2023.2.13~14

 本日の残業は三時間だった。

 先月の総残業時間は四十九時間で、五十時間にはギリギリ満たない。

 過労死ラインなんて言われている八十時間はまだまだ遠い目標だ。

 八十時間も百時間も働いたらなるほど死ねるな、というのが人生ではじめて四十九時間残業をした、残業素人の感想だ。

 何はともあれ本日の業務は終了した。

 仕事が終わった後に仕事のことを考えてはいけない。

 法律で定められている。

 まずは職員玄関において、毅然とした態度でタイムカードに打刻し、動作の緩慢極まる自動ドアをスルリ抜け、雪雲に曇った空を見上げて、深々と息を吸い込む。

 午後十時の空気、残業後の空気、世界が味付けを変えている。

 それから家路を歩んだ。

 仕事帰りの足取りは軽く、滑らかだ。

 職場では暖房がむんむんとたかれている。嫌になるほど温かく甘やかされた肌には、氷点下の外気もむしろ気持ちのいい鞭となる。

 駅前通りあたりまで来ると、奇妙な動きをする人影がチラチラと見られた。

 疎らに降り始めた雪の中に隠れるようにして、黒い影がチラチラとする。

 踊っている風でもあり、もがいている風でもあり、どこか楽し気でもある。

 見ていると、不思議とこちらも拍を取りたくなるような、独特なリズムだった。単独で踊る者もあれば、複数人で集まり踊りの振り幅を広げる者もいる。

 不思議なのは単独で踊っている者が、集団で踊っている者と出会うと、即座に集団に取り込まれてしまうのに、単独で踊っている者同士が出会うとパチンと弾かれて、それぞれリズムを失い、「これはこれは」と照れ臭そうに笑みを浮かべ合うという点だ。

 これではいつまで経っても一人が二人になることはない。

 そうであるなら、現に目の前に存在する踊る集団は如何にして形成されたのだろうか。

 疑問を解決するには、まずは本人たちに訊ねてみるのが手っ取り早い。

 ぼくは駅前のコンビニの前で踊る集団に近づいた。

 すると、不意にぼくの肩に何者かが手を置いた。

「近づかないほうがいい。巻き込まれるぞ」

 ぼくはハッとして振り返ったが、そこには誰もいなかった。

 しかし空耳であるはずがないし、ぼくの右肩には確かな余韻が感じられる。

 これは警告なのだと解釈したけれど、しかし所在の知れない存在の警告など大した効力を持たない。信じるにたる根拠が示されていないからだ。

 構わずに踊る集団へ接近すると、またしても右肩にポンと手を置かれた。

「聞こえなかったのか? 近づくと身の破滅を招く」

 即座に振り返るが、やはり誰もいない。

 突如として振り返ったぼくを見て、怪訝な顔つきを浮かべる女性が少し離れたところにいたが、彼女が警告の主ではないだろう。もしそうであるならば、あれほどまでに不愉快そうな顔つきはしないはずだ。

 しかしこれで警告が空耳や幻覚ではなく、実際に存在するものだという確証に一歩近づいたことになる。

 近づくと、巻き込まれる、それすなわち身の破滅を招くことになる。

 何のことだか分からないので、構わずに接近活動を再開した。

 すると懲りなく右肩が叩かれた。

 しかしすぐに言葉は聞かれない。

 聞かれた後に振り返るというルールが出来上がっているので、現時点で振り返るわけにもいかない。

 ぼくは黙って待った。

 すると、数十秒の沈黙の後に聞かれた。

「もう、知らない」

 その声は少し拗ねたようだった。

 ぼくは可笑しくなって笑った。

 この一連のやり取りによって、ぼくは警告の主と一定の関係を持つに至った。

 それは実際微々たるもので、吹けば飛ぶような仄かな関係に違いない。

 しかし当初の白紙の関係よりはずっと強固であったし、信頼が置けた。

 警告は効力を得たわけだ。

 ぼくは踊る集団へ接近を試みることを取り止めて、おとなしく地下鉄に乗った。

 同じドアでも、開いた先の位置が変わっている、不思議なドアだ。

 最寄り駅へ降りて、地上に出るとまばらだった雪が威力を増していた。

 街灯の橙色の光が、満遍なく虚空を満たす雪の中で撹拌されて、空は青を含んだ淡い橙色に染まっている。

 数センチ積もった雪に足跡をつけながら、家を目指した。

 ぼくが残した足跡は、きっとすぐにでも誰にも見つけられなくなる。それでもぼくが足跡を残したという事実は永遠不変なわけで、それは緩やかな哀愁でぼくの心を満たした。

 何せ雪の降る夜、音は呑まれて穏やかな静寂に溢れている。

 途中で、雪玉を転がしている少年に出会った。

 ツナギ型のスキーウェアに身を包み、ボンボンのついているニット帽を深く被った少年は、手袋を履いた小さな手で、一心不乱に雪玉を転がしているのだった。

 周囲に人は見えないし、単独なのだろう。

 雪玉は転がるごとに触れ合う雪を分け隔てなくその身に吸収し、ぼくが出会った時には既に少年の胸の辺りにまで直径が到達していた。

「どこまで大きくするつもりですか」

 少年と並んで歩きながら訊ねた。

「これは方舟なんです。時間が赦すだけ救い出そうと思っています」

 ぼくのほうをチラリとも見ずに真剣な表情で少年は言った。

「どこまで転がすつもりですか?」

「春まで」

「ずいぶん遠い道のりですね」

「ええ、ぼくの身体が持つかどうか。でもきっとやり遂げます」

 キッパリと少年は言った。

 少年は右へ、ぼくは左へと曲がった。

 古いアパートの部屋に帰ると、ポカポカと温かかった。これは不可解だが、先日も似たようなことがあった。あの時は見知らぬ女性が上がり込んでいた。

 彼女は今日も来たのだろうかと、部屋の中を覗いた。自分がそれを少しばかり期待していることに気づいて可笑しかった。

 部屋にいたのは彼女ではなかった。

「おかえり、ハラミタ」

 高校の同級生のソワカがいた。

「ただいま、ずいぶんと久しぶりだね」

「そうだったっけか」

「三年ぶりくらい?」

「そんなになるか。早いな時間が経つのは」

「春が来るのは遠いけれどね。それよりよく分かったね、ぼくの部屋が。教えてなかっただろう?」

「いや、おまえの部屋だって知らなかったんだ」

「どういうこと?」

「いや、ほら、俺さ、大学中退して引きこもっていただろう」

「そうだったね」

「で、外に出るのは久しぶりなんだ。どれくらい前だったのか、憶えていられないくらい。何となく窓の外を見てたら、ちらちら雪が降ってきてさ、その中を歩きたいなって気分になったわけだ。雪に紛れて、どこに自分がいるのか分からなくなるんじゃないかって期待したんだな」

「なるほど。試みは成功した?」

「そこいら中に俺がいるような気分になったよ。まあともかく出てみたわけだ。そうするとちらちら可愛かったはずの雪がだ、ほどなくして偉い剣幕で俺を追い立ててくる。どうしたものか、引き返すにはずいぶん遠くまで歩いて来ちまった。そこで何となくこのアパートに上がり込んで、鍵の開いていた部屋で暖をとっていたってわけだ。そこへおまえが帰ってきた」

「なるほど。何にせよ、久しぶりに会えて嬉しいよ」

「ああ」

 ソワカは少しだけ寂しそうに頷いた。

 ポケットから携帯電話を取り出して、定位置に置いた。来るはずのない連絡が着ていないか確認するために、チラリと開いた画面で、ぼくは日付が一日変わっていることに気づいた。

「いつの間に、十四日になったんだろう」

「何を言っているんだ?」

 ソワカが怪訝な顔で言った。

「まあ、確認してみなよ」

 と言うと、ソワカは自分の携帯電話を見て、「おや」という顔つきをした。彼の日付も変わっていたのだろう。ぼくの携帯電話の個人的な不祥事ではないわけだ。

「まあ、十三日が十四日に変っても大した違いはないさ」

 とぼくは言ったが、それは自分を励ますような言葉だった。その弱気なニュアンスを目敏く聞きつけたのだろう、ソワカがニヤニヤしながら、

「本当にそうか?」

 と言った。

「本当は違うかもしれないけど、嘘なら確かにそうだよ。なら何の問題もない。十四日は仕事が休みだし。まあ、明日は仕事だけどさ」

 ソワカはニヤニヤしていた。

 ぼくは溜め息をついてから、丁寧に手を洗い、調理台を消毒して、調理器具を並べた。

 鶏むね肉を小さく切って、フライパンで炒め、ジャガイモと茄子と生姜を炒めてから、麵つゆを投じて火を通した。

 出来上がったら、底の深い皿を二枚出して、麺つゆごと均等に分けて、溶けるチーズをふりかける。白米を用意し、ビールはもうないので、料理用に買ってきた日本酒を茶碗についで、ソワカのところへ持って行った。

 ソワカは大仰に手を合わせてから、箸をとった。

「それで、ソワカは何をしているの?」

「ニートさ、副業で引きこもり」

「忙しそうだね」

「ああ、年中無休だ。今日は無断欠勤だけどな。部屋ではあることを研究している。なにせ時間があるし、暇だからな」

「研究?」

「そう。まあ、そのうち話すことになるかもしれない」

「ふうん」

 それからぼくらは無言で食べた。食事中はお喋りをしてはいけない。これは法律で定められてはいないが、厳守されるべきものだ。なぜなら食事とは食べ物との対話だ。彼らを無視してまで話すべきことなど、ぼくには何も無い。

 夕食を終えると、ソワカは立ち上がって窓をいっぱいに開けた。

 部屋の中に吹雪が舞い込んでくる。

 そうすると、ぼくは不断にこの窓に守られていたんだなと気づかされた。

「帰るよ」

 とソワカは言った。

「気づいていないかもしれないけど、玄関はそこじゃないよ」

「俺には違いはないんだ、まあ研究の成果さ」

「君のすることにケチをつけるつもりはないけど、それってもしかしてろくでもない研究なんじゃないかって思うよ」

 ぼくは雪に塗れた部屋を見渡しながら言った。

「そうでなくっちゃね」

 とソワカは笑った。

「何がだ」

 と、ぼくはどうやら不機嫌だった。

「夕食ありがとう。それじゃあまた」

 ソワカは吹雪にのって飛んで行った。

 ぼくは見送ることなく速やかに窓を閉じて、部屋中の雪を回収しシンクに流した。

 それからソワカが座っていたところに小さな箱があることに気づいた。

 箱は木で出来ていて、開くと赤色の石が入っていた。

 ぼくは本棚から本を何冊か抜き取り、その向こうに隠してある金庫に小箱を入れて鍵を閉めた。

 それからシャワーを浴びて洗濯をし、歯を磨いてベッドに横になった。

 しばらくの間は眠れなかった。

 ソワカのことを考えていたからだ。

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