狩りのマナー

湾多珠巳

狩りのマナー


 何度めかの転勤で故郷の県に戻り、実家住まいをすることになった。

 両親はそろそろいい年だし、俺も独り身なのをいいことに、いつまでも年中遊び回ってるわけにはいかない。一度出発点に戻って人生を仕切り直すにはいい機会だ、なんて殊勝な気持ちもなかったわけではない。

 荷物の整理もあらかた終わった日曜日、十五年ぶりに町中を一巡りしてみようかと思い、親父に自動車を借りることにした。ドライブ自体が永年の趣味みたいになっているというのもあるが、今後は家の用事で俺がハンドルを握ることだって多いだろうし、早めに慣れておこうという心づもりもあったのだ。

 が、親父はキーを手渡しつつも、どこか浮かない顔だ。

「何か?」

「いや、なんと言うか……お前、この間まで北海道だったじゃないか。その前は……ええと、なんとか島で」

「ああ、それが?」

 だから何だというのか。確かにここしばらく赴任先は僻地ばかりだったが、地方支社や本社に出向くことはしょっちゅうあったし、ここ程度の地方都市で俺が人酔いするとでも?

「急に慣れん場所をうろついたら、その」

「慣れん場所ってのは何だよ。ここは俺のホームタウンだっつの!」

 そう言い捨てて玄関へ向かう。親父はまだ何か言いたそうだったが、構わず家を出た。

 昔からそうだが、親とはどうも話の呼吸が合わない。少々年を取ろうが、大人同士でわかり合えるようになったりはしないものだな。語り合うなら、今も昔もタメ年の奴らだろう――と考えて、ふと、今現在もこの町に残ってる何人かの顔を思い出す。挨拶回りぐらいしておこうか。浩志こうじあたりなら、店に行けばすぐ会えるだろう。よし、そうしよう。

 玄関を出ると車のドアまではほんの五歩である。今使ってるのはごく標準的なセダンだった。ついこの間まで利用していた社用車とも違和感なく乗り継げるタイプだ。特に戸惑うこともなく、ドアを開けて運転席にすべりこむ。

 当然のことだが、運転設定が親父向けの仕様になっているので、俺のスタイルに変えさせてもらう。その手の操作はレンタカーの利用時にもつきものだし、切り替えはほとんど無意識的に、数秒で済んだ。

 まったく、何を気にする必要があるというのか。十五年前にここを離れた時と、道路はほとんど変わっていないと聞いている。バスの窓から見、少し歩き回った範囲でも、別段景色が様変わりしてる印象はなかった。

 気を取り直してエンジンをかけ、車庫から出ようとしたその時、視界の端に"それ"が見えた。

 閑静な住宅地を貫く片側一車線の古い道路。その、道路を挟んだ反対側に左右に伸びている歩道の、右手四軒ほど先の角の陰で、"それ"は一見、大昔からの風景の一部のように、その場になじみ、静かに佇んでいた。いや、それどころか、俺の方こそ新奇な客人であると言わんばかりに、明らかな興味を持ってこちらを注視しているではないか。

「なんでおまわりがこんなところに」

 警官だ。それも、たまたまの巡回や事件の調査の類ではなかろう。乗り物こそ一二五ccのしょぼい二輪だが、あの白ヘル、にじみ出る雰囲気、交通課に間違いない。

 ついひとりごちて眉をひそめたのが、フロントガラス越しに見えでもしたのか、そのヘルメット姿の男性警官が短くなにごとかを口にした。マイク越しに無線で連絡を取っているらしい。

 思わず運転席パネルを端から端まで見渡した。異常ランプはついていない。整備不良に該当するような故障でもあったか? それなら親父が何か言うはずだし、乗る直前の俺の記憶でも、何ら問題はないはずだ。

 いっそ運転席から降りて、車体の全周点検をするべきか、とも思ったが、四軒向こうに突っ立っている人間が、この自動車の後部ランプの欠陥などを察知しているはずがないだろう。

 大丈夫だ。こちらにやましいところなどない。妙に視線を感じるのは、思い過ごしだ。僻地暮らしが長くて、ポリの熱いまなざしなんてものには、とんとご無沙汰だったしな。はは。はははは。

 ハンドブレーキを下ろし、わずかにアクセルを踏み込む。とたんに、件の警官が、今まで半身で軽く振り返るような姿勢だったのが、はっきりと全身でこちらと向き合い、むしろ身を乗り出すようにして、何ごとかを観察する様子になった。

 慌ててブレーキを踏む。なぜだっ! と絶叫したいのをこらえ、済ませたはずの左右確認をもう一度、念を入れて行い、する必要のない後方確認までやってから、あ、もしかしたらこれか? と気がつき、サイドウインドウを下ろして接近車両の音を確認する……ふりをしてみせた。

 いや、こんなことは求められていないっと頭の隅で断じつつも、目の前に制服姿がいるとつい、教習所時代そのまんまの模範運転にスイッチしてしまう。小市民の悲しい性である。

 今一度、じっくりと左右確認を済ませ、最前から人っ子一人通らない道路へ、ようやくのことで乗り出した。

 浅くためいきをついて、さっさとこんなところは離れてしまおうと、アクセルに足をのせ、ちらりとルームミラーへ目をやる。もう少しで全身硬直を起こすところだった。なんと、あのおまわりが、バイクにまたがって俺を追跡しようとしているではないかっっっっ。

 俺が何をしたというのだ! いや、これから何かするものと……期待、されているのか?

 おかしい。何かが狂っている。いっそこの場でUターンして今日は家に引きこもってしまった方がいいかもしれない、とも思ったが、親父の手前もあるし、百メートルそこらで逃げ帰るという選択はさすがに俺のプライドが許さない。

 いくらも走らないうちに二車線道路に突き当たった。住宅エリアを抜けて町の幹線道路に入ったのだ。信号のないT字路をついそのまま走り抜けようとして、あわててブレーキを踏む。「一時停止」と路面にでかでかと書かれている。もちろん昔からそんな標識があることは知っているが、実際に止まったことはなかった。視界があまりよくないところなので、その位置で停止しても歩行者の往来はもちろん、カーブミラーすらろくに見えない。注意しながら最徐行で視界が開ける位置まで進入する、というのが結局いちばん安全なのだ。わざわざ完全停止する必要は百パーセント、ない。

 が、すぐ背後でおまわりがじっとこちらを窺っているのならやむを得ない。

 俺は心を無にして、形式的手順を一つ一つ正確に踏み、少なくない時間と燃料をムダに費消して模範的なドライバーを演じた。ここは公道ではない、俺は今十何年かぶりに教習所の箱庭みたいなコースでままごとじみた運転ごっこを再現してみせているのだ、と自分に言い聞かせつつ。

 ようやくにして幹線道路に入ると、多少前後の交通量も増えてきた。が、ここから町の真ん中まではずっと田舎道だ。日曜の午後だと言うのに、対向車も家族連れはあまり見られず、今に始まったことではないが、人口の高齢化が一層進んだような印象がある。

 ……などと感慨に浸る余裕は、しかしほとんどなかった。白い二輪車は依然、ぴったりと後をつけてきているのだ。その昔は当たり前のように六十キロ前後で飛ばしていた道路を、正確に制限速度の四十キロジャストでちんたら走り続けるのは、かなり骨だ。

 当然のごとく、たちまちのうちに後続が詰め詰めになって、しびれを切らした奴らが次々に追い抜きにかかる……のかと思いきや、どの車両も異様にマナーがいい。後続車も先行者も、乗用車はもちろん、営業車もトラックもきちんと四十キロをキープし、車間も適切に空けていて、お行儀がいいことこの上ない。

 いくら白ヘルが悪目立ちしているからとは言え、さすがに妙だな、と思っていたら、二百メートルほど先、コンクリのひび割れたガソリンスタンドの跡地に、紺色の制服が二人、仁王立ちになって車の流れを見渡しているのが見えた。

 これが原因か? あるいは今日は町全体で交通違反撲滅キャンペーンでも開催しているのか?

 してみると、俺一人がつけ回されているという印象は、やはり思い過ごし――と気持ちを切り替えようとした途端、新たな警官二名が揃って俺の方を見た。車種とナンバーを確認するような目の動きがあって、お、あれだ、というように、何ごとか言い交わしている。

 どきっとした拍子に思わず手元がブレた。だが、二人はそれ以上なにをするでなく、俺の通過に合わせて首をぐるりと回しただけで、バックミラーの彼方へ消えていった。

 いっぽう、ルームミラーには、三、四台向こうに依然として白ヘルの彼が写っている。こちらも、別に何か行動に出るような素振りはない。

 ひたすら首をひねっていると、たまたま通過した交差点の右手、信号待ちの車列の先頭に、黒と白のツートンカラーがうずくまったブルドッグみたいに鎮座ましましていて、いよいよ開いた口が塞がらなかった。

 ミニパトだ。むろん交通課だろう。

 これは、ちょっと、あまりに警官が多すぎる。

 もはや何を考える気も失せて、これはいったん家に戻ろう、と帰る道順を考え始めたところで、妙に閑散としていた対向車線の先で異様な風景が現れた。

 最初、何か祭りかパレードでもやっているのかな、と思った。ああ、だから警官が多いのか、とひとり合点しかけたところで、即座に否定した。あれはどうも、そんなわかりやすいものとは明らかに違う。

 それは一見、むしろ路上でよくある光景ではあった。原付である。低速のバイクが後ろに何台もの自動車を引き連れて、ノロノロ運転しているのだ。

 片側一車線だし、決して広くはない道路だから、三十キロ制限の原付を抜くに抜けず、結果、原チャリが結構な数の四輪車を従えているような長い行列ができる――確かに珍しいことではない。が、今回のこれは規模が違う。ちょうど直線道路が町の中心部付近まで続いている場所で、緩やかな上り坂になっているから、その全容がいやでもよく見えた。これは……二キロ以上は続いているんじゃないか?

 なんでこんなに長い行列が、と思いかけて、瞬時に理解した。原因はおまわりたちだ。三十キロの原付を抜くためには、とりわけ対向車線にそこそこ車数がある場合は、どうしても瞬間五十キロ超のスピードが必要だ。だが、ここは四十キロ制限区間。イライラ運転を続ける危険性も考えれば、一時的な速度超過は仕方ないと割り切るのが常識的な交通感覚というものだが、これだけあちこちに交通警官がうろついていると、ドライバーは軒並み慎重にならざるを得ない。

 かてて加えて、この辺りから市内までは、ずっと追い越し禁止の黄色いセンターラインが続いている。

 さすがに百メートルおきに警官が並んでいるわけじゃなし、実際に検挙の憂き目に合う可能性は低いはずでも、そこはそう気楽に思い切れない。警察の影が途切れたように見えても、追い越しをかけた瞬間に、どこからともなくあのいやらしいサイレンを鳴らしたツートンカラーが「ナンバーこれこれの自動車、止まりなさい」と威圧感丸出しでがなりたてるに違いない――そう疑心暗鬼になるのもまた、常識的な交通感覚である。

 俺の走っている車線もたいがいだが、あちら側はさらにひどい。ここまでストレスフルな交通シチュエーションは、そう滅多にお目にかかれるものじゃない。

 ご愁傷さま、と心底同情しながら、そろそろ間近に迫ってきたパレードをチラ見していると、百メートル先の信号が赤に変わった。狭い市道が直行する形の十字路で、横方向はあまり通行量もないから感知式になっている。めったに赤にならないところでちょうどパレードの先頭バイクが足止めを食らい、それとお見合いする形で俺も停まった。

 交差点を挟んだ先の対向車両の様子なんて明瞭には見えないが、どの四輪車も相当いらだっている雰囲気が匂ってくるような気がした。原付へ視線を向けると、ふてくされたような初老の女性だ。背後がどういうことになってるのかは重々承知で、でも自分だって捕まりたくはないし、かと言って一旦停止して後続をやり過ごすなんて気を遣ってたらきりがないし、仕方ないじゃないの、と言いたげな表情だ。

 (この人たち、この後どこまで行くんだろうなあ)

 他人事のようにぼんやりと考えながら見物しているうちに、信号が青に戻った。

 時間の密度が一気に高まったのは、まさにその瞬間からだった。

 バイクの女性はそれまでと同じように、青に変わるのを見届けて、車線のど真ん中の位置でのったりと走り出そうとした。路側に寄ってやったところで、どうせセンターラインを越えてまで追い越す勇気のある車はいないだろう、と思ったのだろう。

 だが、いたのだ。

 原付のすぐ後ろにいた軽が、この時を逃してはならじと、青に切り替わる直前から猛ダッシュで追い越しをかけた。ただし、普通の追い越しでなく、反対側、つまり路側側へ突っ込んだのだ。車道部分はろくな余裕のない道路だったが、対向車線のその近辺には多少幅のある歩道があり、少しばかりの段差で傾くのを気にしなければ、路側側から追い越しも可能だった。

 むろん道交法違反だが、センターラインを越えるより確実に追い越せると踏んだのか、単に違反を知らなかったのかも知れない。

 それだけなら、別にちょっと驚いただけで済んだ。ところが、軽自動車の意図を一瞬で見抜いた二台目が、ならば、と自分も猛ダッシュをかけ、普通にセンターライン越えを試みたのだ。交差点の中で置い抜ければ、センターライン越えということにならない、とでも考えたのかも知れない。

 二台目の急発進は、タイミング的に原付と同時のスタートだった。

 だが、こちら側の車線で俺が発車したのはそれより少し早かった。青を見届けてアクセルを踏むのでなく、青と同時に発車するよう踏むタイミングを早めに取る。それが俺の流儀だ。

 二台目は多分、ダッシュの構えを見せれば、俺が慌ててブレーキを踏んでくれるものと期待したのだろう。

 しかし、チキンレースを仕掛けたつもりなら、相討ちになった時にどうするのか、ということまで考えていてもらいたかった。俺が正面衝突の危険を察知した時は、もう交差点に進入する直前だった。すでに、にっちもさっちもいかない状況だ。

 仮にこの瞬間に急停止できたとしても、俺をぎりぎり避ける形で二台目が走り抜けるコースでは、多分原付の女性との接触が避けられない。良くても転倒する。最悪なら、俺も二台目も原付もみんな死ぬ。

 それを避けるためには――!

 考えるよりも先に、アクセルを踏み込み、ハンドルを左に切っていた。俺が左の側道に飛び込む以外、手段はなかったのだ。

 感触では、二台目の鼻面は俺のケツと五センチも離れてなかったんじゃないだろうか。かする音一つもさせなかったのは、まさに奇跡だ。

 事故は避けられたが、かなり乱暴な操作だったので、あやうく突っ込んだ先の電信柱にぶつかるところだった。横道に十メートルほど入った位置で、俺のセダンは斜めに道を塞ぐ形で急停止した。

 おそらく、俺のすぐ後ろの車両も接触ギリギリだったのだろう、派手なクラクションの音が鳴って、なにやら怒鳴り散らしている声まで聞こえてきた。

 一瞬遅れ、ミニパトがどこか近くにでもいたのか、あのいやらしいサイレンが高らかに響き渡った。一台目の軽もだが、二台目はどう見ても危険運転かなにかに引っかかっていたはずだ。そのままかなり遠くの方まで遠ざかっていく。逃げ切れたのだろうか? 先々で警官が待ち構えているだろうし、いずれ二台ともお縄になるとは思うが。

 原付はどうなったのだろう。そのまま素知らぬ顔で三十キロをキープし続けて、早々にパレードを復活させているのだろうか。

 などと想像しながら、大きく息をつき、誰も通らない市道でウィンドウを下ろし、幹線の方を窺っていると、なんと、あの白ヘルがやってきた。

「大丈夫ですか?」

 バイクから降りて近寄ってくる警官を見、その傍らに立っている交通標識を見て、俺は焦った。入ったことのない道だったので、まるで気が付かなかった。そこは進入禁止の一方通行路だったのだ!

 気ぜわしげに視線を動かしている俺を見て、警官は、ああ、というように後ろを確認して、言った。

「いいですよ。誰が見ても不可抗力でしたから。むしろ、いい判断でした」

「そ、それはどうも」

 不可抗力という単語が普通に使える警官のようだ。実に喜ばしい。

「ケガなんかありませんか? 車の方は問題ないようですが」

「ああ、特にはない……と思うけれども」

「結構です。大変な思いをされた直後で恐縮ですが、さきほどの接触未遂、悪質なケースとして、署では立件を含めた処分を検討しているとのことです。つきましては、ドライブレコーダーの記録をご提供いただけると我々も大変ありがたいのですが――」

 正直、生死の狭間を垣間見た直後だったんで、あんまり頭が働かなかった。求められるまま、いったん道の端に駐車し直して、免許証を提示して、善意の情報提供に関するなんとやらの書類など数枚にサインした。たぶんそこまで五分弱。

 (そう言えば、警察には何かを言ってやろうと思ってたような気がするが)

 なんだったっけ、などと考えていると、件の警官が言った。

「じゃ、すみませんけど、いったん方向転換してもらえますか? で、あちらから幹線に戻ってもらえましたら」

 まあ一方通行は曲げられないのだろうから、どの道そうするつもりだった。狭い道だったが小刻みに切り返して向きを変えるぐらいなんでもない。作業を難なくやってみせると、たったそれだけのことで、警官は妙に感心したようで、

「さすがに手慣れていらっしゃいますね」

「? いや、まあもう二十年ぐらいは乗ってるしね」

「これからもずっと運転をお続けになるんですよね」

「?? そりゃ、そうなるだろうね」

「それはよかった。初日からリタイアされずに済みました」

 瞬間、愛想のいい警官の顔に、しまったというような色がちらりと走った。

「……今、なんと?」

「ああ、いえ、なんでもないです。では、このままお気をつけて」

「いや、ちょっと」

 もっと話を聞こうと、窓から乗り出した時は、もう敵はそそくさと逃げの態勢に入ってた。去り際、置土産のように奴はこう言った。

「頼みますから、これからも自前でハンドル握ってくださいよ。今日のところは、私はもう外れますんで」

 そのまま信号までバイクをすっ飛ばし、赤信号と見るや、そこで飛び降りて横断歩道の横までバイクを押して走り、歩道の切れ目で再び飛び乗って幹線に進入したようだった。さすがに警官は道交法の隙間をよくご存知だ。

 そうまでして逃げたかったのか。よほどまずいことを言ったという自覚があるのだろう。

 一生ものの大事故は際どいところで回避できたものの、いったい警察は何をやってるんだ。そもそもの混乱の直接的な原因が警察だと思うんだが、なんの理由でこんなふるまいに及んでいるのか。

 なんだか、これ以上外回りを続ける気分じゃなくなってきた。というか、そもそも俺は何をしに出てきたんだっけ――と目を細めて、思い出す。そう言えば浩志の店はこの近くだった。



「ああ、そりゃあ言葉通りやて。おめえがリタイアせんで喜びよるんじゃろ」

 浩志こうじの説明下手は昔とまるで変わっていなかった。一発目で分からせようという意図が最初からない。もっとも、奴に言わせれば俺の質問がそもそも悪いということのようなのだが。

 命拾いした現場から五分と離れていない、商業エリアの外れの外れ。元同級生の浩志が花屋を開いているのは、そこはかとなくうらびれた界隈の、自宅を兼ねた小さな店舗だ。浩志は快く迎え入れてくれ――と言ってもそのまま応接室で二人してコーヒーなんぞを飲めるような羽振りのいい店ではないので、店先でハサミを使いながらの友人に、ここまでの経緯を話し終わったところだ。

「そもそもリタイアってなんだよ。まるでゲームやってるみたいじゃないか」

「んだな、ゲームみてなもんだ」

 そっけなく返して、急に手元の洋蘭のつぼみで深刻な問題が発生したというように、切り花を凝視し、ためつすがめつし始める。

「……浩志」

「ああ、冗談やって」

「いいかげんもったいぶるのはよせ。お前、俺が北海道帰りだってんで、お上りさん扱いしておもしろがってるだろう?」

「いやいや、そげんこたぁ」

 ちなみに浩志の九州訛りは中学半ばにこの町へ転校してきて以来ずっとだ。こういう複雑なアイデンティティを持つ相手にお上りさんとかあまり言いたくはないのだが、今の浩志が俺をおもしろがってるのは間違いない。何しろン十年の腐れ縁である。

「北海道民に謝れっ。だいたい日本中がこんなことになってるなんてニュースは聞いてもない。単にこの町がおかしくなってるだけじゃないのか?」

「あー、まあ、それもちぃと違うんやけんど」

 そこでようやく奴は花をプラバケツに差し、今度は結論部分から話を始めた。

「要するに、警察は暇になっとうってこっちゃら」

「何で!?」

「取り締まる対象が減ったけん」

「どこが? 交通量は昔とそんなに変わってないだろ」

「交通量は、な。ドライバーの数は減っとろうて」

「バカな。意味が通らない。自動車の数だけ運転者がいなければ――」

「自前でハンドル握りよるドライバーは、減った。と言うか、ほとんどひとにぎりやろ」

 俺は浩志の顔を見た。奴は何かしら感傷のこもった表情で、小さく頷いていた。

 警官が最後に投げてよこしたセリフを思い出す。これからも自前でハンドル握ってください、と、彼はそう言っていたのだ。どこかユーモア混じりに、しかしどこか切実に。

 自前で、とは? 決まってる。人の手で、ということだ。機械の手ではなく。

「自動運転か」

「そう」

「いや、しかし、あれはまだ利用比率は四割以下だと、最近新聞で――」

「ここみてえに中途半端に都市化しとうとこは、自動運転にせん理由がなか。土地は平坦で、センターライン、歩道、ガードレールば備えちょう道が大半、交通量は多すぎず、少なすぎず。ドライバーの動きもパターン化しとう。要するに」

「もっとも自動運転に任せやすい交通事情、だと。……いや、しかし、だからってそれで警察が困るほどかな?」

「この町だけの統計の数字なんか出とらんじゃろうが、おらの実感だと、昼間の運転の九割がたは自動やろうて」

「そこまで!?」

「もっと行くかも知れん。営業車はみんな中で体ば休めたかろうし、事故の心配も少ねえし、そもそも手動にしたら逆に社から睨まれよるってとこも出とうとか。個人のドライバーにしてんが、まあよほど運転好きなもん以外は自動にしよろうて。って言うか、一度オートにしよったら、楽すぎてもう戻れんってよ」

 なんだか、ずっと昔の自動車で似たような話を聞いた。トランスミッションのオートマとマニュアルの関係が、そんな感じだったとか。

「しかし、現にさっき、俺の対向車は二台続けて手動運転で、やはり手動運転の俺とぶつかりかけた。三台が信号を挟んで固まってたんだ。この比率はどうなんだ?」

「多分やけんど、その暴走しよった二台ってば、信号の手前まで自動やったんやないか。で、どういう理由か知らんが急がにゃならんっつーて、これから交通違反しちゃろって腹くくって、手動に切り替えた口やないかの」

「そういうもんかな」

「そげ長々と手動で走っとったんなら、もっと早うにセンターラインば越える決心しとろうて。信号でむちゃしようよりは」

「それは正論だな」

「だいたい、エンジンばかけっ時から帰り着くまで当たり前みてに手動で運転しよろう奴っちゃ――まあおらみてに横道ん突っ込んでばっかでルート設定面倒やけん手動にしとう、とかの営業系は別としてん……そやのう、やっぱ物好きな者か、やなかったら、お前みてな他府県から来よった者か」

 不愉快な物言いだが、筋は通っている。

 確かに、俺が最近までいた地域はそこまで道路事情が進んでいない。いや、実のところ、他の北海道民は普通に自動運転の流れに乗っていたのかも知れないが、俺は違った。単純に運転そのものが好きというのもあるが、道とは言えない場所を通ることの多い仕事で、都市部では考えられないことが色々と起こりやすいから(クマとか、シカとか、それらの死体とか、急な吹雪とか)、自動は却って危険だと思ったのだ。

 そうは言っても、大きな流れとしては、いずれ世界中で自動運転がデフォルトになるのだろうから、その意味ではここみたいな中規模の郊外都市は、時代の最先端ということになるのだろう――。そこまで考えて、しかし俺は結局元々の疑問に戻っただけだった。自動が増えたからって、あの警察の振る舞いはどうなんだ?

「じゃ、結局"リタイア"ってどういうことなんだ? さっき言ってたゲームって?」

「やからの」

 物分りが悪い生徒に対する、ちょっと嫌味なセンセイみたいに、浩志は疲れた笑いを浮かべた。

「警察っちゃお役所なんやけん、そうそう人数なんて減らせんやろう。リストラなんかねえし」

「……そうだが?」

「交通課の人数っちゃ、多分昔と変わっとらん。実質のドライバー数が減りようにもかかわらず、や」

「……だったら? 楽ができていいんじゃないか?」

「このアホたれが! やっぱお前、北ん大地でおおらかになりすぎとるわっ。『交通違反の摘発数が少なくなりました、みなさんのおかげです』みてな考え方、あいつらがすっか!? 『摘発数が少ねえのは、仕事せんからじゃ、もっと捕まえてこんかい』、そげな硬直した論理しか持っとらんが、あっこは!」

 何を思い出したのか、急に逆ギレみたいに荒れだした浩志を見て、ようやく俺にも事の次第が飲み込めてきた。

 そう、俺だって忘れてたわけじゃない。警察は事故がなくなっても仕事をする。違反者ゼロでも町に出る。

 摘発可能な現場を意地でも見つけて、自分たちのメシの種を確保するために。

 そのためには、今まで暗黙の了解だった制限時速のグレーゾーンとか、些末過ぎる条項なんかも、全部見直す。

 その結果が、今のこの町の道路事情というわけだ。

 奴らにとっては、俺のような習慣的に手動を選ぶドライバーは、貴重な将来の違反者候補。そりゃ、交通課全員で顔を覚えておこう、みたいなノリになるのだろう。

 なんという町になってしまったのか。俺は腕を組んで低く唸ることしかできなかった。

「帰り道が嫌になってきたな」

 半分冗談だったんだが、浩志はむしろ真面目に返した。

「ああ、そら大丈夫やないんかな。今日のとこはの」

「……どういうことだ?」

「聞いたことがある。あいつら、新顔のドライバーには、よっぽどやなかったら、初日は見逃すってよ」

「何のために?」

「あれやないか? 『賢い猟犬は、時にあえて獲物を見逃す』」

 そう言って、浩志がいやあな笑い方をした。

 獲物が一匹もいなくなれば、猟犬もお役御免になってしまう。つまりは、殺処分される。それを避けようと、狩りの成果が乏しくなるに従い、知恵の回る犬は一定の頻度で獲物を見逃すようになる。

 匂いを覚えてしまえば、どうせいつでも狩れるのだから。

「焦って一日で摘発して逃げられっよっか、思い出したみてに何度か分けて反則きっぷ切るほうが旨味があろうけんな」

 浩志の解釈は一層リアリティに溢れていて、もう俺は何も言えなくなった。猟犬だらけの平原に丸腰で放り出されたウサギにでもなった気分だ。"今日のところは、私はもう外れますんで"――あれは、次の狩りの時間までせいぜいごゆっくり、とかそういう意味だったのだろうか。

「どげんすっかや? おめえの乗り方やったら、自動運転に鞍替えしてん別に不都合はなかろうて。やけんど、そのまんまジジイになるまで機械任せで通す覚悟もしとかんと、いっぺん腕がなまったら、もう戻れんで」

 友人の皮肉っぽい問いかけには黙っていたが、実のところ、俺の気持ちはその時点でだいたい固まってしまっていた。いくらホームタウンとは言え、猟犬だらけの町で、常に半分食い殺されているような、シュレディンガーもどきのウサギを演じるのはごめんだ。

 明日出勤したら、真っ先に人事課へ行こう。そして、尋ねるのだ。北海道への再赴任希望を今出したとしたら、それは通りそうか、通るとすれば、転勤まであと何ヶ月我慢すればいいのか、と。


   <了>


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