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元来個人的な体験を言語化するのは好まない。厳密に言えば言葉は極論しか述べられず、言語化するやいなや体験は原初の質感を失い、それと気づかずに虚偽の拘泥に陥る宿命にあるからだ。
だがそれでも今から言語化を試みる個人的な体験は、それが持つ機能は言語化によって失われるにしても、その構造は言葉によってさえも保存できるのではないかと考えている。構造さえ適切に保存されれば、あとはそれが然るべき機能を有することを祈るだけだ。
この体験は言葉によって進行したという側面も援助の一因となっている。だからぼくの拙い文章能力でも細心の注意を払いさえすれば何とかその大枠を損なわずにいられるのではないかと期待しているわけだ。もっとも期待の域は出ない。
なぜそのような危険を冒してまで個人的な体験を語ろうとするのかと言えば——いや、これ以上くだくだと言い訳をするのはよそう。本質を背負った兎が逃げ出さないように、最短経路を迅速に駆け抜けなければならない。
結論から言うと、友人のボダイに恋人ができた。もちろんこれだけでは何のことだか分からない。これはこの物語が目指すべき目的地である。
以後、物語は事前に提示されたこの目的地へ向け、如何なる寄り道も脇見もせずに、比喩という誘惑を振り払い死に物狂いで疾走されることになる。それが個人的な体験をある意味で汚すことに対する、ぼくのせめてもの誠実さとなることを願う。
いつからか寝つきの悪い妻に小噺を語って聞かせるのがぼくの習慣になっていた。
妻はベッドに横たわり、眉間に深い哲学的な皺を形成しながら堅く目を閉じ、じっと耳を澄ませている。
ぼくは枕もとの椅子に腰かけてぼそぼそと語る。
小さな頃から何ごとかを語るのが得意だった。と言っても妻に言わせれば「あなたの話はちょうどよくつまらないから睡眠導入剤にちょうどいいのよ」とのことで、ぼくとしてもその自覚はあった。
語る内容は様々で言葉が言葉を呼ぶようないい加減な物語であったり、業務報告や日常の些細な出来事であったりした。ベッドに身体を横たえる妻の横で自然と浮かんできた言葉を語るのである。
常夜灯の暖色の光が闇に滲み、彼女の苦し気な吐息がコントラストを与えるそのような空間でしか語り得ない話だった。ある種の宗教的儀式とも言える夜更けの営みはぼくらの夫婦生活に独特の陰影をもたらしていた。あるいは順序が逆かもしれない。いずれにせよ、物語は走り出す。
「先日さ、仕事終わりに書店に寄ったら高校時代の友人に会ったんだ。」
とぼくは語り始めた。
「友人と言っても便宜上その言葉を使っているわけで、広く一般的な友人関係はぼくらの間にはなかったと思う。高校時代も今も連絡先は知らないし、それほど多くの時間を共有したわけでもない。けれどお互いにその存在は認知していたし、そうだな、どこかで心を惹かれるというか、気にかかる存在だった。」
「それってつまり具体的にどういう関係だったの。」
と妻が言った。
「彼は箱部という部活動に入っていた。部員は彼一人だけだった。入学から卒業までの間に一つの箱を制作して、最終的にそれを破壊するという活動をしている伝統的な部活動だよ。破壊された箱の残骸は後輩の箱の制作に再利用される。」
「けったいな部活動ね。」
「ぼくは部活動に在籍していなかったけど、放課後の学校は好きだったから図書館や使われていない廊下の隅で読書をしたりして遅くまで学校に残っていた。それでたまに箱部の部室に顔を出して、彼が箱を作るのを黙って見学していることがあった。彼はぼくがいてもいなくても気にならないみたいだった。古い井戸の底をじっと覗くようにして黙々と箱を作っているだけ。ぼくは制作現場を眺めたり、本を読んだり、宿題をしたりした。」
「あなたも相当にけったいね。」
「そうかもね。そうしながらたまに言葉を交わした。大した会話ではないけれどね。同じクラスになったことはないし、他の学校生活の場面で彼と接したこともない。ぼくと彼との関係はそのようなものだった。」
「その彼に会った。」
「その彼に会ったんだ。」
ボダイに会うのは高校以来だったが、ひと目で彼だと分かった。ぼくらは三十歳になっていたから、それなりに見た目も変わっていたが何の苦労もなくぼくは彼だと認知したし、彼のほうでもぼくを認知した。
簡単に言葉を交わした後で、ぼくらは夕食をともにすることにした。この間には当然差し挟むべき会話や挿話があるのだけれど、この物語の主題ではない。したがってその脇をすり抜けて必要最小限度の骨格をのみ選択する。
ぼくとボダイは居酒屋の個室席に入った。どこにでもあるような居酒屋だったけれど、彼がそこにいるだけで居酒屋は本来の在り方を変質させるようだった。
ひとしきり会話をした後で、ぼくらはなぜかお互いの恋愛事情をテーマにした。どうしてそうなったのか、思い返してみても首を傾げざるを得ない。唐突には思えなかったけれど、脈略もなかったように思う。だがぼくの印象を正直に口にするのであれば、それは語られることを待っていたのだ。
「君はどうなんだい。」
妻との生活の概要を語ったあとで、ぼくは彼に水を向けた。
「俺は、ちょっと複雑なんだ。」
とボダイは苦笑した。
「分かりやすいカタチで恋人はいない。でもいないわけじゃない。少し不思議なんだよ。」
「さっぱり要領を得ないね。」
ぼくは笑った。
「どうやって話したらいいか分からないんだ。今まで誰にも話したことがない。でも、そうだな、そろそろ外に出すべきなのかもしれない。なにせ、十年も前の出来事だから。——聞いてくれるか。」
「喜んで。」
妻へふっと目をやると、彼女はまだ寝てはいなかった。相変わらず眉間に哲学的な皺を刻印してじっと動かずにいる。眉間の皺は寝ている時も刻まれたままだが、皺のニュアンスが微妙に変化するので、そのことによって入眠を確認できるのだ。
もうすでにずいぶんな時間語り続けている。普段なら入眠しているか、そうでなくても微睡の中で格闘している時分だ。
今日は手強いぞと思いつつ、ぼくは話を続けた。
ボダイはこれまでの三十年ほどの人生の中で、正式に恋人と表明できる関係を取り結んだことがなかった。
ぼくはそのことに少なからず驚きを感じた。と言うのも彼は非常にモテたからだ。同性異性に関わらず、常に彼は誰かしらの関心の対象になっていたし、高校時代に箱部に見学に行っている時も、何度か女生徒が彼に告白をする場面を目にしていた。なぜか彼女らはぼくがそこにいることに微塵も注意を払わなかったけれど、そのことに触れるのは蛇足だ。
「蛇足ね。自明のことだもの。」
と妻は言った。
「然り。」
とぼくは言った。
ボダイは何か劇的な印象をもって他者の心を一挙に捉えるのではない。
インクが滲むようにして、音もなく他者の心にその存在が居場所を見つける。知らずのうちに心の一角に彼のためだけの空間が形成されている。あるいはそれは一部の人々に生まれつき備わっている空間なのかもしれない。彼という存在はその空間を当事者に再発見させ、そして驚くほどしなやかに馴染むのだ。そうだとしたら、おそらくはぼくもその一人であることをあえて否定はしない。
いずれにせよ、いつでもどこにでもボダイに心を寄せる人々は一定数存在した。したがって彼が「正式に恋人と表明できる関係を取り結んだことがない」と告げたとき意外に感じたのだ。
「ある日、放課後に呼び出されたんだ。」
とボダイは語った。
「靴箱に小さなノートの切れ端が入っていた。」
ノートの切れ端には単語の一つひとつで文脈を断ち切るような、決然とした文字が書かれていた。
旧校舎に使われていない音楽室があって、部活動が終わったらそこへ来て欲しいとのことだった。
ボダイは内容を頭に入れて、ノートの切れ端を内ポケットにしまい、部活動が終わるまで考えなかった。
時間が来ると彼は旧校舎へ向かった。
心のうちは幾分か憂鬱だった。想いを寄せられるのは嬉しいことではあったが、それに応えられないのは痛みを生じさせた。想いを告げられ、それを可能な限り誠実に丁重に断るごとに自分の内側で何かが削り取られていくような消耗感があった。
夏の夕暮れ、旧校舎は忘れられたように静かで、遠く過去の青春のざわめきが余韻として漂っている。斜陽で鋭い影を刻まれながら、切ない想い出だけが明るみに晒されるように痛々しく浮かんでいた。
音楽室の扉を開けると、制服を着た女生徒が隅のほうの椅子に坐っていた。顔は影になっていて見えなかった。
ボダイが入って行くと女生徒はパッと立ち上がり、光と影の織りなす中を卒然と直線的に彼の下へ歩み寄った。
ボダイは身長がかなり高く、その女生徒は小柄だった。おそらくは年下だろうと思った。健康的とは言い難い細い身体、どことなく無造作なセミロングな黒髪、硬く結ばれた細い唇と小さな鼻、そして黄昏の薄闇の中で女生徒の大きな眼がギラギラと光っていた。
ボダイは圧倒された。呼ばれてきたのにもかかわらず、間違った場所に足を踏み入れたような感覚があった。だが動けなかった。
女生徒は動かなかった。
二人はそのまましばらくの間じっと目を合わせていた。
次の瞬間、ボダイは学ランの襟を凄まじい力で引き寄せられ、あっと言う間もなく体勢を崩した。彼は女生徒に覆い被さるようにして倒れていた。
「どうする?」
耳元で女生徒の声が聞こえた。
温かな息が首筋を触った。
心臓が激しく脈打った。
「付き合おう。」
とボダイは言った。
「当たり前。」
と女生徒は言った。
女生徒はボダイより一つ学年が下で、マドロミという名前だと名乗った。
旧校舎の使われていない音楽室が完全に闇の底に沈むまで、ボダイとマドロミはその場所で過ごした。折り重なったその姿勢のまま唇を合わせ、囁くように慎重に言葉を交わした。不必要な動作、余計な言葉はこの場所にある神秘的な営みを損なってしまうような気がした。
可能な限り動かずに、だが身体は確実に動いている。心臓は拍動し、肺は空気を交換し、全身を血液が巡っている。細胞が震える。互いの生命の本質的な働きに耳を傾けるようにしてボダイとマドロミは時間と空間を共有した。
正確に言えば時間も空間もなかった。なぜならそこで共有されたものは、その後の彼の人生を、いやそれ以前の彼の人生へも遡って、繰り返し繰り返し訪れたからだ。生活の至るところに忽然として巡り来て、彼はその中に否応なしに回帰する。寝ている間に妖精が部屋を搔き乱すように、日常の仔細に先回りして刻印されているのを彼は発見する。そのようにして時空を超克する。
だが純度の高い結晶がその純度の高さゆえに自壊するようにして、マドロミは小さく吐息を残すと音楽室を出て行った。
マドロミが剥離した場所で、ボダイは長いこと動かずにいた。彼女の置いて行った吐息はいつまで経っても流れては行かなかった。
「どういうわけか、俺はもう彼女には会えないんだと分かったんだ。」
とボダイは言った。
「それはその場限りの限定された事象であって、言葉では規定することのできない無限の要素が奇跡的な一致を見せたことでのみ顕現され得る種類のものだった。こういうと大袈裟かもしれないが、俺はそのように感じた。」
ボダイの顔は切実な陰影を帯びていた。ぼくはそこに黙々と箱を作り続けていた彼の後ろ姿を見た。彼は卒業式の日に三年かけて制作した箱をひとりきりで破壊したのだ。
「その後のことを訊くのは無粋だろうか。」
とぼくは言った。
ボダイはしばらく茫然としたようにぼくの顔を見ていた。ぼくはその顔を見て恐怖に近いものを感じた。その感覚をあえて言葉にするのであれば、彼は確かにここにいながらも、この時間にも空間にも属していないという事実を目の当たりにしたかのような戦慄だった。
彼はややあってハッとしたように震えると、困ったように笑った。
「構わない。だが特段の続きはないんだ。」
「と言うと。」
「事実としてその後彼女に会うことはなかった。俺は部活が終わると毎日旧校舎の音楽室へ行ってしばらくそこで過ごした。」
「会いに行かなかったのかい。」
「行ったよ。ただマドロミという名前の生徒は学校にいなかった。彼女の姿形をした生徒もどこにもいなかった。」
とボダイは言った。
「そして俺たちが三年生になった時、旧校舎は取り壊された。」
「そのマドロミという女生徒が彼の唯一の恋人なんだ、今でも。」
とぼくは言った。
妻の眉間には哲学的な皺が刻まれている。
睡魔はいまだ彼女の意識を攫わない。
「まるで夢のような、人生におけるささやかな一挿話に過ぎない。けれど彼にとってはそれが決定的だった。彼女を除外するなら、彼にはいまだに正式にそうだと表明できるパートナーも恋人もいない。仮に可能性が兆しを差しても、先廻りした妖精が刻印を押している。
「まだマドロミさんと別れを告げていないからなのか。」
とボダイは言いながら首を微かにふった。
「未練。いやそうではない。だが——」
彼は目を静かに閉じる。
そして彼は今でも内ポケットにノートの切れ端を持っている。ノートの切れ端はいまだに彼を今は無き旧校舎の、使われていない音楽室へ誘っているんだ。」
そこまで語ってぼくはハッとした。
妻は音もなく涙を流していた。
「どうしたんだい。」
と心配して訊ねても、彼女は何も言わなかった。
眉間には哲学的な皺が刻まれている。
ぼくは彼女が落ち着くまで背中をさすった。
かくして物語は目的地へと辿り着く。
それから半年ほど経って、ぼくは街の雑踏にボダイの長身を見いだした。どんなに遠くからでも彼の姿はそれと分かる。それは背が高いためばかりではない。
ボダイの横には女性の姿があった。彼女はボダイを見上げ、いかにも幸福そうに顔をほころばせていた。そして同じように微笑を浮かべるボダイの横顔がさっと閃き、二人は寄り添いながら雑踏に紛れた。今度彼に会った時、それがどんなに近くとも彼の存在を認知できないかもしれないとその時ぼくは思った。
夜、ぼくは妻にその話をした。
すると妻は哲学的な眉間の皺をふっと緩めて目を開き、ぼくの顔をじっと見つめた。その瞳にはこれまでに見たことのないような温かな色が浮かんでいた。
ぼくは言葉を失った。
妻は微かに息を漏らすと、
「今夜はわたしが話すわ。」
と言った。そしてベッドにぼくのためのスペースを空けた。
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