歴史実録! 覇王項羽 四面楚歌する

愛LOVEルピア☆ミ

第1話

四面皆楚歌する


 漢を本貫に持つ王、劉邦率いる大軍が楚と戦を始めて数年。その勢いは徐々に増して行きついには規模を逆転した。楚王項羽を垓下城へと押し込んでこれを攻囲、その陣は幾重にも及んだ。


 守る楚軍は攻め寄せる漢軍の陣営四方から、懐かしい楚歌が聞こえてくるのを不思議に思う。城壁に上って周囲を良く見てみる、そこには既に降った楚人の多くが涙して歌っている姿があったのだ。


 楚王は産まれてこの方ずっと側近として用いてきた、会稽軍旗本八千騎と数万の軍兵を抱えていたが意気消沈してしまう。さりとて命を永らえさせ、いまさら尻尾を丸めて会稽に逃げ帰ってどうなるのだろうとも。


 そんな中、楚軍は脱走兵が続出して戦う意思を残しているのは旗本のみとなってしまった。城内では他人の目を気にし、隙あらば離脱しようと窺う者多数。敵として在るよりも厄介とも思えた。


 未明に城門がゆっくりと開け放たれる。騎馬兵が並足で門の外へと進み整列した。清涼な朝の空気。朝露にしっとりと濡れた草。


 項羽は門が開け放たれてもまだ悩んでいた。最早どうなるものではない、部下は裏切り自らは必要とされていないのだろうと。いっそこの場で果ててしまえば楽になれるのではないか。


 虞美人。大王が愛した娘、彼女は自ら命を絶った。生きて捕らえられ、敵の辱めを受けるくらいならば。自害して楚王の寵愛に答えると言葉を残して。後を追えばあちらの世界でも共に暮らせるかも知れない。ふと詮無き考えが頭を過る。


 内城からやってきて、具足を鎧った男が目の前に跪いて顛末を述べている。虞子期将軍――虞美人の兄が報告を続けた。


「大王に申し上げます。虞美人は最期にこうも残されました。『貴方様らしく生きて下さいませ』と」


 それだけを伝えると、虞は腰に履いていた剣をすらりと抜いて喉に当て、刃を下にし倒れこんだ。地面に赤い小さな溜りが作られる。人の命はやけにあっさりと散るものだと感じさせた。


 静かな時間はそう長くはない。項羽は大きく息を吸い込んだ。旗本を率いる武将が馬を歩かせ隣へと近づいてきた。見惚れるような軍馬だ。武具や城と同じく命を預ける馬は、武人の大切な道具であり友でもある。項羽の祖父、父、そして三代に渡り忠誠を捧げてきた彼は言葉を添える。


「大王、我等会稽騎兵、故郷を離れてから天下統一無くして帰るつもりがございませんでした。しかし、もし命令であるならば、最後の一騎になろうとも大王をお守りし会稽へとお供させて頂きます!」


 馬上から礼をとる。後ろに居並ぶ騎兵の耳目を集めた。言わずとも皆が同じ気持ちだと知っている。真っ直ぐに項羽を見詰める彼等は一切の曇りがない。進言することあれど、不平不満を口にしたことなど一度もなかった。項羽は武将の瞳を覗き込み、そして目を瞑る。


「余が愚かであった――」


 小さな声、だからと弱々しくはない。威厳が常にそこに存在していた。


「本当に大切なのは、領地でも名誉でもなくそなたらであったわ。真の宝が人であると言うこと、気づくにはちと遅すぎたわい」


 思い起こせば十数年、若輩者を常に支えて従ってきてくれた、そんな彼らに一体何をしてやれたのだろうか。雀が近くにやって来て餌の小虫を啄んでいる。ずっとそんなものに見向きもしなかったし、雀が寄ることもなかったというのに。


「大王、ご決断を」


 武将が決まりきった言葉を耳にするために促す。彼等も項羽が何と応えるかなど百も承知だった。それでも聞きたかった。最後の最後、末路が示されようと変わらずそこに在りたいから。


 開かれた門の前には壁が築かれており、すぐそばに居なければ敵に気取られることは無かった。だがいつ気づかれてもおかしくはない。


 ――最早惨めに生き恥を晒すつもりはない。ふっ、虞姫が笑いおったわ、貴方様らしいとな。


 閉じていた瞳を開く。雀が慌てて飛び上がっていった。


「聞け者共、我等は弱くて敗れたのではない! 世の中が、天がやつを気紛れで選んだに過ぎぬ。騎兵の戦場で我等の強さを見せ付けて後に自害する。続け!」


 項羽を先頭にして騎兵が夜明けの荒野を走る。威風堂々とした姿に悲愴感など微塵も感じられない。まだ眠り呆けている包囲陣の一つを簡単に食い破り、ついに獅子が野に放たれた。


 一陣を抜けようとも、どこに向かおうとも、漢の陣が次から次へと現れた。数百人単位で集まり、周りを石で囲っている。あちこちで敵襲の銅鑼が打ち鳴らされている。耳が痛くなるような金属音、不快な響きだからこその警報。


 肩を寄せて守る漢の歩兵。そこへ無遠慮に戟を叩き付け蹂躙する。極めて困難な乗馬戦闘を、まるで呼吸でもするかのようにやってのける。それも楚軍騎兵全員がだ。


 一騎は十歩に値すると目算されされるが、互いの死角を補いあい休みを取られるならば百にも千にもなる。文字通り一騎当千の光景が繰り広げられた。騎兵団は既に十を超える大将首を跳ねている。


 項羽が率いる会稽騎兵は彼が言うように、百戦して百勝をあげており、ただの一度たりとも敗北したことはなかった。最強無比の騎兵は熟練しており、本来ならば一人一人が騎兵ではなく騎将として通用する程の力量を備えていた。


 だが旗本騎兵は誰もそうはならなかった、会稽騎兵で居たい、項羽と共に在りたいと強く願って。空が少しずつ白み始める、山岳地帯にだけ残っていた闇夜もついに追い払われて行く。


「あの山を越えれば平原で御座います」


 近隣の地形を知り尽くした武将が助言する。指差す先には数え切れないくらいの敵陣が続いていた。


「うむ、行くぞ!」


 しかし項羽の目にはそんなものは景色程度にしか映っていない。敵の怒声も雑音としか耳に入ってこなかった。漢兵を草でも刈るかのようにあしらい先頭を駆け抜ける。戟から血が滴り落ちる暇すらなく、次々と新たに絡み付いた。


 ちらりと振り返る。騎兵かなりの数が、追撃してくる敵を食い止めるために後方に踏みとどまっていた。たった一人の男の望みを叶えるためだけに、多くの、あまりに多くの人が散って行く。


 山間の陣地を幾つも幾つも破って、念願の平原へと辿り着いた。地平線の彼方まで緩やかな大地が広がっている。馬に水を飲ませるために小川で休憩し、側近に騎兵を数えさせると数百が残っていた。


 茂みから漢の兵が現れて奇襲を受ける。項羽は武将に促されて馬を平原に走らせた。小川付近に殆どの騎兵が留まり、楚王が平原へ向かうのを目の端に捉えて追撃者を引き付ける。


 あちこちから兵が湧いて出るが、軽く切り伏せて平地にある小さな丘を目指した。草原の中心で周囲を見回す、敵敵敵……どちらを向いても全てが漢の兵士ばかりであった。敵意に殺意、そこに居たのが楚人であっても驚くこともない。


「壮観ですな大王」


 武将が隣で話しかけてくる。何万何十万居るのかまったく見当がつかない。蠢く蟻の群れように見えてくる。恐怖を感じることは無かった。敗けを知らない者がどこまで登り詰めることが出来るか、武辺の極致を歩む彼はどこまでも冷静だ。


「これこそ余が望む場所である。何騎居るか」


 ゆっくりと落ち着いて問いかける。国同士の争い、政治や戦争では結果及ばなかった。目に見えない戦いは項羽の本領と余りにかけ離れ過ぎていた。


「二十八騎で御座います」


 側近の誰もが理解し、本人もそれは感じていた。だからと途中で止める選択肢など遥か昔に喪っている。この場所を用意するために、何千と居た騎兵がに散ってしまった。それも各々が自らが望んで。


「結構だ。これより我々はあの集団に突撃を敢行する、以後一人たりとて脱落は許さん。続け!」


 腹の底から声を振り絞る。側近らも大いに応じた。歩騎数千が陣取る処へ果敢に切り込む。項羽の形相は鬼人と喩えられる程に凄まじく、近寄る敵を次から次へと薙ぎ払った。


 体躯素晴らしく、大人と就学したての子供のような差があった。圧倒的な暴力。尽きることの無い破壊。留まることを知らない気勢。錐のように突き刺さると、好きな方向に穴を開けて足を止めることなく将の処へ進む。


 大盾を並べて押し留めようとしても、真っ正面からまとめて敵を凪ぎ払う。漢の大将が守りを固めようと命令を出す。戦列を埋める兵が前進した。だが騎兵の歩みは速く、将の目の前にやってくる。項羽は一合と打ち合うことすらなく、大将首が宙を舞った。


 一軍の将だ、戦いに身を置き生き抜いて功績をたてた男だ。それなのにこうも簡単に骸を晒すなど有り得ない。


「漢の弱将を討ち取った! 抜けるぞ、続け!」


 これが現実かと疑う心の隙が生まれる。糸が切れた操り人形のように彼の指揮する漢軍の動きが止まった。項羽らは脱出を図り小高い丘へと騎馬を走らせた。向かってくる気概のある奴は皆無。


 返り血で真っ赤に染まり、人馬共に恐ろしい姿になっている。戦化粧の一つだと顔だけを拭い後はそのまま。


「あのような腰抜けが大将とは情けない。何騎残って居るか」


 それは事実で、楚軍では弱将が軍を率いることはなかった。本来、軍を指揮する能力と戦闘を行う能力とは別物。それと解っていながら弱いことが許せなかったから。


「二十八騎全て残って居ります」


 全員が血まみれで、負傷をしている者も居たが欠けることなく付き従ってきていた。大王と共に数多の戦場を駈ける。彼等の栄誉であり、誇りであり、まさに人生そのものだった。


「うむ。次はあれじゃ、行くぞ!」


 勢い良く別の集団に突入する。歩兵がどれだけ肩を寄せ合い密集しようとも関係なかった。戟を振るう度に命が失われていく。大地が捧げられる地を啜った。


 地の神が存在しているならば、どれだけ貪欲なことだろうか。大将を見つけると一直線に向かって行く。守兵を蹴散らし迫ると、これまた一合と合わさずに大将首を切り離してしまう。


 呆気ない最期を迎えた大将の首が馬に蹴飛ばされ転がっていった。その仕打ちに怒り報復を誓った軍勢が寄せてくる。幾度も、幾度も退けついに陣を抜けた。待ち受ける兵の固まりを切り伏せ、隣の丘まで駆けると振り返らずに問う。


「何騎じゃ!」


 問うまでもなく変わらぬ数を報告されると信じきった声。戦場に在って唯の一度も項羽を落胆させたことがない同朋。


「無論、二十八騎に御座います!」


 矢が刺さり、出血夥しい者も居るが歯を食いしばり騎乗したまま戟を握っている。武将は己に残された時間が短いと悟っていた。それでも最後の一時まで僅かでも大王の傍で勇姿を見ると誓う。


「よし! 次はあやつじゃ!」


 愛馬を少しだけ休ませると、すぐにまた敵を見定めて突撃を行う。項羽一人だけでも数百人、二十八人で数千人を打ち倒し、未だに漢兵を苦しめている。万は居るだろう軍に突入すると今までに増して武を奮った。


 これほどまでに敵が居ると言うのに、すいすいと道なき道を進んで大将の眼前に躍り出る。流石に万の軍勢を率いる将は違った、二度打ち合うまで首が繋がっていたのだから。


 多重に包囲を行い次こそは逃がすまいと攻めかかってくる。左右から一軍が小勢を揉み潰そうと圧迫する。矢が降ろうと槍が突き出されようと、全てを力で弾き返し己の道を進む。


 大将を失って動揺した軍を駆け抜けて、三度丘へと登った。楚の軍旗が翻り健在が知らしめられる。


「何騎じゃ、答えよ!」


 それまで隣にいた武将の姿が無くなっており、代わりの者が返答した。


「はっ、精兵二十六騎に御座います、大王!」


 痛みを堪え地の果にまで届きそうな声に満足し、項羽は大きく頷いた。彼は馬上から天を指してそれに負けない大声で告げる。


「ははははは! 見よ、我等騎兵はたった二十八騎で三度の突撃を行い、数千を討ち取り、数万の軍勢を退けた! 天よ聞け! 最強なるは楚王であるぞ!」


 戟を棄てて剣に手を伸ばす。迷いなく切っ先を喉にあてると、自らの意志で馬上から飛び降りた。二十六騎全てが主に従う。覇王の伝説に幕が降ろされたのであった。


 たったの二十八騎が万の兵を退けたかどうかの真偽を疑った者が居た。だがそれはその場に居た兵らの証言で間違いないことが裏付けられている。戦に勝った漢軍に従っていた楚人も、楚王が壮絶な最期を遂げたと聞くと喜ぶ気にはなれなかった。


 勝敗が決したその日、悲しげな調べで楚歌が一晩中歌い続けられる。それを止めさせようとする者は誰も居なかった。経緯を知った漢王は、楚王を辱めることなく丁重に葬った。死んでしまえはどんな強敵であっても、良い部分が見えてくる。


 墓標には楚王と虞美人、周囲に虞兄を含め二十九の亡骸が埋葬された。墓前に咲く花を虞美人草と呼ぶようになり、現代へと語り継がれている。遠い昔、項羽は確かに存在していた。私たちと同じ空を見て、彼は何を思っていただろうか。



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