第十夜

 こんな、夢を見た。

 夢の奥の奥底で、彼は見知らぬ女に囚われた。そのはずだ。だが、目を覚ませば血塗れのよく知る少女がいた。彼女は、彼の大切な人だ。

 だが、上手く名前が思い出せない。

 辺りの光景も、ただただ真っ白だ。

 記憶を振り返る助けにはできそうもない。

 そこで彼は気がついた。ここは夢の中だ。

 彼と彼女は未だ目覚められてはいないのだ。

「兄さま、私は夢に囚われて、戻れなくなった女を刺しました」

 彼を抱えながら、彼女はふとそんなことを口にした。まるで今朝は散歩をしたのだと語るような調子で。彼の髪を撫でながら、彼女は懺悔を紡ぐ。

 謡うように彼女は続けた。

「おまえさまを取り戻すためでした。時間を巻き戻したとて、私は何度も幾度も、刺すでしょう。けれども、こんな物騒な女は夢の中にずっといた方がいいのでしょうか?」

 透き通るような微笑みを浮かべ、彼女は彼に問いかけた。

「兄さまはどう思います? 兄さまとふたりなら、私は地獄の果てにでも棲みましょう。もちろん、兄さまがひとりで夢から出たければ、出ていただいても構わないのですよ」

 あぁと、彼は思う。彼女の血塗れの手を、彼はそっと握った。この少女は美しい少女であった。また、彼のために、人を殺すことを厭わない娘でもあった。その恐ろしい事実を噛み締めながらも、彼は口を開いた。

 告白のように、彼はその言葉を彼女へ告げる。

「僕は、君と一緒にいたいよ」

 彼女は、微笑んだ。心の底からの、幸せそうな笑みだった。

 彼は強く彼女の手を握る。そうして、思ったことを続けた。

「起きよう、ひのえ。君が誰を刺そうと、誰を殺そうと、僕は別に構いはしない」

 あぁ、こんなだからと彼は思う。こんな人間だから、彼も夢に囚われそうになるのだ。だが、それこそが真実だった。

 彼にとって彼女は大切で、それ以外はどうでもよかった。

 そうして、夢の中では全てが曖昧で、彼女の顔がよく見えない。

「だからね、目覚めよう」

 ふたりは強く手を繋ぐ。

 そうしてまるで心中をするように、底のない白へ身を投げた。


「おまえさま、起きてらして?」

 目を覚ますと隣で少女が笑っていた。彼女はひのえだ。そう、彼はその名前を思い出す。彼女は彼の隣に常にいる娘だ。

 滑らかな頬に手を伸ばし、かのえはゆるりと囁いた。


「起きているとも。おはよう、ひのえ」

「えぇ、兄さま、おはようございます」


 ひのえは微笑む。奇妙な夢はもう見ないだろう。

 そう、ふっと、かのえは考えた。

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ひのえとかのえの夢十夜 綾里けいし @ayasatokeishi

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