Falling Children

怪屋

電話ボックス


 不断に変化を続け、人も景色も移ろいゆく街の中、時間が止まったようにひっそりと電話ボックスがある。

 誰もが寝静まった小さな夜に、自分の足音だけを頼りにして、ぼくはこの電話ボックスを訪れる。

 電話ボックスの中は蛍光灯が輝いていて、何もかも不確かなこの夜にあって、優しく現在位置を知らせる灯台のようだった。それは荒波に揉まれ、時として空虚な沈黙に打ちのめされそうになる人生を、それでも手離さずに信じようと心を導く、幼少時代の朗らかな木漏れ日や、青春の甘酸っぱい斜陽と類似している。

 ドアを開けると、微かにかび臭い、こもったような空気が出迎える。

 背後でドアが閉まり、夜闇はボックスに当たって砕け、ぼくはその奥で守られる。

 これまで、この電話ボックスの中で、数え切れないくらいの電話をかけてきた。

 誰かに電話をかけたわけじゃない。そもそもぼくに電話をかけられる相手は多くない。そしてその場合はスマートフォンを使用する。貧乏でスマホが買えないから、わざわざ深夜に電話ボックスへ足を運んでいるわけではないのだ。

 この電話ボックスには、ここでしかかけられない相手が存在する。

 それは自分の過去だった。

 指先で、過去の日付でダイヤルを押す。ピポパとまろやかな音が受話器で鳴って、数回のコールの後、過去が受話器を持ち上げる。

 もっともそれは自分の過去であって、過去の自分じゃない。かけた日付の記憶が——感覚や音色や雰囲気が、受話器の向こうから響いてくる。

 そこには楽し気な笑い声があったり、恋人の甘い囁きがあったり、両親の優しい眼差しがある。冷たい雨や、気持ちのいい風や、泣き腫らした目で見上げた虹がある。

 過去と切り離された現在の、ポツンと孤立した電話ボックスの中で、幸福の日々の雑音に、ぼくは耳を傾けるのだ。

 それでどうにかなるわけじゃない。ただそうせずにはいられない。

 ぼくの感情はあとからやってくる。いや、正確にはそうではない。その時その瞬間に生じていた感情に、それが生じているまさにその瞬間に、ぼくは気づかないだけなのだ。

 過ぎ去って初めて、自分がどういう状態にあったのか、どういう感情を抱いていたのか、初めて自覚することができる。

 きっと頭の働きが鈍いためだろう。どんなに幸せであっても、どんなに哀しくても、出来事が起こっているその時は、緊張や不安に満たされていて、小さな虫の喘ぎ声のような感情をつい見落としてしまうのだ。

 出来事が去り、過去が遠ざかるにつれて、たった一人の時、そう、ちょうどこんな静かで小さな夜に、ようやく見落とされていた感情を発見する。

 いかに自分が幸せであったか、楽しんでいたか、心がどんな場所に置かれていたのかを、やっと認識できるのだ。

 だけどそれらはもう手の届かない場所にあって、愛している人はそこにいなくて、宝物は失くしてしまっていて、ぼくは茫漠とした現在に単独で取り残されている。

 自分の不器用さ加減に厭になる。そして当然のように、現在進行形で隆起する出来事に対する自分の感情は、平然と見過ごされているわけだ。

 世界の流れは、ぼくの内的な時間よりもずっと早い。世界が早いのか、端にぼくがのろまなだけだろうか。いずれにせよ、ぼくが支度を終える頃には、すべてが終わってしまっている。遠足の用意が出来たときには、みんな遠足から帰って来ており、考え抜いて選んだ遠足用のお菓子を抱えて、ぼくはどうしていいのか分からずに、電話ボックスの中で立ち尽くす。

 地方新聞で先日目にした。ちょうど明日、この電話ボックスは撤去される。明日から先は、もう電話をかけることができなくなる。

 どうにもできないことなのだ。

 時間は淡々と流れていき、すべては着実に変わっていく。電話ボックスも例外ではなかったということだろう。

 このまますべてが変わっていくとしたら、今傍にいる人が、誰もいなくなってしまうのだとしたら、ぼく自身もまた現在とはまるで変わっていくのだとしたら、そう考えると叫び出したいような不安に襲われる。

 恐れていても仕方が無い。どのみち変わるものは変わるし、失われるものは失われるのだ。楽しかった昨日の記憶も、夢も憧れも、愛の告白も、やがて薄れて、忙しない日常の茶飯事の底に埋もれていく。

 哀しくて悲しくて、とてもやり切れないとはこのことだ。

 その不安と恐怖から逃げるように、ぼくは電話ボックスの受話器に耳を押し付けてきた。

 それも今夜で最後なのだ。

 変わっていくことが、必ずしも自分にとって悪いことだとはもちろん思わない。むしろいいことも楽しいこともあるだろう。

 だからと言って不安は決して拭えないものだ。

 メモ帳に記録した日付を、ぼくは順番にかけていく。小銭を一杯に詰め込んで、重たかったジャンバーが知らぬ間に軽くなり、肩の圧迫が消えていく。やがて東の空に黎明の哀しい光が溢れ出す。

 ついに小銭は尽きて、最後の電話が繋がった。

 照れたような笑い声と、春の長閑な小鳥の囀り、温かな日射し、静謐な空気が聞こえてくる。

「いまがずっと続けばいいのに」

 そんな声が流れてきた。

 思えば、ぼくには何てたくさんの幸せな記憶があることだろう。電話をかける先がこんなにもあるなんて、と今更ながら感心させられる。

 ふと、電話ボックスのガラスに、反射したボックス内の景色が映り込んでいるのが目に入った。そこにいるぼくの口元には、微笑が浮かんでいた。

 しばらくの間、ぼくはその微笑を見つめていた。

 やがてぼくは小さく「ありがとう」と口にして、受話器を置いた。

 電話ボックスを出ると、朝の澄んだ冷気がぼくを待っていた。空気を深々と吸い込んで肺を満たし、ゆっくりと吐きだす。東の山稜から零れた朝陽の最初の一滴が、長い距離を一瞬で駆け抜け、ぼくを横切り、眠りの中にある街に新しい朝を告げる。

 現在は一片の隙間なく過去で出来ていて、未来は現在を残らず用いて作られるのだろう、そんなことを思った。

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