴミ箱に放り込む。可、可、不可、可。既に知っている結果を再度通知してくるような成績通知書は、どうしようもない現実が足を掴んでくるような気がして嫌いだった。

 缶の底に残っていた液体を飲み干せば、温くなったアルコールに気の抜けた炭酸ガスが混ざったケミカルなレモンの酸味が口内に広がる。不味い。質の悪いアルコールが二日酔いの体を無理矢理起こし、頭の痛みを徐々に抑えていく。現実が足を掴む重力は、少しだけ軽くなった。

 スマホの通知に溢れかえる就活サイトの企業紹介メールを開きもせずに削除し、緩慢とした思考でタイムラインを眺める。同期はとうに内定を済ませ、カタカナのビジネス用語を多用するようになった。いいね、いいね、ミュート。脳内に巡る不安も、こんな風に清掃できればいいのに。


 ストロング缶がもたらす特有の浮遊感が好きだ。常に身体が数センチ浮いた状態で、現実という重力を足蹴にできる。ワンルームの薄い壁、隣の部屋から漏れ聞こえるカップルの嬌声もまったく気にならない。まるで天から力を得たようだ。現代における神は、きっと9%のアルコールで構成されているのだろう。


 さらなる浮遊感を得ようと冷蔵庫を確認し、溜め息を吐く。在庫切れだ。全財産は財布の中の諭吉3人。月初に振り込まれた仕送りは、ほとんどが家賃と燃料ストゼロ費に消えた。ここからは節約をしないといけないが、まずやるべきは追加燃料の仕入れだ。

 適当に顔を洗い、パーカーを羽織る。髪はボサボサだが、近くのスーパーに行くのには問題ないだろう。やがて消えていく浮遊感を足掛かりに、僕は部屋を出た。


 “凪帆なぎほ”。ヨット好きの父親が付けたその名前には、「荒波に揉まれず、穏やかな追い風で海を進むような人生を送ってほしい」という思いがあるらしい。

 僕は安寧の港で目一杯帆を張って、背中を押してくれる風を待ち続けていた。くだらない現実で出来た錨を上げて、進路を決めてくれる羅針盤代わりの何かを。


    *    *    *


 晩夏の駅前商店街は人通りも穏やかで、昼過ぎの大通りには蝉の声が響き続けている。最寄りのスーパーへ向かうまでの通り道はいつもと何も変わらない、はずだった。


「私は金を払ったんだ。もっと敬意を持って接客すべきではないのかね!?」

「いちいちうるせぇよ、ハゲ。これが俺のスタイルなんだ。ペコペコ頭下げて対応してほしいなら、他所行け!」


 ビルの狭間から聞こえる喧騒が、僕の鈍い頭に断続的な刺激を与える。声の主は地下に続く階段の先、雑居ビルの古いテナントから現れた。薄い頭を怒りで真っ赤に染めた、中年のサラリーマンだ。


「に、二度と来るかァ!!」

「おう、帰れ帰れ! 今から丹念に塩撒くぞ!」


 早足でその場を立ち去るサラリーマンを眺め、僕は発端となった喧騒の元を探す。古惚けた階段の下、レンガの外壁に背を預けて煙草を咥える長身の男だ。腰まで届く黒髪と切れ長の瞳が特徴的で、暗がりで灯した火に映る横顔には妙な色気があった。

 頭上の看板には、紫地に金文字で『占い処 テンペスト』という店名が躍る。普段なら気にも留めない、街の片隅にある胡散臭い占い店だ。

 そもそも占いなんて信じたこともなく、先ほどのサラリーマンの態度からも良い店とは言えない事は頭の奥底で理解している。だからこそ、僕は自分で自分の行いが理解できなかった。


「すいません! 飛び込みで占いってできますか!?」


 まだ酔いが残っているのだろうか。僕は吸い込まれるように店主らしき男性に声をかけた。彼は微かに眉根を寄せた後、咥えた煙草を揺らすように首を縦に振る。


「ん、待っとけ。先に塩撒くから」

「……ほんとに撒くんですか!?」


 塩を撒く様子を見届けた後、僕は階段を降りて店内へ入る。程よく空調の効いた狭い廊下に、香を焚いたような匂いが充満していた。

 乱雑に積まれた縁起物や民芸品、何かよくわからない置物。通路のスペースは確保されているが、廊下の隅や壁には様々なものが所狭しと飾られていた。


「俺が一人で経営も接客もやってんだ。掃除とかめんどくせぇから、あまり触るなよ?」


 最奥の広い部屋に入ると、そこはイメージ通りの占いの館だった。薄暗い部屋はカーテンで仕切られ、奥の長テーブルにはタロットや木の棒が雑に並べられている。

 僕は促されるままにパイプ椅子に腰掛け、占いが始まるのを待つ。


 店主の名前は『らん』。3年前に占い師を始めた、弱冠28歳の若手エース。スマホから得ることのできる店主の情報はそれくらいで、あとは口コミのレビューが十数件。


『嵐さんがイケメン! ぶっきらぼうな態度がステキ!!』

『私の顔を見ただけで悩んでいることを当てられ、的確なアドバイスを頂きました。好きになりそうです』

『あまりにも接客態度が悪すぎる。こんなクソ店、二度と行かないと思う』


 レビューは二極だが、女性からの支持が厚いようだ。あの顔立ちなら当然だ、と僕は思う。僕の人生とは対極の、異性に見染められる日々だったのだろう。かなり羨ましい。


「さっさと始めるぞ。まずは俺の占いの説明からだ。いいか、今世間に蔓延ってる占いってのは大きく分けて4種類あるんだ。何がどうとかは覚えなくていい。俺のやつは、それをミックスした“我流”なんだよ」

「我流……?」

「基本は顔相とタロット、あとはインスピレーションだな。これ、結構当たるんだよ。例えば……」


 テーブルを挟んで僕と向かい合う嵐さんは、僕の顔をしげしげと眺める。かき上げた前髪の隙間から覗く耳にはピアスが揺れ、首元に輝くネックレスはアブストラクトな形状に捻れている。

 そこから腕、指先とアクセサリーを観察しているうちに、僕は嵐さんの顔を直視するのを反射的に避けていることに気付いた。人の目を見ないのは失礼か、と一瞬視線を合わせれば、嵐さんは切れ長の瞳を微かに細めた。なるほど、こういう仕草に女性はグッとくるのか。


「OK、だいたい分かった。アンタ、名前は?」

「凪帆……内海凪帆です」

「ナギホ。今のままじゃ、アンタが待ち続けてる風は一生来ないぞ」


 コールド・リーディングだとかバーナム効果だとか、占い師が客に自身を信用させるテクニックを無数に持っていることは知っていた。わざわざ占いに来るような客が何か悩みを持っているのは当然だし、誰にでも当てはまるような事象を特別な事のように言ってしまえば食いついていくものだ、と。

 それでも、僕が心の奥底に抱えていた焦燥を的確に言葉にされると吃驚する。いや、ビビる。凪帆という名前から連想して出てきたワードだとしても、的をストレートで射抜きすぎている。


「な、んでそれを……」

「あー、図星? 顔でわかるんだわ。この店に入る時、アンタ一瞬思い詰めた顔してただろ? あの顔は、何かを決めてほしがる奴の顔だ」


 そこから嵐さんは矢継ぎ早に、僕の現状を言い当てていく。モラトリアムのために大学に通っていること、失敗を恐れて行動できない性格、現実から逃げるためにスト缶を毎日キメていること。どれも否定しようのない事実で、僕の安寧の港はザワザワと荒れ始めていた。


「あとは、童貞……」

「そこは別にいいでしょ!? 産まれて20年くらい、この性格のままで生きてきたんですよ! 今さら変えるなんて……」


 嵐さんは薄く笑った。まるで僕の全てを見据えているかのように、これから僕がどう動くかを理解しているかのように。そんな確信を表情に出しながら、嵐さんは囁く。


「なぁナギホ、教えてやろうか? これからの人生が成功するかもしれない方法だよ……」

「……教えてください」

「了解ー。そしたらまず払ってもらおうか、5万」

「5万……!?」


 占い費用の相場は分からないが、これが法外な値段であることくらい想像はつく。元々の値段がそうなのか、それとも吹っかけているのか。


「なんてな、冗談だよ。そもそも、そんな上手い話が」

「払いますよ」

「……おい、まだ酔ってんのか?」


 僕は財布を取り出す。今月を生き抜くための全財産が詰まった、貴重な生命線だ。


「ここに3万あります。残りの2万はあとで払えばいいですか?」

「いやいやいやいや、ハァ? 5万だぞ!? 考え直せって!」


 酔っているわけでも血迷ったわけでもない。僕は真剣に、嵐さんの占いを聞くつもりだった。

 目の前で吹き荒ぶ強風が僕の船を座礁させるのか、目的地まで導くのかは分からない。ただ、くだらない現実の錨を吹き飛ばすには大きすぎる衝撃だった。


「これが僕の本気です。これで、僕を導く羅針盤になってください」


 嵐さんは数秒天を仰ぎ、大きく溜め息を吐く。思索に耽る表情すら画になる顔立ちだ。すらりと伸びた鼻先がこちらに向き、僕が差し出した紙幣を細い指でつまみ上げる。


「そういう事を言いたいんじゃないんだが……分かったよ、ナギホ。貰った金の分、お前に世の中ってやつを教えてやる」


 どこか冷ややかな視線で見つめられたことにも気付かず、僕は確かな高揚を拳に込めた。

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