ハラ探偵事務所 調査報告書 第78号


 ワンルームマンションは、ゴミ箱の底のような住宅街に埋もれている。ぼくはそこに住んでいる。

 南西向きの窓は大きいが、カーテンを全開にしても見えるのは公共団地の頭と、向かいに立ち並ぶアパートの壁や窓——青い屋根の古い一軒家があって、そこのベランダとぼくの窓はほとんど同じ高さだ。

 毎日九時半を過ぎると、淡い桃色のエプロンで身体を縛り付けた女性が、ベランダへ出て洗濯物を干す。午後五時になって洗濯物は家の中に取り込まれる。

 のっぴきならない間取りの都合上、ぼくのソファーは窓に面しているので、ぼくは日中、洗濯物と目が合い続けることになる。目が合うたびにお互いに気まずくなって、頬を染めて会釈をする。

 そのうち、一軒家の住人の衣類を、ぼくはほとんど知り尽くしてしまうことになるんじゃないかと不安だ。住人の顔を一人として知らないのに、彼らが着用する衣類だけを知り尽くすというのも奇妙な話だ。ちなみに、洗濯物を干す女性がベランダに現れた時、ぼくはソファーの影に隠れてやり過ごす。

 ともかく、木々が皆無で、雪以外に日々の変化を見い出すのが困難な窓からの景色において、洗濯物だけが灰色の壁とクリーム色の壁にの中に、ちょっとした色彩と変化をつけてくれている。

 この窓からの景色がまるで好きではないけれど、いつかきっと懐かしくなるのだろうし、そのうち恋しくなることもあると思うので、その時のためにしっかりと記憶しようと憎々し気な視線を窓の外へ丹念に送り続けている。


 十月は驚くべきことに半ばに差し掛かろうとしている。

 今日は快晴で、日射しが温かだ。もっとも部屋の中に太陽の触手が到来するのは、午前十一時を越えてからなので、午前中はすこぶる寒い。

 視界の隅では暖房が「おいで」と包容力溢れる笑みを浮かべて、両手を広げているけれど、騙されるわけにはいかない。奴は後になってお金を要求してくる。

 もっともお金を燃やして温もりを確保している感覚が厭で暖房をつけないわけではない。給料が低く、金銭的に余裕のある生活をしているわけではないけれど、一人暮らしで破廉恥な額のお金を使う用事も趣味もないので、ストーブに喰わせる紙幣が負担になるわけでもない。猫を飼う代わりに、ストーブを飼育しているのだと考えれば安いものだ。

 けれど、ストーブをつけることに激しい抵抗を感じる。『運転』のボタンに触れる直前で、名状しがたい苦悩に襲われ、「ああ、人格を問われている」という確信を得る。ここで、ストーブをつける人間であることに耐えられない。ここでストーブをつけるような人間でありたくない。——そんな感覚。

 もっとも、ストーブをつけようがつけまいが、どうだっていい話だ。どちらにせよ、死ぬわけじゃないし、そこまで深刻に思い詰めているわけでもない。何かに熱中すれば寒さは忘れる。何しろ、熱の中だ。

 そういうわけで、布団のようなコートに身を包んで、熱中を試みる。どんなに興味のないことでも、熱中しようと試みれば何とかなるものだ。そうしている間に、太陽が窓枠に指をかけて、じわじわと入り込んでくる。


 探偵事務所を始めてどれくらい経ったか分からない。ともかくこれで報告書は七十八枚目になった。我ながら何をしているんだという感じがする。

 もっとも探偵事務所として正式に企業しているわけではなくて、ワンルームのドアに『ハラ探偵事務所』と極太マッキーで書いたA4紙を貼り付けているだけだ。小学生が自分の部屋の扉に同じような表札を掲げるのと違いは少しもない。正式な依頼があったことも一度もないし、金銭的な利益を得たことも一度もない。

 なぜこんなことをしているのかと訊かれても、何となくとしか答えようがない。子供の頃から私立探偵というものに対する憧れは強くあった。もちろん名探偵だ。探偵になりたいというわけではなく、ホームズや明智小五郎になりたかった。それはヒーローに憧れるようなものだ。

 しかし現実の存在としてのぼくは、高校を中退し、仕事を転々とし、何の資格も経験も得ることのないまま、あっという間に二十四歳のくだらない青年になっていた。そして青年も斜陽を迎えている。

 二十五を過ぎれば、何もかもオシマイだ。

 二十四歳の誕生日の朝を沈痛な思いで迎えたぼくの頭に飛来したのは、そのような確信だった。もちろん、十九歳の誕生日を迎えた朝には、二十を過ぎればオシマイだ! と思っていたのだけれど。

 そしてぼくは『ハラ探偵事務所』の紙を貼り付けた。

 ツマラナイどころか、ショウモナイ自分に対するささやかな抵抗だったのだろうと思われる。

 何か新しいことを始めるでもなく、何か努力を蓄積するでもなく、紙を貼り付けるだけというのが、いかにもぼくらしくショウモナイ。

 紙を貼り付けたことで、ぼくの生活には少しも変化は訪れなかった。もとより誰も訪ねてこない部屋だ。トモダチを招いたことも一度もない。そもそも家に招けるようなトモダチは一人もいない。あえて言及するまでもないことかもしれないが、恋人もいない。

 本業は別にあるし、別に仕事として探偵事務所を標榜しているわけではない。

 実際、ぼくは実質的に探偵なるものに憧れていたのではなく、強い人間に憧れていただけのことだ。仮に探偵の依頼が来たとしたら、正直辟易とするだろうし、勘弁してくれと追い返すかもしれない。

 考えるのは苦手だ。謎を前に不敵な笑みを漏らすような探偵になることはできない。

 仮に謎が目の前にあったとしたら、布団を被って寝る。考えるくらいなら逃避する。

 好奇心もない。だから、何かしら謎めいた現象が目の前に起こったとしても、「ふうん、そんなこともあるもんかあ」とぼんやり考えて二度と省みない。

 調査など絶対にやりたくない。面倒くさいからだ。通信高校の課題に解答するために、教科書を開いて『答え』を探すという単純な作業にさえ、ぼくの精神は対応できない。あの時は正直、発狂するかと思った。

 書類を読むことも、作成することも苦手だし、嫌いだし、履歴書を作成するのが面倒だから、今の仕事——もちろん探偵業じゃない——を辞めていないようなものだ。

 同じように源泉徴収などが面倒だから、フリーではなくて準社員として働いている。もっとも源泉徴収などというものが実際にどういうものなのかよく知らない。

 少し考えただけでも、自分が探偵に適していないことは明らかだ。

 それでも、何となく『ハラ探偵事務所』の表札を出して、出したというそれだけで自己満足している。良い気持ちだ。良い気持ちだから、それでいい。

 依頼人がなくても、依頼が来なくても、ぼくは一応探偵だ。

 もっと言えば、依頼が来たら面倒くさくて探偵じゃいられなくなってしまうだろう。

 よってこうして休日のワンルームで、格好つけて訳も分からず再生しているクラシック音楽に耳を傾け、スーパーニッカをグラスに注ぎ、ハイライトに火を点ける。そうやって、分厚い本を雰囲気で読みながら、依頼人が来るのを待っている。待っているけれど、絶対に来て欲しくない。そういう待ち方だってあるわけだ。

 謎なんてないほうがいい。

 事件なんてないほうがいい。

 ド派手な事件や凶悪犯や正義の味方なんていうものは、小説の中にだけあればいい。

 現実は些細な悩みやささくれのような悦びがあって、そのことに一喜一憂しながら、日が沈む。

 もちろん、ぼくなどは想像もできないような苦悩や困難が世の中にはあるのだろう。同じように喜びも幸せも。そのことについては何も言えない。何かを言ってしまうと、もうそれだけで身が持たない。だって、何が言えるだろう? 何かを言うくらいなら、行動したほうがよっぽどましだ。

 しかしぼくにはそのような力はない。

 自分の脆く陳腐で卑小なしあわせを、何とか壊れないように、吹き消されないようにするので精一杯だ。

 とは言え、それではあまりに卑怯で無責任だ、などと良心が咎めるから、探偵事務所と表札を出して、来るはずのない依頼人を待っているのかもしれない。

 ぼくにだって、世界のために何かしなければならないという気持ちはあるのだと、札幌の雑巾のような住宅街の隅の隅から、世の中に訴えかけているのじゃないだろうか。——そんなわけない。


 今日も依頼人は来なかった。

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