翡翠の目の人魚 下
「砂子さん!」
奉公人に教えてもらって、私は砂子さんと過ごしたお部屋まで全速力で走りました。残念ながら一番初めに映した景色は旦那様のお顔だったのですが、彼女は許してくれるでしょうか?その謝罪もしなければいけないのだけれど――――――まずは一刻も早く、彼女の顔が見たい。そう思って私は無我夢中で走りました。
そうして走っている最中に、奇妙な感覚に陥ったのです。
「――――――え?」
ゆらり、と。視界の端に、魚影が映りこむのです。まるで自分が海の中にいるみたいに、目の前を魚が横切っていく。もちろんここは陸なので、魚が動いているわけがありません。
「なんだろう…………幻覚、かしら………?」
光が戻ったばかりの瞳にごみが入っているだなんて、そんな馬鹿な話があるでしょうか。それでも少しだけ気になったので、私は砂子さんに会いに行く前に洗面所に向かうことにしました。それに、自分の顔がどうなっているのかの確認もしたかったのです。私は別荘の中を歩き、鏡の前に立ちました。
そして、息を止めました。
「―――――――――え?」
そこにあったのは、黒い瞳ではありませんでした。
小さな村娘には似つかわしくないほどの、それはそれは美しい―――――そう、私の両の眼窩には、翡翠がふたつ収まっていたのです。
「………え?これ、どういうこと…………?」
両目の色以外は、完全に私でした。髪も、顔も、くちびるも、全部が私。違う所といえば瞳の色と――――――たまに、目の前を横切る魚の姿だけ。
「……………砂子さん?」
私は妙な胸騒ぎを覚えて、洗面所を後にしました。
砂子さんのいるお部屋は家畜小屋でも食糧庫でもなく、ただの使われてない空室でした。
「…………………」
私は、なんだか嫌な予感がして扉の前に立ちすくみました。………何をためらうことがあるのでしょう。私はこの扉を開けて、彼女をこの目に収めればいいのです。そうして、彼女と目を合わせて微笑み合うことができたのなら、それは何より嬉しい事だと私は思います。
目の見えるようになった私を見て、彼女はきっと喜んで出迎えてくれる―――――――そう信じて、私は扉を開きました。
「砂子さん!私――――――――」
「――――――ああ、その声は。ちとせ、ちとせね?」
私は。それを見て、扉の前から一歩も動けなくなりました。
「え」
「どこ?どこにいるの?ねえ、ちとせ。かわいいちとせ…………」
―――――――――彼女の瞳は。黒い布のようなもので覆われておりました。
大きな大きな水槽の中で、私の声を頼りに泳ぐ彼女の姿は紛れもなく人魚のもので。水流でたまにちらりと見える布の下には―――――――閉じられた瞼がありました。
「ちとせ、会いたかっ…………痛っ!」
「!砂子さん!」
だっ、と彼女の元に駆け付けて、水槽に両手を付けました。彼女は、そこにガラスがあることを認識していないようでした。ひたすら私の声のする方に泳ぐせいで、額は赤く染まっておりました。
「砂子さん、砂子さん、私―――――――――」
「ちとせ?そこにいるの?」
「ええ、ここにいるわ。あなたのこと、こんなに近くで見るのはじめてよ。あなた、本当に人魚だったのね」
「そうよ、信じてなかったの?」
「信じて、た、ね、ねえ、なんで、目―――――――――」
「―――――――――ああ」
その瞬間。彼女には全部わかったようでした。
「食わせたのね、あなたに。」
「くわ、せ……………」
――――――同物同地の話が、私の頭の中を駆け巡りました。
あれは――――――たしか、体の悪い部分と同じ部分を食べることで―――――
「あなたがどこかへ行った後、男の人が私の体を押さえつけて、匙で私の瞳をくりぬいてしまったの。ひどい話」
息を吐く彼女の声をよそに、私の心臓は嫌な音を立てていました。そんな、まさか、じゃあ、あれは――――――――
「わ、わた、わたし、あなたの、―――――――目を、」
そうね、と彼女は、私の声がする方に頷いた。
「そんな――――――――――わたし、なんてことを………」
私はその場でしゃがみ込み、嗚咽を漏らしました。そんな、そんなひどいこと。
「わたし、そんなこと望んでない!あなたの目を食べてまで、私がいい思いをするだなんて、そんなの――――――不公平だわ……………!」
「ちとせ…………ああ、泣かないで………」
「ごめんなさい、砂子さん、ごめんなさい、ごめんなさい…………!」
私はひたすらうわ言のように謝罪を繰り返していました。せっかく戻った世界は、ずっと涙の膜が張っていて、ゆらゆらと揺れてどうにかなってしまいそうでした。その揺れる視界の中にも、魚が泳いでいました。
ああ、じゃあこれはきっと、砂子さんが見たものなんだ。
彼女はもう二度と、海で華麗に泳ぐ魚たちの姿を見ることはできないんだ―――――
そう思ったらいてもたってもいられず、涙を拭いて立ち上がりました。
「許してもらおうなんて考えてない。けど、あなたに、おわびをしなきゃ――――――」
「あ――――――――――――」
己の命で誰かの命を助けることを、自己犠牲と言います。それはとても尊く、美しいものだと私は思っていました。
けれど、これは違います。そもそも彼女は、彼女の意志で瞳を差し出したわけではありません。
それに――――――――なにより。犠牲を享受する方は、こんなに苦しい。
ひたすら身が裂けるような罪悪感でいっぱいになって、何をしていいかわからないまま無我夢中で走りました。
そして私は、「それ」を聞いてしまったのです。
「――――――――旦那様は、奥様の永遠の命を望んでいるんですって」
きっと私は真っ赤な目をしていました。鼻水を啜って、涙をぼろぼろ流しながらそれを彼女に伝えました。しかし涙の理由は、悔しさやら、罪悪感やら、後悔やら、怒りやら。ところが彼女は、特に驚く様子はありませんでした。
「――――――――まあ、そんなことだろうと思ったわ。」
「それだけじゃない。人魚の肉は不老長寿の妙薬―――――――だけど、『全員がそうなるとは限らない』って………旦那様、おっしゃってた…………」
「そう。人魚の肉はね、合う人と合わない人がいるの」
「合わない人はどうなるの?」
「苦しんで死ぬわ。喉を掻き毟って、体の中がぜぇんぶ焼けただれて、血をたくさん吐いて死ぬの。それはそれはひどい死に方だそうよ」
くすくすと笑いながら、砂子さんはそう言いました。
…………部屋から飛び出した私が聴いたものは、旦那様と奥様の会話でした。
奥様は永遠の若々しさを。旦那様は奥様の永久の命と、自分の永久の繁栄を。
それを得るために、この別荘に来て人魚の肉を食すことにしたのだそうです。けれど、人魚の肉に適合する者としない者がいる、というのはお二人とも理解していたようでした。
「だから、あなたで試したのね、まず」
「―――――――ねえ、砂子さん…………………私、思い出したの。目が見えなくなる寸前の事」
私はその日、旦那様の大事にしていた花瓶を割ってしまったのです。拭き掃除をしていた時、つい手が滑ってしまって。片付けようとしている所を、旦那様に見つかって――――――
「それで、破片で。私の目を」
ああ、どうして忘れていたのでしょう。男の人の腕で押さえつけられて、尖った花瓶の破片で目を潰される、だなんてこわいこと。いや、もしかしたら意図的に記憶から消していたのかもしれません。だって、そんなこと―――――そんなものを抱えたまま生きるのは、あまりにも怖くて、あまりにも絶望的ではありませんか。
頭の中には目の前の彼女の瞳を奪ってしまったという気持ちも、旦那様への恐怖も、色々なものが渦巻いておりました。
真っ暗な部屋は間違いなく輪郭があるのに、私の目の前は真っ暗でした。
そんな私の空気を感じ取ったのか、砂子さんは「ねえ」と言いました。
「食べ物に当たる、と言うでしょう。あれは食べ物が悪いのではなくてよ、食べる側が悪いの」
「―――――――――?」
私は言っている意味も真意もわからず、ただただ漂う彼女を見ていました。
「火を十分に通していなかった、腐っていた………あるいは、すでにたくさん食べていた、相性の悪いものを食べていた。………理由は食材自身ではなく、食す者にこそあるの」
「……………どういうこと?」
「あなたが大丈夫だったとしても、他の人が大丈夫であるだなんて。そんなこと、あるわけがないじゃない」
「……………………」
私は唖然としながらそれを聞いていました。水槽のぎりぎりまで彼女は移動し、私の名を優しく呼びました。
「ねえ。いっそのこと、あなたが私のすべてを食べてくださらない?」
「え?……………冗談、」
「冗談でこんなこと、言えるかしら?」
「嘘。だって、目よりも痛いのよ?お腹を裂かれて、切られて、お刺身にされちゃうのよ?そんなの、痛いし怖いに決まってるじゃない。なのに、なんで――――――」
「だって、知らないひとに食べられるより、あなたがいいの。」
目の無い彼女は、それでも私を見つめていました。
「――――――それに、人間の分際で不老不死を求めようなんて、烏滸がましいのよ。ひとは定められた時まで生きて、死ぬから良いのじゃない」
「じゃあ、どうして私に食べてほしいなんて言うの?」
「だってあなた、不老不死に興味は無いのでしょう?」
「ええ」
「じゃあ、質問を変えるわよ。…………私のこと、好き?」
「好きよ」
「だからよ。肉なんかじゃない、私を好きだと言ってくれる人に、この身のすべてを捧げたいの。私はね、あなたとひとつになりたいだけ。不老不死なんて副産物に過ぎない」
喉から手が出るほど欲しい者もいるのでしょう。それでも彼女はそれを、ただの副産物だと言いました。
「ねえ、ちとせ。私の可愛いちとせ。あなたはどう?」
「――――――――砂子さんは、わがままね……………」
「ふふ、そうよ。人魚はね、みぃんなわがままで、さびしがりやなの」
「私に、死を捨てろって言うの?」
「ええ。」
傲慢極まりないと思いました。
でも、ああ、でも――――――――――
「それって、砂子さんと永遠を生きるということよね」
「―――――――ええ!」
だったらそれは、けして寂しい事では無いのです。
それに、私も汚い人間なので。
―――――――――あの至高の甘露を、誰にも渡したくないと。そう思ってしまったのです。
旦那様と奥様は、泡を吹いて死んでしまわれました。
彼女の肉は二人には合わなかったのです。一切れ食べた瞬間、私にひどいことをした旦那様はその端正なお顔を真っ青に染めて、床に倒れ、打ち上げられた魚のように痙攣し始めました。
奥様は呑み込んだ瞬間、胃の中のすべてを血と共に吐きました。そうして同じように、びくびくと震え、床に丸まってしまいました。
かわいそうな奥様。美しい奥様。どこか母に似た面影の奥様。私はあなたのことが好きだったけれど、あなたは私のことが嫌いみたいだった。火箸を押し当てられたときにできた火傷は、今でも背中に残っております。
けれど、そんなことはもはやどうでもよかったのです。
「お待たせ」
誰もいない広いテーブルに、「それ」はありました。
大きな船の上に、砂子さんは生け作りにされておりました。大量のお刺身はふんわりとしたつまの上に載せられ、上半身は船の端に飾られ、耳には食用菊が掛けられておりました。
「砂子さん、来ましたよ」
「――――――――ぁ、……………」
彼女の体はぴくりと動きました。生け作りといったって、そのいのちはもう消えようとしておりました。哀しいのに、嬉しい。だって今から、私は彼女を食べるのだ。あの美味しさをもう一度味わうのだ。
「――――――――砂子さん、」
死体がふたつ転がったお部屋の真ん中で、席について手を合わせる。
「――――――――――いただきます。」
■■■
「ただいま戻りましたよ、志伊良さん」
「おかえりなさい、ちとせさん。」
安楽椅子に座った私の今の雇い主は、本をぱたんと閉じて私を迎えた。
「どうだった?東京」
「楽しかったですよ。浅草に、巣鴨に」
「おばあちゃんみたいなセンスねえ」
「実際におばあちゃんじゃないですか、お互い」
「まあ、そうなんだけど。でも、そのナリだと大変でしょう、夜とか」
「そうですねえ。なにせ十三歳で時が止まっておりますから、外でお酒が飲めないのはちょっと。ああ、でも。その代わりに若者文化へ馴染むのは早いですよ」
「そうみたいね。なぁに?そのかわいいお洋服は」
「『じらいけい』というそうで。恐ろしい名前ですが、なかなかでしょう?あ、これお土産です。東京ばなな」
「ありがとう。あ、チョコ味ね。わたしこれ好きよ」
「ふふ、それはようございました」
甲斐崎志伊良という女性は、私と同じく人魚の肉を喰らった人間である。しかし、私と違う点は―――――彼女自身が、不老不死を捨てたいと思っているところだ。確かに、彼女は食べたというより食べさせられたに近い。
だから彼女はずっと、各地の人魚の話を蒐集し続けている。いつか自分を不死にした人魚に出会うために。そうして、不老不死をいつか捨て、ふつうに死ぬために。
「そういえばこの前、人魚伝説を調べている男の子が来てくれたの。人魚に纏わるお話を色々集めてるというから、私の持っているお話を少しだけお裾分けしてあげたわ」
「へえ。私のお話はしました?」
「するわけないでしょう。あれ、長いし。」
「まあ。愛の物語でしょう?人魚の話をするのなら、鉄板ではなくて?」
「愛?どちからというと、欲とエゴの物語だと思うのだけど」
自覚はあるので、そのふたつに思わず笑みをこぼしてしまう。
私は、あの日から死ななくなった。戦争に巻き込まれようが、刺されようが、溺れようが、何をしても死ななくなった。時としてそれを恐ろしく思ったりしたこともあったけれど、私が生きるということは、私の中の彼女も生きるということだから。
だから私は、これからも生き続けるのだ。彼女と共に。
「(ああ―――――――今日も、魚が泳いでる………)」
私の眼窩には翡翠がふたつ、収まっている。
私は毎日、ついぞ目を合わせることのできなかった彼女と見つめ合っているのだ。
人魚十景 缶津メメ @mikandume3
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