翡翠の目の人魚
翡翠の目の人魚 上
あとから聞いた話によると、「それ」は完全な球体であったそうです。
とろりと溶けるような乳白色と翡翠色のコントラストを持つ、この世のどんな宝石よりも美しいふたつの球体が、銀色のスプーンの上に載せられていました。
口を開けて、という声に従うと、舌の上に「それ」が乗せられました。
「それ」を食べた瞬間の感動を、私はどう伝えれば良いのでしょうか。
とろとろと溶けるような舌触りに、爽やかな甘み。ほのかな酸味がアクセントになったそれは、瑞々しい果実をいくつもいくつも詰め合わせたような味をしておりました。
ひとつめは、あまりのおいしさにびっくりして。思わずごくんと丸呑みしてしまいました。しかし、球体を飲み込んだにもかかわらず喉の違和感はありません。まるで喉から食道へ滑り落ちる間に、そのすべてが解けてしまったような感覚でした。
だからふたつめは、よく噛んで食べました。歯を立てると「それ」はぷちりと音を立て、やわらかく口の中に甘味が広がって生きました。噛んでみて気づきましたが、甘味と酸味の他にも、ぱちぱちと口の中でなにかが弾ける感覚を覚えました。私は口の中でものが弾けるという経験をしたのは初めてだったので、それもまた驚いてしまいました。でも、そこは二回目です。驚いて呑み込んでしまうなど、勿体なくて出来ましょうか。ゆっくりゆっくりと「それ」を味わって、時間をかけて呑み込みました。何もなくなった口内には、不思議な幸福感が残りました。
瞬間―――――――――
視界が、ぱあっと青く広がりました。驚いて目を瞬かせてみれば、そこは――――紛れもない、海の中なのです。もちろん私の呼吸はできていましたし、私は今テーブルの前に、目隠しをした状態で座っているので、そんなわけはないのです。
でも、目の前をすうっと魚が泳いでいき、上からはゆらゆらと水越しの太陽が揺蕩っておりました。どれぐらいそうしていたでしょう、私は思い切り肩を揺さぶられ、ようやく意識を現世に戻しました。
「見えるか?」
旦那様の声が聞こえます。旦那様の端正なお顔が目に映りました。
そう、映ったのです。
「………………見えます」
「そうか、そうか。よかったな」
旦那様は嬉しそうに私の肩を叩きました。横にいらっしゃった奥様も、私の手を握り「私は?私の事は見える?」と言いました。同じように頷くと、なんとも嬉しそうな顔をされました。
「………よかった。ほんとうに」
――――――私の視界の中で。魚が泳いでおりました。
私がこの別荘に連れてこられたのは、一週間前の事でした。
私は■■県にある村の出身です。当時はどこの田舎も貧しく、男も女も子供も老人も、皆やせ細っておりました。私の家もまた、例に漏れませんでした。
私は母が持たせてくれたお守りを握りしめ、奉公に出ることとなりました。そうして今住み込みで働かせていただいているのが、現在の旦那様の家なのです。旦那様は、大変裕福な方でした。ここで得たお賃金が余ったら、妹に好きなものを買ってあげよう。そんな風に思いながら、日々を過ごしておりました。
ある夏の日、とある事情で私は両目の視力を失いました。
目が見えなければお仕事もままならない。不安でいっぱいな私に旦那様は、避暑地の別荘に同行することをお許しくださいました。
私は驚きました。当然です、使い物にならない奉公人を、どうして手元に置いておく意味があるのでしょう。私は頭にいっぱいの疑問を浮かべながら、旦那様と奥様、そして数人の奉公人と共に別荘へ向かうことになったのです。
私にあてがわれた部屋は、夏なのにどこかひんやりとしたお部屋でした。
瞳の光をすっかり失っていたものでしたので、その部屋がどのぐらい大きいのか、どこになにがあるのかわからずに、ただ壁伝いにそろそろと歩を進めておりました。
その時、声が聞こえたのです。
「あなた、目が見えないの?」
声をした方向に首を向けます。どうやらこの部屋には私以外にも人がいたようでした。慌てて挨拶しようとした瞬間に、あれ、と思いました。
「(変だな、こんな声聞いたことないや)」
誰だろう。それを考えた瞬間、私の背中にはうっすらと冷や汗が浮かびました。奉公人の声ではない。旦那様の声でも奥様の声でもない。別荘の管理人さん?いいや、そんな人がここにいるはずは―――――――
「ねえってば。目、見えないのでしょう?」
声の主は美しい声で、もう一度それを問いました。私はこりもせず驚いて身を竦ませてしまいましたが、―――――その声に、棘や敵意のようなものは感じなかったので。ひとつ、頷きました。
「そう。あのね、前に三歩進みなさいな。そうしたら、右を向いて」
「……………?」
私は不思議に思いながらも、その声に従いました。なぜって、私は。誰かに導いてもらわないと、この暗い場所でずっと何もできないからです。
「そうよ、いい子ね。じゃあ、五歩進んで。いち、にい、さん、し、ご………止まって。しゃがんでごらんなさい」
「は、はい―――――――」
「そうしたら、手を伸ばしてみて。」
「……………あ、」
それは、薄い布団でした。探ってみれば、枕もありますし、掛け布団もあります。声の主はお布団まで私を導いてくれたのだ。私は、どこにいるかもわからない美しい声の主に「ありがとうございます」と礼をしました。
「そっちじゃないわ、私はこっち。………ああ、見えないならしょうがないか。ねえ、あなた。どうしてここに?療養したいのならもっといい場所があるでしょうに」
「―――――――ここは、どこなの?」
「さあ。家畜小屋、ではなくて?ああ、食糧庫かしら」
「しょく……………」
「ねえ、あなたはどこから来たの?名前はなあに?私、あなたのこと知りたいわ。だって、ここに来る人間なんて久しぶりなんだもの!」
私は声の主に、旦那様の別荘に連れてこられたこと、目が見えない事、そして自分の名前を伝えました。声の主はふんふんとどの話も興味深く相槌を打ち、ぱしゃりと音を立てました。それは水が跳ねる音に聞こえました。真っ暗な世界の、唯一の生活音がそれでした。
「ふうん、じゃああなたは厄介払いされてしまったのね。可哀想に」
「厄介払い………」
その通りです。もしかしたら別荘にお連れくださったのは気晴らしなどではなく、普段誰も立ち寄らない別荘地へ置いて帰ってしまうことが目的だったのかもしれません。私は急に悲しくなって、その場に三角座りしてしまいました。声の主は「ああ、泣かないで」とおろおろと困ったような声をあげました。そういえばさっき、食糧庫だとか言っていたような―――――――まさか。
「私、食べられちゃうの…………?」
それは、嫌だと思いました。第一、こんな薄汚れた、肉もなんもついていない娘子を食べた所で何になるというのでしょう。私は泣いていいやら絶望していいやら、ひたすらそこでああとかううとか呻きながら転がっておりました。
「まあ、ひとによっては食べたいのではなくて?小さな女の子のお肉」
「そんな…………」
「まあまあ。食べられる者どうし、仲良くやりましょうよ」
声の主の方に顔を上げると、また水が跳ねる音が聞こえました。食糧庫なのに、そこにはまるでたっぷりの水があるかのような音でした。
「―――――あなたは?」
「私?私はね―――――――人魚なの」
「にん………ぎょ………?」
「そう。―――――見るのははじめて、かしら?」
――――――砂子、という名前の人魚は、それはそれはおしゃべりな人魚でした。
真っ暗な世界でひたすら横になっている私にとって、それは紛れもない暇つぶしであり、孤独を癒す唯一の光でありました。彼女は自分が暮らしていた海の話や出逢った人間たちの話、動物の話、魚の話、貝の話に楽しい話、哀しい話、手に汗握ってしまうようなお話から恋のお話まで、様々なことを語ってくれました。その語り口は軽妙で面白くて、まるで自分もその場にいるかのような臨場感さえ覚えました。私は、布団の上にいながらたくさんの海を冒険したかのような感覚を覚えました。
別荘に来てから、どのくらい時間が経ったのかわかりません。時間間隔が失われた時の中で、私たちはたったふたりきり、暗いその場所でひたすら漂っていたのです。
「ねえ、同物同地というものをご存じ?中国の方の教えでね、体を悪くしている場所と同じものを食べると、たちまちその箇所が良くなるのだそうよ。あなたもいかが?」
「それって、例えば鳥の目を食べろということ?………ちょっと嫌かも。」
「いいじゃない。空が見えるようになるかもしれないわ」
私が寝ている時に、奉公人が食事を持ってきてくれるようでした。少なくとも、餓死させる気は無いのだと安心しました。
「砂子さん、海の底ってきれい?」
「ええ。とてつもなく綺麗で、とてつもなくこわい場所よ」
「いいなあ、行ってみたいわ、私」
「こわい場所なのに?」
「うん。」
朝も昼も夕も、そこにはありませんでした。
「ちとせは不老不死に興味はあって?」
「無いわ。だって、そんなの怖いじゃない。好きな人も嫌いな人も、私より先に死んでいくってことでしょ。その先は、ずっと一人ということじゃない。そんなのいや、耐え切れないわ」
「…………さびしがりやさんなのね。」
「ねえ、砂子さんはどんな顔をしているの?」
「難しい質問。どんな顔なのかしらね」
「可愛いだとか、美しいだとか」
「ふうん。じゃあ、可愛くて美しいわよ」
「もう、答えになってない!」
「ちとせの目は何色なのかしら」
「黒よ。よくある、つまらない色。砂子さんは?」
「私は緑色…………いえ、ちょっと違うかしら。ええと………そうだ、翡翠。翡翠のような色をしているの。きらきら光って綺麗だって、よく言われたわ」
「へえ………いいなあ……………」
「ふふ。でも私、黒ってすてきな色だと思うわ。だって夜の彩でしょう?――――――ねえ、その目。元から見えなかったの?」
「え――――――ああ。これは……そう、三日前かしら。目が覚めたら、急に見えなくなっていたの。私、その前後の事を全く覚えていなくて………気が付いたら布団の上に寝かされていて、私の世界から光は消えていた。………なにがあったのかしら」
「…………そう。じゃあ、もしかしたら見えるようになるかもしれない、っていうことね?」
「それは、………そうだったら、良いなとは思うけど」
「――――――――じゃあ、あなた。目が見えるようになったら、真っ先に私の所へ来なさい」
「え?」
「だって、一番最初に見る景色は美しくなきゃ!」
鈴を転がす声は、どこまでも無邪気で。私は、自分にないものを持つ彼女のことが好きになっていたのです。
そんなある日のことです。私は急に、その暗闇から出ることになりました。
「ちとせ、旦那様がお呼びよ。立てる?」
「―――――――え、あの、わたし、どこへ………?」
「みんなでお食事を食べるところよ。何日もこんな場所に閉じ込めるようなまねをして、ごめんなさい」
それは奉公人のひとりである女性の声でした。この女性にはよく目を掛けてもらっていたので、話しかけられた瞬間安心したのは事実です。それでも同時に感じたのは、他でもない、罪悪感でした。砂子さんを、この暗闇にひとりきりにしてしまう。私は振り返って、彼女の名前を呼びました。
「―――――――――砂子さん、……………」
「いってらっしゃい」
ぱしゃりと水の音。もしかしたら手を振ってくれたのかもしれません。私は見えないながらも、彼女の方に手を振り返しました。
「じゃあね、また、絶対にまた来るからね」
「ふふ、――――――――約束よ?」
彼女は、どんな顔で私を送り出したのでしょうか。
ああ、私は。
私が食べたものは。
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