第4話
◆
地下シェルターの中は、いつもよりシンと静かでもの悲しい様子だった。そう思って、入り口から広がる棚の群れを眺めていても、別段変わったところはない。あるいは、いつも隣にイヴがいるせいで、ただ自分がそう感じてしまっているだけなのかもしれない。そういえば、ここに一人で入ったことはなかったと、いつもより遠い天井を見上げて思い出す。
ここを最初に見つけたのはイヴだった。村において文字が読めないという欠陥を抱えたせいで孤立していたアダを、何故かイヴは連れてきた。最初は嫌味か何かかと思っていた。文字が読めないアダを並べて、イヴだけ優越感に浸ろうと、そんなゲスな考えがあるんじゃないかと勘ぐっていると、イヴはアダに向かって読み聞かせをしてくれた。
最初は……そう、人間が、何故滅んだかについて。
どうしてこんなことするの? 文字が読めないアダが惨めに思えた? 余計なことしないでよ、別に知りたかったわけでもないのに。
そんなひねくれた質問に対して、イヴが想定外だと言わんばかりに目を丸くした。
知りたかったんじゃなの? だって文字が読めないことに劣等感があるのは、そういうことじゃない?
今思えばイヴは、アダよりもアダのことを知っていた。アダが知りたいと思うことを、口に出さずともイヴは見透かしていたような気さえしてくる。
アダはイヴに会いたい。それはアダのために、イヴを利用したいだけではないんだろうか。それを、果たしてイヴは望んでいたんだろうか。
イヴは村のしきたりを疎んで消えたのだと思っていた。実はそれも間違いで、本当はアダに嫌気が差して、どこかへ行ってしまったのではないんだろうか。そんな不安を掻き消したくて、思わず胸元の繭殻を自身へと押し込めた。
「すごいもんだねぇ、ここは」
思慮に耽っているとアダの隣で、ルシは感心した声を上げる。
「そんなにですか」
「これまで管理局が発見・調査したデータベースは大小合わせて百件近くあるけど……ここまで大規模なものはものはルシも見たことないね。少なくとも、ルシの地下にあるそれとは三倍以上の広さがあるよ」
中央へと歩きながら脇目を振ってみると、大きな頭を忙しなく動かしながら、キリが棚に格納された三十~四十センチ四方の有機石版に興味を示している。時々手に触れた石版が起動し、インターフェースとともに大量の情報がキリへとダウンロードされているであろう様にびっくりするその無邪気さが、わずかにアダの胸を軽くさせているような錯覚を覚えた。
データベースには均一に並べられた棚に保管された有機石版が大量に収められている。イヴが言うには、これにはゴーレムと同じ素材であるペトリクレイで作られており、発電細胞や自動修復によって半永久的にデータを保存する為の基盤となっているらしい。これら一個一個がゴーレムとネットワークを形成できる独立したサーバーのようなものだと語っていた。
ねぇアダ。石版がいつから作られたか知ってる?
? 石版って、この有機石版のことでしょ? 人間が作ったものだから……うーんと、数百年くらい前?
ううん、実はもっともっと前。紀元前って言ってね、人類の歴史の中でも始まりに近い年代にはもう、有機石版の原型になるものは既にあったんだって。その時の石版は、ただ石の上に文字を書いただけのものなんだけど、当時の人間の学者は発見に千年単位の時間がかかっても解読ができたんだって。それほど、石版の保存状態が良かったんだよ。
へぇー、数百年どころか、数千年ってこと? 凄いね……。
ね、面白いでしょ? データを保存する手段は、今はクラウドサーバーがあるけれども、装置の維持を考えたらそれらは百年も持たないんだって。
それじゃあもし、これらの記録が有機石版によって保存されてなかったら、こうして見ることはできなかったってこと?
んー……多分、逆だよ。これを残した人間はね、ここにある記録を未来永劫残したかったんじゃないかな。だからわざわざ、ペトリクレイのコンピュータ的な側面を利用して、超長期保存を目的とした石版や、地下シェルターを作ったんだと思うよ。
イヴの亡霊が、アダに呼びかける。違う、これはアダの記憶のイヴに過ぎない。イヴは生きている。
でももし、ここにもイヴがいなかったら? アダの知らないところでもし亡くなっていたとしたら……もしそうだとしても、その命は土に還って地球のリソースになる。それでいいじゃないか、と以前なら思っていたかもしれない。だが今は、どうしてだか嫌な胸騒ぎが収まることを知らない。イヴの意図を知り得ないことに、アダは怒りにも似た苛立ちを覚えていた。
アダにはイヴを知り得なかった。イヴはアダを知り得ていたというのに。その事実が、どうしてこんなにも苦しくなる。ああ、まただ。そうやってアダは、イヴを利用しようと都合のいい解釈をしている。
アダはイヴのこと、好き?
そう問いかけたイヴは、どうだったのだろう。イヴはアダのことを好きだったのだろうか。抱えた繭殻の、この冷たさは、イヴの遺伝子を持ったゴーレムの、せめてもの感情表現ではないだろうか。
そんな時だった。
「あれ……?」
先頭を右往左往しながら歩いていたキリが立ち止まり、前へと指さした。
その先には、広間のようなスペースに一際大きな有機石版の置かれていた。一メートルを悠に超え、アダの百五十センチの身長まで抜くこの巨大な石版はデータベース管理用の端末で、周囲の有機石版にラベリングされた情報を集積して、文字通りデータベース化する機能を携えたものだ。
「あ……」
アダの呼吸が、凍り付く。気温の変化は感じないし、ここは外に比べて安定して快適な温度を保つようにされている。だから凍えたわけではないはずなのに、小刻みな息づかいが心臓を加速させる。
アダはゆっくりと……いや、おぼつかない足取りで、管理用の石版へと歩み寄る。前までは、近づくごとに増す威圧感に一種の期待感を覚えていたものに目もくれず、その麓にあるものに視線を定める。
「ああ……」
石版を背もたれにしながら座り込んだそれに、アダは膝を落として視線を合わせた。
それは一目見ると、出来損ないの人形のようだった。
投げ出された手足は水分を発散させたせいで小さく萎み、赤茶の枯れ木を思わせる。俯いた格好のせいで垂れ下がるはずの前髪は、毛先が砂になって散ることで不揃いな髪型を晒す。
そこから覗く顔もまた赤くすすけ、ひび割れていた。それでも他と比べればまだ原形を保っており……だからこそ、アダは困惑を加速させる。
適度に丸みを帯びた輪郭と、浅黒の肌。
大きな瞳と、それを彩る黄色がかった虹彩。
村の掟に従い、切りそろえられた暗い毛髪。
その全てがなくなった鏡合わせの顔は、しかしこの体に残された最後の個性を主張する。
アダは、アダ。目の前にいるのは、イヴ。
そこには、ひび割れた顔で微笑む、イヴがいた。
「――――っ!」
アダの中で、フッと何かが潰えた。
結果を見た今だからこそ言える。
心当たりがここしかないのなら、こうなることはわかりきっていたはずだ。アダはなんて馬鹿なんだろう。確かにデータベースは村の外れにあって、地下のシェルターにある。それでも村にあるあーくのクラウドネットワークには接続できていたんだ。仮にイヴがここにいたとしても、それが途切れてあーくが死亡判定を出したということは、こういうことなんだ。
何を勘違いしてたんだろう。いつからアダはイヴのことを、全知全能な……古代に信仰された神様のような存在であると解釈していたのだろうか。
イヴはただのゴーレムだ。体力がなくなれば命を落とすし、死ねばこうやって土に還る、ただのゴーレムだ。
「どうして……」
疑問は絶えなかった。どうしてこんな所で、何が原因で、どうやってここまで……。それを答えるはずのものは、目の前で土塊になっている。だからこれは疑問でもなく、糾弾でもなく……ただただ自分に向けた、後悔なんだと悟る。
どうして、イヴは死んだんだ。
どうして、イヴはここで死んでいるんだ。
どうして、死を悟ったような穏やかな顔で、今のアダに微笑み返しているんだ。
「この子が、イヴ……か」
所在なさげなルシの呟きが、データベースの中を小さく響いた。どこか察していたような軽薄な印象に、胃の入り口に熱がこもるような感覚を覚えて、アダはルシへと振り向いた。
「ルシは、医者なんだよね」
「無理だよ」待ち構えていたかのように、ルシがアダの言葉を遮った。
「医者はネクロマンサーでもなんでもない。欠陥を診断したり、体の不調に対して適切な処置をアドバイスすることはできるけど……死んだゴーレムを生き返らせることはできない」
「だったら、何ができるの」
低く責め立てる調子で尋ねるアダに、ルシは神妙な表情でイヴの遺体を凝視する。崩れることを危惧しているのか触ることはしなかったが、しばらくすると立ち上がって首を振った。
「左腕がない、砂化して崩れているようでもないし、そこから出血多量で機能不全に陥ったか……。血液も砂化しているのを見るに、死亡してから一日は経っている」
「なんで、左腕がないの」
「現状見える限りの材料で、推論を述べていいなら……イヴは、自ら左腕を切り取ってどこかへ隠して、そのまま出血多量で亡くなった。
つまり、イヴは自殺したんだ。それしか、言いようがない」
言い終わった後で、ルシは奥歯を噛みしめながら、アダから視線を逸らした。
「すまない、これ以上のことはわからない」
自殺? 聞きなじみのない単語に、アダの眉が寄るのがわかる。それでもイヴからの聞いた知識の中から、該当する言葉を導き出すと、アダはさらに顔をしかめるのがわかる。
自殺。自ら命を断つこと。
どうして、イヴがそんなことをしているんだろうか。なんの筋道も立っていないルシの言い回しに、喉の奥までせり出した熱が飛び出した。
「適当なこと言うな。どうしてイヴが自殺なんてするんだ」
「ああそうさ、適当さ。でも、これ以上答えようがないんだ。アダが納得できる答えは用意することはできない」
そう言って、ルシはアダから背を向けて、適当な有機石版に手を伸ばす。まるで誤魔化すような仕草だと、また苛立ちが湧き上がりそうになる。
なんで、どうして。なんで、どうして。
そんな言葉ばかりが脳内を支配する。
アダにできることはなかったんだろうか。
もしくは……アダのせいで……、
「ねぇ、にーに」
ふと管理用石版の裏から、こもった声が響く。いつの間にか後ろに回り込んでいたキリが、アダとルシに向かって呼びかけたのだ。
「どうした、キリ」
「ねーねの声が、聞こえるよ。にーにのことを、呼んでるみたい」
ねーねと言う言葉に首を傾げながら、ルシは手にした有機石版から手を離して管理用のほうへ手を当てると、「違う」とキリはアダの手首を掴んで石版へと押しつけた。
「にーにを呼んでるの」
「にーにってアダのほう……? なんで――」
問い詰めようとしたアダの台詞は、しかし脳裏へと直接響いた音声に掻き消された。
『アダ』
石版に触れたことでオーグメント化されたインターフェースが周りへと漂う。普段は集積した有機石版の情報をリスト化するだけのはずが、アダの聴覚言語野を直接叩く声音を奏でている。
イヴだ。イヴの声がする。
「これの他にもね、ねーねの声が聞こえるの。こんなの、初めて……」
ぽつりと、キリはそんな言葉をこぼす。
「他って……?」
「うん。ここに来るまでの石版、全部から声が聞こえたよ。それで、石版の中身を読んでくれるの」
そんなはずはない。アダも自分から有機石版に触れて情報を見ようとした。けれども音声がない情報では……文字情報を認識できないアダにはどれも読むことはできない。だからこそ、イヴが読み聞かせてくれたはずなのに。
「まさか……」そう言って、ルシは再びイヴを見やる。その視線を追っていくと、ルシが確認したかったであろうものを、アダも見つけることができた。
イヴの左腕は、枯れ果てた他の手足と違って完全に消失しているのは、さっきのルシの診断通り。周囲には砂山もなく、ルシは、おそらくイヴ自身が自殺する前から切り落としていたものだ。
「自分のペトリクレイを全部の石版に移植して、そこに音声を入力したんだ。なんてことを……」
ペトリクレイは今や万物を構成する第一資源として扱われる。石版も、ゴーレムも、大地も、言い換えれば全てはペトリクレイだ。それにイヴは以前から有機石版の記録の復元を行っており、石版の構成や仕組みは理解しているはず。ならば理論上は、ゴーレムを素材に有機石版を作り、そこにイヴの好きな情報を加えることだってできなくはない。
『アダ。これを聞いてるときにはもう、イヴの体は、この大きな地球の資源として還っていると思う。まずはそのことを、謝らせて欲しい。色々調べたけど、やっぱり自分ではどうしようもできないみたいなの』
ニューロフォンの要領で聞こえるイヴの音声は、自分が普段感じた通りの調子で……少し緊張しているのか、固い印象を受けた。
『ごめんなさい。アダは真面目だから、きっとこんな事言われても、どうして? とか、なんで? とか、いろいろわからないことだらけで混乱するかもしれないし……もしかしたら、自分を責めているのかもしれない。だから一応、これを遺しておこうと思う。もしアダが、イヴのこと好きでもなんでもないっていうなら、ここで話したことも、イヴのことも全部忘れて、元の暮らしに戻って欲しい。
でももし……アダがあの質問に、好きだって言ってくれるなら、今からする話を聞いて欲しい」
そしてイヴは、それがアダへのメッセージであるために、いつもの癖から話し始めた。
『ねぇアダ、知ってる? 昔の人間はね、子供に遺す生物的な遺伝子とは別の遺伝子を遺すんだって。
だいたいは、財産……今はほとんど価値のないお金とか、その人の持ってた土地とか建物が主だったものなんだけど……他に大事なものがあるの。
それはね、文化。その人や集落が遺した風習や習わしを伝えていくこと……。建築の技術とかはもう廃れちゃったけど、それは今のイヴたちの家とかに受け継がれてるはずだと思う。
他には……挨拶とか、もっと根本的なところで言うなら、綺麗なものを見たときのキラキラした感じとか……そこには人間やゴーレムの遺伝子には記されない、連綿と受け継がれた概念があるの。
それが文化的な遺伝子……ミームっていうんだけどね、ここにはそんな人間たちのミームがたくさん詰まってる場所だと思うんだ。
でもゴーレムはさ、みんなこの地球を生かすためにこのミームたちを使ってるわけじゃない。ゴーレムたちはゴーレムたちで、自分たちの文化を持って、自分たちを統率する思想を持って、人間とは違う暮らしを、同じ地球でしている。
なら、このデータベースの価値はなんだと思う? 最初は、人間から作られたイヴたちに、人間たちと同じ暮らしをして欲しじゃないかって考えたけど、今は違う。
知ってる? 人間が人間を愛するのは、愛し愛されたその先に、不死が待ってるからだって。遺伝子が人間を作っていくなら、後世までそれを受け継がせていけば、それは不死と言えるんじゃないかって……人間は無意識に、本能の内にそれを望んでいるんだって。
けれども人間たちは、自分たちが子孫を作ることを拒絶した。ウィルスに勝つために……人間が滅亡しないためには必要なことだったけれど、それでももう人間は不死になることはできなくなっちゃった。だからせめてゴーレムに、自分たちが遺せる自分たちの賛歌を……人間が、人間らしく生きた証を、ゴーレムたちに受け継がせることで、不死を継続したかったんだと思う。
それも成功してるとは言いがたいけど……そのおかげで、イヴはアダに、こうして話そうと決心することができた』
ここで一旦、言葉が途切れる。データ越しに逡巡しているわずかな空白の中で、アダは考える。
文化を伝えること。人間やゴーレムに遺伝子があるように、文化にもまた伝え継承していく概念がある。それをミームと呼び、昔の人間はゴーレムに人間のミームを残そうとした。だから村はずれの廃墟やルシの家の地下に、記録となるデータベースを作り出していた。
ルシの考えが正しいのなら、人間はゴーレムに人間らしさを忘れないようにデータベースを作り、人間の文化を継承させようとした。イヴもまた、根本的な部分は同じなのだろう。イヴが言及しているのは、その『人間らしさ』を、人間がゴーレムに求める理由なのだから。
イヴ曰く、愛の終着点は、不死になること。けれども、人間はその道を自ら閉ざしてしまった。だからこそ、人間はゴーレムを作り出したのだろうか。それに答えられる者は、もう誰もいない。今の世界のゴーレムたちは、人間たちが思っているよりもシステマチックに……無機質に、ただ種全体の不死性を、生命の終着点として維持するために、資源的思想の下で生きていく。
この繭殻もまた、そんな思想の下で生きていくのでないか。ならば、この命は、イヴのミームを受け継いだこの繭殻は、この世に生まれるべきではないことを、生まれる前から悟っているのではないか。
『ねぇ、アダ。もうイヴはそこにはいられない。それにイヴたちが作ったゴーレムのこと、イヴが無理矢理作ったのに、押しつけてしまって本当にごめんなさい。これからはアダの言葉に、相槌を返したり、笑うこともできない。
けどね。イヴが話したこと、聞いてくれたことは絶対に消えない。
だってアダは……、イヴが教えたことをみんな覚えてくれるから。だからイヴは、とっても幸せなんだ。アダが覚えている限り、イヴはずっとそこにいるから』
アダはハッとなって、石版を……イヴを見上げる。同じ音声を聞いているルシは、アダのほうを見て驚愕の表情を浮かべていた。
そう、覚えている。イヴと初めて話した時のことも、いつ、どんなときに、どんな話をしてくれたのかも。全部覚えている。
このデータベースでの思い出は、今でも幽霊のように……イヴは傍にいると、感じられるように。
『イヴは、そんなアダが好き。大好き。愛してる。
こんなのただの言葉だけど……それを聞いたアダの遺伝子に、イヴを遺すことができる。そしてイヴたちの子供に、イヴたちの大好きな人間のミームが伝えられていく。
だから忘れないで、アダ。イヴは死なない。ずっと傍にいる』
その告白を最後に、石版からの音声が消える。
視線を下げると、思わず息を呑む。足下にあったイヴの亡骸は、いつの間にか砂山になって消えてしまったからだ。
「イヴ……」
落ち込みそうになる気持ちを、しかしさっきの言葉を思い出して奮い立てる。イヴはもう、そこにはいないのだ。
イヴは、そんなアダが好き。大好き。愛してる。
そんな言葉を受けてもまだ、アダには『好き』というものはわからない。きっとアダには一生わからない欠陥なのだろう。それが悲しいことなのか、寂しいことなのか、それともありがたいことなのかは、見当もつかない。
「不死性の継承か……アダといいイヴといい、面白い目線でものを見る」
同じくイヴの言葉を聞き終えたルシは、そう言いながらデーターベース中の棚を見渡すようにグルリと体を回した。遠い目をしたその瞳からは、そこはかとなく憂いを感じるのは、イヴの言葉にルシなりに感じたものがあったのだろう。
それに整理がついたように一息吐いた後、ルシはキリを呼んでアダに踵を返した。
「帰るんですか」
「まぁね。もうここに用はなさそうだから」
「ここのデータベースに、用があるんじゃないんですか」
「うーん。そうなんだけどねぇ……。ミームズの管理するのは、あくまで人間の遺した純然たるデータベースだからねぇ」
バツの悪そうに口ごもるルシは、まるで言い逃れをする口調で天井を仰いでいた。
「ゴーレムの加工が入った時点で、データベースとしての価値はない。……つまり、最初からここにデータベースなんてなかったってこと」
「にーに、かっこつけ……」
「えー? いいじゃないかこのくらい」
おどけた風に腕を上げるルシに、アダは思わず苦笑してしまうと、ルシはこちらをゆっくりと向きながら睨めつけてくる。その動作がまた面白くて、また笑みをこぼすと、ルシもまたニヤリと笑って返した。
「アダはこれからどうするんだい?」
「アダは……ここにいます。ここで、やらなくちゃいけないことがあるので」
アダは管理用石版に立て掛けるように繭殻を置く。ルシはそれ以上何も言わず、ニューロフォンを通じてこちらに番号を伝えてくると、そのまま後ろ手を振りながらデータベースを出て行った。
それを見送り、アダは送られた番号を……わざわざ音声データにしたものを聞いみてると、何かの連絡先と座標の番号のようだった。
番号を復唱して覚えたことを確認すると、再び繭殻へと向き直る。
繭殻。アダとイヴのゴーレム。その真白の繭の中で、いったい何を考えているのかは見当もつかない。そしてアダも、この繭殻にどのような愛情を伝えるべきか、見当はついていない。
アダには、『好き』がわからない。
アダには、アダがわからない。
それでも、アダに刻まれた、イヴのミームは確かにここにある。
イヴの『好き』と、イヴのアダは、ここに確かにあるのだ。
「よし……」
発起するために深く息を吐いた後、アダは繭殻と向かい合わせになるように腰を下ろし目を閉じる。
ねぇ、アダ。知ってる?
イヴの亡霊が、アダに話しかけてくる。その心地よさを、どうにか言葉に変換して伝えようかと頭を悩ませる。
きっと下手くそな言葉になってしまう。アダの語彙は、イヴよりも狭いし、なにより上手い言い回しも思いつかない。
だからこそ最初は、イヴの言葉をなぞるように、このように口火を切った。
「ねぇ、知ってるかい?」
◆
「にーに。にーには連れて行かなくていいの?」
「ん? ああ、アダのことかい? 一応連絡先は渡しておいたけど、あれは長くなりそうだし、しばらくはお別れかも知れないね」
「ねーねも連れて行かない?」
「ねーねっていうのは……ああ、イヴのことね。それはこれだけ、あとはもうアダのものさ」
「これ、なに?」
「有機石版の中で、唯一加工がされてなかったもの。……イヴが、アダに読ませたくなかったものさ。
これによると……人間は昔、個人の思考に介入して行動を誘導する実験や、考察を行っていたらしい。その中で、人間の意識をモデル化して、他人を意のままに操る技術がことがあったそうだ。イヴ……いや、イヴやアダの村にはその実験の名残が残っているみたいだ……と、記録にはある。村には五十年という区切りで肉体稼働限界を超えて地球へと還るゴーレムもいるけど……」
「にーに……、もっとわかりやすく言って」
「そうだな……、例えば、この気温によってゴーレムが貧血を起こして倒れる……処置をしなければ死んでしまうが、自身がそれを望んでいるかどうかは当人でさえもわからない……意思が強制されるわけだから、疑いようがない。あの村では、そういった無自覚な自殺が起こっていて、その性質上イヴ以外の誰も気付かないでいた。そしてアダは、そうした意思の誘導を自らの生得的欠陥によって克服している。
つまりイヴは、自分がいつか疑いようもなく自殺することに知っていたんだ。そしてアダだけが、この呪いに当てはまらないイレギュラーだったんだ。だから……」
「……」
「……」
「……にーに?」
「いいや、やめよう。これ以上は野暮だ。……いや、そうか。だからこそイヴは、これに加工せずにいたのか」
「にーに、また一人で知ったかぶってる」
「知ったかぶりだなんて、そんなんじゃ……いや、本人の気持ちなんて、その人に聞いてみないとわからないか。
……でもきっと、これはイヴの愛さ。あまりにもいじらしくて、人間的な……、ね」
イヴの愛し子 葛猫サユ @kazuraneko_sayu
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