お前は天使なんかじゃない

 病院での生活を続けるようになって、手に入れた物がある。それは心の平穏だ。生まれてから今日に至るまで、エリートロードを突き進んでくれたお父さんのおかげで、私の病室には個室があてがわれている。第三者の目がなく、また物理的な意味でも家族と疎遠になる事の出来るこの病室は、私にとっての楽園そのもの。足を切断するようになったあの日から、私の心の平穏は保証されていた。


 それでも強いて難点をあげるなら、やはり目覚めだろうか。規則正しく早起きが出来たのなら特に問題はない。でも、少しでも寝坊をしようものなら、あっという間に面会開始時間が始まってしまう。すると私が目覚めた時、そこには決まってお母さんの姿があるのだ。


 私がこの病室で、真の孤独を味わえるのは夜に限る。お母さんは出来る限り、一分でも長く私の側にいようとする為だ。酷い時は面会開始時間から終了時間までの合計八時間を、フルで寄り添われた事もある。そのストレスが原因で感染症にでも罹ってしまいそうだ。


「……」


 そして今日もまた、お母さんは面会時間が始まった瞬間からこの病室に訪れているようだった。お母さんの姿こそないものの、しかし彼女がついさっきまでこの部屋にいたのはわかる。お母さんがここにいた痕跡が、最悪な形でこの部屋に残されていたからだ。


 女の子と空の遊園地で遊び疲れ、最高の気分で寝落ちした私。最近は幻肢痛も相まって熟睡出来ない日々が続いていたものの、しかしその日は久しぶりの安眠に身を任せる事が出来た。深い眠りから目を覚ました時、こんなにも心地よい朝は何年ぶりだろうと、寝ぼけた頭で感激したのを覚えている。それこそまるで天国にまで昇れそうな気分だったのに。


「……アスタ」


 夢心地の視界に現実の光景が映し出された時、私は悪魔に羽をもぎ取られ、地獄の底まで叩き起こされたのだ。


 不快な音に、耳の穴を犯されている気分だ。液体が跳ねる音、液体と液体が絡み合う音。同じ舌を使う行為であるにも関わらず、大人同士の深いキスとは比べ物にもならない汚物の音が、私の鼓膜を撫で回す。


「……ねぇ。何やってるの? アスタ」


 アスタが、天使のぬいぐるみをしゃぶっていた。


 状況は大まかながらも理解する事が出来た。現在の時刻は午前九時半過ぎ。面会時間の開始が午前九時半からだから、今日もお母さんは朝早くから私のお見舞いに来たらしい。それでお母さんの姿が見えないと言う事は、お医者さんや看護師さんに呼ばれるなりトイレに行くなりしているのだろう。


 可能性としてあり得るのは後者だろうか。私の件でお医者さんに呼びれたのなら長話にもなりかねないし、だとしたらアスタのような手のかかる子供を、一人ここに残すはずがない。


「ねーちゃ」


 アスタが私に気づく。そこでようやくアスタは天使のぬいぐるみを口の中から取り出した。……が、その直後に乾いた破裂音が病室内に轟いた。それはアスタのくしゃみの音だった。


「あー……、いひー」


 アスタの鼻水が、天使のぬいぐるみに付着する。アスタが手を伸ばすと、ぬいぐるみに釣られるように鼻水の橋が伸びていく。それが面白おかしかったのか、アスタは上機嫌そうに笑うのだ。なんて気持ちの悪い笑い方なんだろう。そんな微笑ましい弟の姿を見ながら私は考える。お母さんがここに戻るのって、何分後だろうと。


「……アスタ。それ返して? ばっちいよ」


 大人の手を借りなければ生きていけないアスタだ。近くにお世話をする大人がいなければ、何をしでかすとも知れないアスタだ。そんなアスタの側には、いつだってお母さんの姿があった。アスタを育てる親として、アスタが誰かに迷惑をかけない為の監視役として、いついかなる時もお母さんはアスタの側にい続けた。それこそ私はアスタが生まれてからの五年間、一度もアスタと二人きりになった事がない程で。


「ばっちー?」


「……そう、ばっちい。食べちゃダメ」


 そして今がまさに、そんな世にも珍しいアスタと二人きりで過ごす時間なわけで。


「こえ?」


「……」


 アスタは天使のぬいぐるみを指差しながら私に訊ねた。しかし、アスタの会話はそこで途切れる。アスタの問いかけに対して私が何と答えても、きっとアスタは何も言わない。何も言わないし、何もして来ないのだ。だって。


「汚ねえのはてめえだよ」


 アスタの言葉も、アスタの行動も、全部私が奪ったから。


「自惚れてんじゃねえぞ障害児」


 アスタの喉仏を親指で押し込みながら、私はアスタの勘違いを正した。人間の呼吸を止めるのに、わざわざ首全体を握り締める必要はない。首を絞めた痕跡を残さない為にも、喉仏を押し込みさえすればそれで十分なのだ。


「何その顔? 苦しい? 苦しいの? なら早く助けを呼びなよ。助けてって。お母さん助けてって」


「……っ」


「呼ばなきゃ死ぬよ?」


 アスタの手のひらが私の手首に伸びた。それは手を離して欲しいと言うアスタなりの意思表示なのだろうが、しかしよだれと鼻水に塗れた不快な感触が私の手首にほとばしったせいで、アスタに対する殺意がより一層助長される。


「あー、ごめん。首絞められてたら喋れないか。まぁ、でも同じだよ。この手を離した所でどうせアスタ喋れないじゃん。五年も生きておいて未だにお箸を持つ手とお茶碗を持つ手もわからないもんね」


 アスタの手のひらが、私の手首を掴んでは離す行為を何度も繰り返す。しかし唾液と鼻水による滑りに握力を奪われ、アスタの抵抗は何一つとして意味をなさない。もっとも、仮に唾液や鼻水がなかったとしても、こんな五歳児程度の抵抗なんて、病人の私でさえ造作もなく押さえ込められるのだろう。仮にこいつが小学生程度の年齢だったとしても、まだ私の方が上だ。筋力の低下。それはダウン症患者によく発現する症状の一つなのだから。


「言葉は話せない。お箸どころかスプーンやフォークだってまともに使えない。いい加減気づけよ。お前はただの動物なんだよ。いつまで人様の服を着ながら人間のふりして生きてんだこのポンコツ」


 次第に腕から力の抜けて行くアスタとは対照的に、私の腕にはどんどん力が込められて行く。当たり前だ。私はこいつが生まれて来たその日から、ずっとこうしてやりたかったのだ。殴って、蹴り飛ばして、甚振って、叩き潰して、そして。


「私はあんたを人間だなんて認めない。ましてや天使だなんて死んでも許さない。誰だよ、最初にダウン症児の事を天使だって言い出したやつ。そんなやっすい親のエゴに洗脳されたお母さんに、五年も付き合わされた私の身にもなってよ……っ」


 殺してやりたかった。


「お前のどこが人間だ! お前のどこが天使だ⁉︎ 人間だって言うなら最低限「うん」とか「はい」とか言ってみろ!」


 遂にアスタの最後が目に見える形で訪れた。私の手を振り払おうとする彼の手に、明確な脱力が発生したのだ。もうアスタの手は私の手首を掴もうとはしない。私の手首の上に軽く乗っかっているだけの置物だ。


「アスタ。あんた、お出かけする時に歳の近い子を見かけたら、奇声をあげながら駆け寄るよね。犬みたいに。何で犬は散歩中に他の犬に吠えかかるのか知ってる? 人間に囲まれて育ったせいで、自分の事を人間だと思い込むからなんだよ。だから他の犬を見かけたら「なんだあいつ、人間じゃねえぞ」って警戒して吠えかかるんだ。……あんたと同じじゃん」


 アスタの手が、とうとう置物の役目さえも果たさなくなった。私の手首の上に乗せる余力さえも消えてしまったらしい。アスタの腕が、力無くだらりと垂れ下がる。糸が切れた操り人形のように、ピクリとも動かなくなる。呼吸も、拍動も、体温も、インパルスも、脈拍も、瞬きも、痙攣も、反射も。ありとあらゆるバイタルサインが、魂と共にアスタの体から抜けていき。


「お前も人間に囲まれて育ったせいで自分が人間だって勘違いしてるんだ。わかってんのか⁉︎ お前は施設にぶち込んで同類と暮らさなきゃいけないケダモノなんだよ!」


 そして。


「頭で理解しろとか、何もそこまで求めてなんかない! あんたの知能なんてたかが知れてる! ……でも。それでも犬なら犬らしく、せめて自分がケダモノな事くらい本能で理解してみろこの障害者ぁッ!」


 彼が命を落とすよりも早く、私はアスタを投げ飛ばすように、彼の体を床目掛けて叩きつけた。


 瞬間的な静寂が病室の中を満たす。私は鬱憤を吐き散らかすのを辞めた。床に倒れるアスタの口からも声が漏れない。感情に支配されてしまった私の荒い吐息と、吐息に呼応して上下する私の体。体の揺れによって生じる衣擦れ音とベッドの軋みだけが、何度も室内を往復する。しかしそんな静寂も長くは続かなかった。


「……うっ……あぁ…………っ」


「……」


 アスタの口から声が漏れた。痛みと恐怖に塗れた感情によって吐き出された、子供特有の不快な泣き声が。……いや、鳴き声だ。ケダモノの咆哮が、私の楽園を侵食していく。


 あーあ。死んでなかったか。まぁ、死なないようにアスタが意識を失う寸前に突き放したんだけどさ。でも、仮にそれが手遅れでアスタが死んでしまったのだとしても、それはそれで別に良かったような気がしてしまった。むしろアスタを殺せるチャンスの一つを潰してしまったかのような勿体なささえ感じている。


「アスタ! どうしたの⁉︎」


 お母さんが病室に戻って来たのが、まさにそんな事を考えていた時だった。


「……ごめん、お母さん。アスタと遊んでたんだけど……、アスタ、急にくしゃみをして。そしたら体勢を崩して椅子から落ちちゃって……」


「そうなの……? ごめんねアスタ、ほったらかしにしちゃって……。痛かったでしょ?」


 お母さんはアスタを抱きしめながら、動物のように泣き叫ぶその幼い背中を優しく叩いて宥めた。アスタはそんなお母さんに対して、何かを伝える素振りを一切見せない。


 アスタが本当に人間ならば、ここが痛いと伝える事が出来ただろう。私に首を絞められて突き飛ばされたと、お母さんに告げ口する事だって出来たはずだ。しかしアスタはそれをしない。出来もしないのだ。だってアスタは人間じゃない。人間に育てられた哀れな動物。天使だと唆された醜い悪魔。


「イヴ、お母さんちょっと外に行ってるから。ほらアスタ、お外行こ? 気持ちいいわよ。痛いのだってすぐに忘れられるわ」


「……」


 そんな悪魔を引き連れて退室する二人の背中に、指を突きつける。……まぁ。


「……ザンド」


 ザンドがいない今の私に、彼らを殺す力なんて残ってはいないのだけれど。私は二人が部屋から出て行ったのを確認して、ため息と深呼吸を織り交ぜたような深い呼吸を吐いた。そして、その深い呼吸は窓を叩く小さな音にかき消されるのだ。


「……ザンド。今日は早いね」


 窓の方に視線を向けると、いつものようにザンドに自我を奪われたポチが窓に張り付いていた。ポチはカリカリと爪で窓をこじ開けながら、僅かに生まれた窓の隙間に体を捩じ込むように侵入して来る。


【おいっすー。イヴっち、なんかめっちゃ楽しそうな事してたじゃん。こう言う時にうちを呼ばないでどうすんの? 独り占めはいくないぞ!】


「……いひー。ごめんね。……つい、カッとなってさ」


 ポチはベッドの上に飛び乗り、口に咥えたザンドを私の目の前に落とした。


「わん!」


 ザンドを手放した事でポチには自我が戻るものの、しかし人としての自我を失った彼女の魂は犬そのもの。それもよく躾けられた忠犬だ。ポチは格上だと認識している私に甘えようと擦り寄って来て、構って欲しいとでも言いたそう顔で頭を差し出して来た。私は彼女が望むがままに、ポチの事を抱きしめながらその頭を撫でてあげた。ポチは満足そうな声を漏らしながら、私の撫で撫でを気持ち良さそうに受け止めた。


「……あいつと比較したら、ポチも大分可愛く見えて来るね。ポチは偉いなー。……ちゃんと自分が犬だって自覚出来てるもん。……あいつとは大違いだ」


 ポチが開けっぱなしにした窓の隙間から、一つの聞き慣れた鳴き声が侵入して来た。窓の外に視線を向けると、一階の中庭を散歩しながらアスタをあやすお母さんの姿が目に映る。いつか必ず倒さなければならない私の宿敵が、あそこにいる。


【殺す?】


「……殺さない。何回も言わせないでよ。あいつらは殺すの最後の最後だってば。……でも」


 私はザンドを手に取って、自分の真上に掲げた。私だけでなく、ザンドにも中庭で泣き叫ぶアスタの姿を見せてあげた。家族の前でザンドを出すわけにもいかないから、ザンドがマジマジとアスタを見るのもこれが初めてなのかも知れない。


 だからザンド。よく見て、よく覚えて。あそこにいるのは私達にとってのラスボスだから。私が死ぬ日に殺すと決めた、天使の皮を被った大悪魔だから。


 私はアスタが投げ捨てた、汚物塗れのぬいぐるみに手を伸ばした。唾液の酸味に鼻水のぬめり。それにこのスパイシーな匂いは、朝ご飯にカレーでも食べたのだろうか。私と同じ障害者の分際で、私よりも良いものを食べている。良いご身分だ。私はそんな天使のぬいぐるみをゴミ箱に投げ捨てながら。


「……今度はあんな連中を殺してみるのも良いかもね」


 そう思った。

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