午前の逢魔

缶津メメ

または魔に逢った話

友人と久しぶりに会うことになった。友人―――仮にAとしよう―――とは仕事の話だの、身近にあった話だの、他愛もない話題をぽつりぽつりと語り合い、うまいものを食いながら酒を飲む。程よい喧騒と温かくなる体を感じていると、Aがぽつりと呟いた。

「俺、この前自殺未遂したよ」

いきなり冷や水を浴びせられたような気分になった。あまりのことですぐに呑み込めず、思わず手元のビールをちびりと飲む。

「……………生きててよかった」

ぐるぐると色々なことが渦巻いたが、ようやくその一言だけが言えた。Aは微笑んで「ありがと」と礼を言う。礼を言われるようなことを言っただろうか。

「―――――なにか、あったのか?」

「何か、ねえ。恋人に振られただとか、身近な人が亡くなっただとか、そういう重苦しいのじゃないよ」

そこでAも酒をちびりと飲む。彼も言葉を選んでいるのか、先ほどまで落語家かと思うほど饒舌だったのに―――――この話を始めた瞬間から、豪雨から小雨になったような喋り方であった。

「ただ色んなものが重なっちゃったっていうか………ああ、生きづらいなあって思っちゃったんだよな。それでメンタルがぼろぼろになって、これよ」

Aは明るいのに暗い。というより道化のふりをした根暗である。根暗であるなら無理して道化のフリなどしなくていいとも思うのだが、人と付き合う以上そうもいかないのだそうだ。道化のフリをしていないと良好なコミュニケーションが取れない。

しなくてもいいんじゃないか、と友人である俺は思う。そうもいかないのが社会である。

なので―――――――きっと、潰れてしまったのだろう、この男は。

「けどさ………言いづらいけど、お前今までもメンタルやられてた時期あったじゃん。………その、なんつーの。リスカ……とか」

「リスカは精神安定剤みたいなもんだし。……でもまあ確かに、今まで死にたいと思っても行動に移したことは無かったな」

「じゃあ」

「その話なんだ」


――――――Aの口が、ゆっくりと開いた。



■■■



その日は、一人で仕事をしていた。

色々なことがうまくいかなくて、ただ生きているだけでは社会は認めてくれなくて。自分より頑張っている人を見れば眩しく想い、自分より苦労している人間を見れば自分の甘さを見せつけられているようで苦しく。「もっと頑張らなきゃ」なんて感情は向上心の皮を被った呪いとなり、どんどん自分を苦しめていく。自分はダメ人間だと思う。眠れない夜が続く。

耐えられなかった。

「(……でも、俺が死んだら父さんも母さんも悲しむだろうな……)」

それは嫌だった。一人息子がいきなり死んだら両親はどう思うだろう。不出来とはいえひとりだけの息子を失わせるには忍びない。貴重な友人たちもいる。とても好きな作家の新作が月末に出るし、ずっと動いていなかったシリーズの続編が来年出るという。

死ぬのはだめだ、とぼんやり思う。

けれどこんなぼろぼろの身で何年も生きていかなければいけないというのは、真綿で首を絞められるような感覚になるのだ。つまりは苦しい。いっそひと思いにしてくれと思う。

死にたくはない。

かと言って生きたくもない。

どっちつかずのまま黙々と仕事をしていた瞬間、「それ」は目の前に飛び込んできた。


■■■


「お前はさ、好きな時間ってある?例えば――――そうだな、朝が好きだとか、五時あたりの空が好きだとか」

「詩的表現すんな、よくわからん。例えば?」

「俺は―――――午前中の太陽の光が好き。なんか爽やかって言うか、気持ちいいだろ」

その気持ちはわかるのでこくりと頷く。けれどそのことと自殺未遂がどう繋がるのだろうか。

「そういう、時間だったんだよ」


■■■


窓の外に人間が浮かんでいた。

いや、訂正しよう。向かいの建物の屋根に、ひとが座っていた。男か、女かもよくわからない。ただただ美しい人だと思ってしまった。

「ひと」はこっちを見てほほ笑む。俺の胸は高鳴る。

その微笑みは青空のようでありながら、一種の妖しさが滲むような―――――ひどく、心の奥を焦がされるような魅力的な笑みであった。

「ひと」は唇を動かす。この距離では声なんて聞こえないのに、こう聞こえた。

「見、て、て?」

復唱すると「ひと」は嬉しそうにこくりと頷く。どうやら当たりだったらしい。俺も嬉しくなって、思わず口角が緩む。

「ひと」はその嬉しそうな表情のまま、どこからか包丁を取り出した。


その包丁を己の首に当てる。


向かいの屋根で「ひと」の首筋から鮮血が勢いよく跳ぶ。けれど「ひと」はこの世の喜びを集めたかのような、それはそれは心地よく、嬉しそうで――――――健康的な恍惚さ、とでも言うのだろうか。そんな表情をしていた。俺はそんな様子に目が釘付けになる。


――――――――気持ちよさそうだ。


ふと、そんな風に思ってしまった。目の前で人間が自殺をしているというのに、俺はなんてことを考えてしまったのだろう。けれど一度思ってしまったものはなかなか変えられず、心が浮足立つ。「ひと」は俺の視線をその身に受け、ようやくこちらに視線をやる。そうして手招きをしながら―――――――


「きもち、いいよ」


ああ、いいなと思った。

思った時には俺は窓枠に手をかけ、身を乗り出していたのだ。



■■■


「車が通りかかる音で正気に返った」

―――――――ほっと一息ついてしまう。そんな俺の様子を見て「すまん」と謝るAに「それで」と口を動かした。

「そのあとは、まあ。窓を閉めて仕事に戻ったよ。恐怖は無かった。ただ『ああ、もう少し勢いが良かったら死んでたな』って思っただけだ。」

ただね、とAは言う。

「魔が差すって言葉があるだろう。あれって、本当にあるのかもしれないぜ」

「魔が………?」

「そう。なんとなく俺は思うんだ。魔が差すって、よくないことに使われるだろ?あれって多分、自殺もそうだと思うんだ。魔に誘われるっていうのかな、それとも魔が通りかかるのか。どちらかはわからないが、突発的にしてしまう」

「それだとお前、世の中の悪事もろもろは大体魔が差してることになるが?」

「そうとは言わないけども。そういうケースもあるのかもしれないってことさ」

Aは笑って焼き鳥を食う。俺はその様子をじっと見る。生きてなかったら焼き鳥も食えてなかったんだぞお前、と妙な怒りが湧いた。

「――――――ただ、まあ。後からじわじわ怖くはなったな。あのまんま落ちてたらどうなってただろうな、とか。同じ場所に行ってまた妙な気を起こしたらどうしよう、とか。おかげさまで死ぬのが怖くなっちまった」

「嫌な賢者タイム」

「確かに。けどまあ、何が言いたいかっていうとな。魔が差したらのちのち怖いって話だ。いいか、魔ってのは恐ろしいものの姿をしていない。ほんとうの魔はきっと、自分が美しいと思うものの姿で現れる。傷ついた心の前に現れる。死が解放であり、快楽のように魅せる」


誘われるなよ、Aは横目で俺を見ながら言った。



「――――――――――A、俺さ。夕方が好きなんだよね」

「夕方?」

「おう。だから――――――まあ、無いとは思うけど。もし精神がやられてる時に魔……ってやつが来るんなら、それはきっと逢魔だな、って」

「逢魔が時、か――――――確かにそうかもな。お前美女の誘惑に弱いんだから気を付けろよ」

「俺を煩悩まみれみたいに言うな!………ああ、そういや。最近見た映画でこういうセリフがあったんだ」


『人間は快楽に弱いが、快楽のみにて生きるものではない』


「―――――――人間には理性がある。冷静さがある。思考力がある。ただ繁殖して生きるだけなら獣でもできる。脳を使え。理性を捨てるな。人間らしさを失うな。呑まれるな」

「――――――――………………」

「お前が魔だかなんだかに克てたのはきっと、お前が理性を捨てなかったからだ。お前の人間性の勝利だよ」

「そうか」

「そうだ」

「そうだといいな」

「おう」

「なあ、俺。なにがあろうが世界は変わらないし、しんどいこともきついことも続くんだと思う」

「そうだな」

「それでも、打ち克てたって言葉で俺はちょっとだけ、救われた」


ありがとな、とAは言った。

俺はちょっとだけ嬉しくて、ふいに涙腺が緩みかけたのだった。

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