2023.3.11

 冬の静寂を破って、今年はじめての雨が窓ガラスを鳴らす中、無性に苛々していた。

 苛立ちがどこから来るのかは判然としなかった。

 冬を破る雨がいったいどこから来るのか分からないのと同じように、突然やってきて、世界を厭と言うほど打ち付ける。

 音を呑み込んで、酸いも甘いもその下に封じ込める雪と違って、雨はひたすらに騒がしい。

 綺麗なものも汚いものもいっしょくたに真っ白に染め上げる雪と違って、雨は個物の輪郭を明瞭にする。

 見栄や欺瞞も、自分を守るための嘘も、雪の下に封じて見ないようにしてきたものも、雨は何もかもを洗い流して、冬の間隠れていたアスファルトの上のゴミが明らかになる。

 濡れて腐った落ち葉や、包装紙や煙草の吸殻やetc.

 ぼくはしんしんと降り積もる雪が好きだ。雪は冷たいけれども温かい。

 冬の無慈悲な体温の中で、ぼくは素直に毛布に頼ることができた。毛布に包まりぶるぶると震える理由を冬は与えてくれる。

 だって寒いから。

 今年最初に降った雨は、その理由を取り去って、おまえはいったい何なんだと、鋭い指を突き付けた。

 その指先は決して近づいて来ないが、常に一定の距離を保ったまま、直線的に疑問提示することを止めようとせず、その解答を迫ってくる。誤魔化しや言い逃れは雨音に虚しく流されてしまう。

 春は残酷だ。

 咲かない花のほうがずっと多い。

 花屋の店先に並ぶ花は選ばれた花で、そりゃどれもみんな綺麗に違いない。ぼくは間引かれて路地裏で廃棄される。

 選ばれなかった花たち、価値がないと摘み取られた花未満の花たち。

 クローゼットの奥からビニール傘を引っ張りだして外へ出た。

 冬の静謐な匂いが消え去り、青臭いような雑多な春の匂いの中で、鉄のような雨の匂いが鼻孔を刺戟する。

 道は濡れていて、溶けた雪が雨と混ざって排水溝へ吸い込まれていた。

 冬の均一な明るさは失われ、陰鬱な鈍い光がてらてらと道を光らせる。

 傘に細かい雨が打ち付ける。

 雨音が冬の間眠っていた者たちを目覚めさせる。

 気づかないようにしていた感覚、そうじゃないと思い込もうとしていた感覚、それらが雨に戸を叩かれて、虚ろな頭を枕から引き剥がし、活動を始める。

 ぼくは苛々と角を曲がった。

 真っ直ぐ歩くことなどできそうになかった。

 すると、ずぶ濡れの子どもがいた。

 真夏のような恰好をして、長い前髪の先から水滴をてんてんと垂らしていた。

 その小さな男の子を、ぼくはどこかで見たことがあるような気がした。そんな感覚が訪れるも吟味する感覚を置かずに、この日一番の苛立ちがぼくの胸中を襲来した。

 少年はぼくと目が合うや否や、へらへらと笑ったからだ。

 なぜか怒りの沸点を一挙に跳び越した。

 光が脳内に溢れて、真っ白になる。

 ぼくは傘を持っていない右手で、少年を突き飛ばしていた。

 荒々しい怒りの発露

 稲妻のように爆発的に膨れ上がって駆け抜ける醜い暴力の衝動——

 少年は道を転がって、ドブのような水溜まりに浸かり、すでに濡れていた身体をいっそうぐっしょりとさせた。

 彼の小さな顔は驚きと恐怖に包まれた。

 ぼくのほうも凄まじい罪の意識に苛まれていた。

 心臓が音を立てて拍動していた。

 再び少年とぼくの視線が同一直線上で対峙する。

 すると少年はまたしてもへらへらと笑うのだった。

 人を苛立たせる憎らしい軽薄な笑い顔、しかし今度は苛立ちに支配されることはなかった。

 目の前の少年の正体に気づいたからだ。

 それは幼い頃の自分だった。

 本当は辛いのに、悔しいのに、怖いのに、哀しいのに、へらへらと笑うことしかできなかった。

 いや、そうではない。

 自分の中で何が起きているのか分からなかった。

 いままさに胸にひしめいている感情がいったい何のか分からずに、自分が辛いのか、悔しいのか、怖いのか、哀しいのか分からなかった。自分が傷ついているということが分らなかった。

 誰も感情の名前を教えてくれなかった。

 ぼくの感情の一つずつ取り出して、これはこういう感情ですと分解解明してくれなかった。

 だから胸中に訪れた得体の知れない感情のようなものを、どう表現すればいいのか分からなかったし、どう対処すればいいのか分からなかった。

 ただ笑うだけ、それしか表現方法を知らない。

 笑えば何となく赦して貰えることが多かった。

 笑うというのは、好ましいことだと経験が教えてくれた。だから外界がどんなに笑いにそぐわない状況であっても、虚しく笑って、じっと周囲が変わるのを待っていた。

 ぼくは鈍くて、端的に言えば馬鹿なんだろう。

 少年に笑わなくていいと言っても無駄だろう。怒ってもいい、泣いてもいい、辛い時は辛いと言っていいんだと伝えたところで、それがいったい何なのか分からないに違いない。ぼくがそうだったから。そして目の前の少年はぼくだから。

 ぼくは自分の感情という書物を読み解くことができず、だから本を読んだ。そこで文字として表現される感情には、明確な形が与えられていて酷く分かりやすかった。

 哀しいと書けば、哀しいのだ。

 嬉しいと書けば、嬉しいのだ。

 けれど、そんな分かりやすい感情は、どう探してもぼくの胸の中にはなくて、ただひたすらに混沌とした雨音が鳴り響いていた。

 それはまるで春のようで、好き勝手に様々な生き物が活動を開始して、色が溢れ、混ざり合って渦を巻いている。

 ぼくはへらへらと笑いながら、自分を定義し、概念を与えることによって、感情に名前をつけようとしてきた。

 履歴書を捏造し、その捏造した履歴書に沿って生活することだ。

 埋もれてしまわないように、自分の中で周囲と自分との区別がつくように、あえて奇怪な行動もとったし、滑稽な言動をとった。「変だ」と一般に言われることをわざとすることで、自分というものを浮彫にしようと努めてきた。

 その結果、ぼくは自分という形を掘り起こしたけれど、それは所詮人工的な創造物で、ぼくの一つの作品に過ぎず、本質とはそぐわない。

 だがいったいどうすればよかったのだろう。

 他の人はどうやっているのだろう。

 みんななんて頭がいいんだろう。

 どうしたってぼくはこんなにも馬鹿なのか。

 目の前の少年が、どうしようもなく愚かしくて、ぼくは彼を助け起こして抱きしめた。

 その感触は柔らかく冷たい雨の向こうは温かくて、他の人間と変わりがないようだった。

「君はまったく馬鹿だなあ」

 と呟いてみた。

 きっと少年はぼくの胸の中でへらへらと笑っているのだろう。膨れ上がる得体の知れない感情を前にして狼狽し、どうしていいのか分からずに、ただただへらへら笑っているに違いない。

「家に帰ろう」

 と言うと、少年は頷いた。

 少年の手を引いて、ワンルームのアパートに帰り、シャワーを浴びた。インスタントラーメンを作って、卵とベーコンをのせた。

 二人で無言で食べた。

 言葉はぼくと彼にとって難し過ぎた。

 何かを表現することなど、ぼくと少年には不可能だった。

 何か言えば、確実に嘘になる。

 言葉を発するとは、ぼくにとって嘘をつくのと同義だった。明瞭に切り取り、枠組みを与えらえるものなど一つも持ち合わせていなかったから。

 だから黙って黙って、黙って。

 黙っている間は、真実だった。

 そうして、冬の名残りを懐かしむように毛布に包まって寝た。

 起きると、雨が止んでいた。

 青い空が雲の間に覗いていた。

 少年はいなかった。

 とりあえず、ぼくはへらへらと笑って窓を開け、春の空気で思いきり肺を満たした。

 乾いたアスファルトで、春の陽が躍っている。

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