2022.9.9
甘すぎる。
何が、と訊かれたら答えようがないけれど、唐突にそんなことを思った。
それから寂しくなった。
この寂しさはずっと身体のどこかに隠れていて、意識しなくても、そこにあるということが感じられる。何かに夢中になったり——そんなことはほとんどないけれど、楽しくてたまらないという気分になったとき——そんなときはほとんどないけれど、ふと忘れて、忘れていた時間が長ければ長いほど、大きく成長して帰ってくる。
おかえり、とぼくはその度に呟く。嘘だけど。
今はそれほど大きくはなかった。だけれど、寂しいのに大きさも何もあったものではないという気もする。
模様替えした部屋の気に入らない一角や、十円だけ残った財布みたいに、小さいからと言って無視できるというものでもない。
それが小さければ小さいほど、余計に胸にこたえるということも、あったっていいだろう。別に寂しさの味方をするわけじゃないけど、寂しさがなくなってしまえば、それはそれで寂しいことなんじゃないだろか。
何を主張したかったのか、既に曖昧になっている。
簡単に言ってしまえば、主張したいことなんて一つもないわけで、のらりくらりと、何の意図も目的もなく、日々をのうのうと生きるのがぼくのやり方で、それ以外にやり方を知らない。誰も教えてくれなかったからだ。その点において、国に責任がある。
ともかく寂しかった。
電話をかけた。探偵事務所に。
いつだったか、町で見かけた探偵事務所の広告に書いてあった電話番号を、レシートの裏にメモして部屋の壁に貼っておいたのだ。
このメモを見つけるのはなかなかたいへんだった。
ぼくの部屋は綺麗に片付いている。一般的な独身成人男性の、おまけに家族恋人友人知人が訊ねてくる憂鬱に縁のない人間にしては、驚くほど綺麗に片付いていると言ってもいい、と思う。他の例を知らないから何とも言えない。けれど、綺麗と言えば綺麗だろう。
だけど、それは床や机の上や箪笥に限った話で、壁は信じられないくらいに汚かった。
新聞の切り抜きや、本で読んだ気に入った言葉をメモした紙や、写真、ポスターなんてものを、壁に貼り付けていく習性がぼくには備わっている。白い壁を見つめているのが不安なのかもしれない。最初のうちはデザインや何やら気を遣って、そこそこに見られる壁に仕上がってきたのだが、積もり積もっていつしか一線を越えた。
もはや何がなんだかわからない。紙は何重にも重なっているし、範囲が部屋の壁をぐるりと包囲するまでに拡大してしまっている。これはこれで冬場の暖房代の節約には益をもたらしているような気がするけれど、気がするだけかもしれない。
ともかくその中から、目的の一枚を苦労して探り当てた。
「もしもし、コキュウ探偵事務所です」
耳に当てたスマートフォンから、男性の眠そうな声が聞こえた。
「あの、人を探しているんですけど、警察には相手にされなくて。人探しなど、依頼できるのでしょうか?」
「ええ、出来る範囲でではありますが、そういうこともしています」
面倒くさそうな声だった。
「ああ、ではぜひ探して頂きたいんです」
「ご友人ですか?」
「いえ、恋人です」
「捜索するにあたって、写真やちょっとした個人情報をお聞きすることになりますが、構いませんか? もちろん守秘義務はあります」
「ええ、でも、そう言ったことをお教えできるとは思えないんです」
「つまり?」
「写真はありませんし、名前も分かりません」
「ずいぶん変わったご関係のようですね?」
「と言うより、まだ関係はない、と申しましょうか」
「はあ」
「会ったこともないんですね、これが」
「ネット関係?」
「いえ、そういうわけじゃないんです。そもそも、居るのかどうかも分からない。ぼくに恋人なんて出来るんでしょうか?」
「……」
「もしもし?」
「ツマラナイ。やり直し」
電話は切れた。
ぼくは腕を組んで、どうやり直したものかと考えた。ツマラナイと言われて、いささかショックも受けていた。それで上手にやり直して、心の傷を回復したかったのだ。
けれども、何も思い浮かばなかった。この程度だということだろう。
それから公園に出掛けた。
夕暮れだった。
公園の丘の上に斜陽が注いでいて、まるでそこだけが天の国に愛されているようだった。
ぼくの足は自然とそちらへ向かった。
すると、ぼくを追い抜いて十人くらいの小学生が丘へ走って行った。丘の上に上ると、彼ら彼女らは光の中でぴょんぴょんと飛び跳ね始めた。
ぼくも置いて行かれないように走り出した。丘の上についた時には、汗をかいて息が上がっていた。それでも飛び跳ねた。小学生たちはぼくを気にしてはいないようで、楽しそうにキャキャと騒ぎながら、ぴょんぴょんやった。
五時の曲が団地から流れて来た。
すると、くるくると回りながら、小学生たちが空へ昇って行った。
ぼくもぴょんぴょんと飛び跳ねたけれど、ぼくの足はそのたびに地面に戻ってきた。焦って飛び跳ねても、小学生たちがどんどん空へ昇っていくばかりで、ぼくは暗くなる地面に取り残された。
夕陽がビルの向こうに隠れて、辺りがスッと暗くなってから、ようやくぴょんぴょんと跳ねるのを止めた。
丘を下りて、コンビニでビールを二本買って、一本は飲みながら帰り、シャワーを浴びてもう一本飲んだ。洗濯機が回転をやめるのを待ってから、洗濯物を虚空で叩いて伸ばし丁寧に干した。それから歯を磨いて寝た。
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