殺したい

 誕生日パーティーで何があったかを簡潔に話そう。山瀬家に向かった私は三人のクラスメイトに出迎えられた。一人は言うまでもなくアイスで、もう二人はアイスと特に仲の良いクラスメイト。その日はアイスのご両親が不在であり、山瀬家はまさに子供のパラダイスだった。飽きるまでゲームをして、たわいもない雑談をして、おかげでほんの少しとは言えアイス達の事を知るようになって。


 一通り遊んだ所でお腹が空いた私達。アイスはここぞとばかりに冷蔵庫から大きなケーキを取り出した。サチがこの日の為にこっそりと作ってくれた手作りのケーキらしい。アイス達はケーキにロウソクを立ててから火を灯し、部屋の灯りを消す。そして三人は軽い手拍子を交えながら誕生日の歌を歌い出した。歌が終わった所で私はロウソクに息を吹き。


『……』


 気がつくと私はケーキの中に顔を埋めていた。いや、埋められた。ロウソクの火が消えた瞬間、私の両隣に座っていた恋愛の友人二人が私の後頭部を掴み、ケーキに叩きつけたのだ。


 つんざくような笑い声とスマホのシャッター音がしきりなしに私の鼓膜を叩きつける。私の両隣で笑い続けるアイスの友人と、フラッシュをたきながらクリームだらけの私の顔を撮影するアイス。そのうちアイスは部屋の灯りをつけ直し、そして私にスマホの画面を見せてきた。


『ねぇ見てみほりん! 超面白いの撮れた! 待っててね、すぐTikTok用に加工するから』


『……』


 そこに写っていたのは言わずもがな私の醜態である。サチが買ってくれた洋服をケーキで汚し、サチが作ってくれたケーキを顔面で汚した私自身の姿。それを悪びれもなく見せつけるアイス。三人の笑みは中々途絶えない。


 少しだけ。ほんの数秒だけ考えた。彼女達は何故こんな事をしたのだろう。何故こんな事をしておきながら悪びれもなく笑っているのだろう。答えはすぐにわかった。簡単な話だ。彼女達には悪事を働いた自覚がカケラもないんだ。その証拠に彼女達は求めている。こんなに面白い事をしたんだ、早くあなたも笑ってよ、と。そんな心の声が見え透いて来る。


 そうか。これは彼女達なりの友好の証、冗談なんだ。私はそう理解した。


『あはは……、ひどい顔』


 私はその冗談を笑い飛ばした。こうして私の八歳の誕生日パーティーは私達四人の大爆笑で幕を閉じる。


『あ! りいちゃんおかえりー。どうだった? お誕生日パー……え⁉︎ どうしたの?』


 家に帰った私の姿を見て驚くサチ。顔や髪については水で洗い流したものの、服にこびりついたクリームやジャム、チョコソースなんかは染み込んでしまい目立っているのだから当然の反応だ。私は誕生日パーティーで起きた出来事を話そうと口を開いたのだけれど。


『……』


 何故だろう。嬉しそうに私をめかし込んでくれたサチの顔が。私に頬ズリしながら送り出してくれたサチの顔が思い浮かび、言葉を無理矢理お腹の奥へと飲み込んでしまう。代わりに出て来た言葉はというと。


『パイ投げしました』


『パイ投げ⁉︎』


 そんなバカみたいなくだらない嘘。


『みんなでゲームをやって、せっかくだから罰ゲームをやろうって。私は三回勝ったんで三発かましてやりましたよ』


『えー……、最近の子ってそんな事するの? これ多分本物のパイでやったよね? ダイソーとかドンキに簡単に落ちる泡のパイ投げセットとか売ってるのに』


『ごめんなさい。もし落ちないようなら明日から汚れを落とす魔法の練習をします』


『あー、大丈夫大丈夫! 気にしないで? これくらいならすぐ落とせるから。りいちゃんが楽しんでくれたみたいでよかったよぉ』


 ほんと、まさかこんなしょうもない出来事が全ての始まりになるだなんてな。


 翌日から私の学校での立ち位置に変化が訪れた。それを知ったのは朝教室に入った時の事。その日の教室はやけに笑顔に包まれていたのだけれど。


『あ、おはようみほりん! ねぇ、昨日のやつをクラスのLINEで回したらみんな笑ってたよ!』


 当時、私はスマホを持っていなかったためLINEと言われてもピンとは来なかった。でも、例の動画がスマホを持った一部の生徒間で回されているであろう事は理解出来た。この日から私はクラスの隅の静かな子から、面白い顔の奴へとクラスアップを果たしたのだった。しかし私のクラスアップはこんなものでは終わらない。


『よ! 食パンマンおはよー!』


 クラスアップ。面白い顔の奴→食パンマン。クリームまみれの白い顔から連想されてつけられた私のあだ名。このあだ名になってから、私は水場の近くでちょくちょく男子から顔に水をかけられるようになった。顔が濡れて力が出ない的な反応を期待されていたのだろう。だけどクラスアップはまだまだ続く。


『うわ、いたのかよチビ!』


 クラスアップ。食パンマン→チビ。ここに来て急に直接的な名前になったもんだなーと思う。実年齢がクラスメイトより二歳若い、そんな私の身体的な特徴にピッタリの名前だった。この立ち位置にクラスアップしてから、クラスの間で私に気付かないふりをしてぶつかる意味のわからない遊びが流行りだす。


『あ、ごめんみほりん! ちっちゃくて気付かなかった!』


 その中にはアイスの姿もあった。


 こうして少しずつ。少しずつではあるけど着実に私の立ち位置は変化を続ける。いつしか私はクラスのいじられキャラとなり、話しかけられない日はないクラスの人気者になっていた。休みの日だって私と一緒に遊びたいってみんなから引っ張りだこなくらいだ。当時の四年一組の笑顔は私が支えていたと言っても過言ではないだろう。笑顔の絶えない素敵なクラス。そんなクラスの中心人物になれたおかげで、私も笑顔の絶えない明るい子供に成長していた。


 帰り道、クラスメイトに後をつけられながら本来は持ち込み禁止のスマホで盗撮される。盗撮されていると気づいた時、私は『やーめーろーよー!』と冗談めかした笑顔で叱咤しつつも、両手でピースを送りながら素直に撮影される事にした。


 授業中、隣の席の子に消しゴムを貸したのだけれど放課後になっても返してくれる様子はない。そろそろ返して欲しいと声をかけると、鉛筆で何度も刺されて穴だらけになった消しゴムが返却された。私は『こんなん使えねえじゃねえかよー!』と、笑い飛ばした。


 夏休みに入って、ポケモンを持っている人達で大会をしようと提案され、Switchを持参して待ち合わせ場所の公園で待機していた。待ち合わせ時間が過ぎて数分が経った頃、私の腕に鋭い痛みが走った。皮膚が赤く腫れていて地面にはBB弾が落ちている。結局その日はエアガンを持った男子達と素手の私との鬼ごっこになったけど、それでも私は笑顔を絶やさなかった。


 二学期が始まってもそんな私の生活に変化は訪れない。うわぐつが片方なくなった時も、机の中に虫の死骸が入っていた時も、体育の時間にドッジボールで私ばかり狙われた時も、掃除の時間に雑巾を顔に投げつけられた時も、筆箱の中の鉛筆の芯を全部折られた時も、教科書に両面テープを貼られページを開く事が出来なくなった時も、給食のおかずを勝手に取られた時も、反対に嫌いな野菜を勝手に入れられた時も、箒掃除中に3対1のチャンバラごっこをすると言われ袋叩きにされた時も、大した意味もなくただ単に蹴られただけの時も。私は決して笑顔を絶やさなかった。だってそれは冗談だから。みんなが笑顔でいる為に必要な事だから。ここで私が怒ったら、私は冗談の通じない器の小さな人になってしまうから。


 だから家に帰ってからも笑顔だけは絶対に絶やさなかった。むしろ家での方が笑顔でいなきゃいけなかったんだ。


『今日、アイスに誘われて初めて一輪車に乗りました』


『えー! 大丈夫? りいちゃん自転車も乗れないのに』 


『大丈夫ですよ。みんながコツとか色々教えてくれましたし、休み時間が終わる頃には一輪車に乗りながら鬼ごっこ出来るくらい上達しましたね』


『へー、すごーい。りいちゃん運動の才能もあるんだね? もったいないなぁ、このままこっちで暮らしてくれたらオリンピックにも出れたかもしれないのに』


『あ、オリンピックって言えば聞いてください。今日、体育で跳び箱をしたんですが、何故か跳び箱が勝手に動いたんです』


『うん』


『変だなって思って跳び箱を調べたら中に竹中が隠れていて……あ、竹中ってクラスのいたずらっ子なんですけどね』


『……うんうん』


 夕食を食べながら学校での出来事を話す。三年生の頃までは決してあり得なかった日常の風景。そんな中、サチの相槌に曇りが混じりだし、私の不安を仰いだ。その日の話に混入したいくつかの嘘に勘付かれたような気がした。


『……サチ?』  


『あぁ……、ううん。ごめんね? ちょっと……。私、こんな風にりいちゃんが楽しそうに学校のお話をしてくれる日が来るなんて、思ってなくて。六年間、ずっと一人っきりで過ごすのかなって考えたら、いつも不安で不安でたまらなかったから』


 しかしその不安は杞憂に終わる。サチの声に生じた曇りの正体は私の嘘を看破してのものではなく、私の幸せを喜んでのものだった。


『りいちゃん。学校楽しい?』


『はい。とても』


 そんなサチだから私は笑顔を絶やすわけにはいかなかった。私が笑顔を放棄出来る場所は、この世界でたったの三箇所。トイレとお風呂と、そして自分の部屋。


『……』 


 特に自分の部屋や風呂場で服を脱ぎ、鏡に写る自分の体を見た時なんかは笑顔の束縛があっけなく解けてくれる。痣や傷、様々な悪意なき悪意の跡が刻まれた体だけが何よりも正直でいてくれた。


 サチに話した学校での出来事は、全部が全部嘘というわけではない。でも、全部が全部本当というわけでもない。アイス達に一輪車を教えてもらったのは本当だ。でも、後半のあれは鬼ごっこというより、一輪車に不慣れな私を集団で追いかけて突き飛ばすだけの遊びだった。


 跳び箱の中に男子が隠れていたのも本当だ。でも跳び箱が動いたのは、私が跳び箱を跳ぼうとした時だけ。跳び箱に手をかけた瞬間に動き出したものだから私は激しく体勢を崩してしまい、危うく体育館の床に首から落下する所だった。男子はいたずらの一環としてこっぴどく先生に叱られていたけれど。


 数ある傷跡のうち生々しく痛む傷は四つ。今日、一輪車から突き飛ばされて出来たものばかり。その他の傷は時間が経ったおかげでもう痛くもない。でも、参ったな。もう長袖が辛いくらいに気温が高くなってきたのに、これじゃあ私はいつまで経っても半袖を着れやしない。こんなんでも魔法で半分は消しているつもりなんだけど……。


【おい】


『何?』


【あいつら殺そうぜ】


 居場所という意味でなら、メリムもまた私が笑顔を見せずに済む相手だ。私はいつもの日常会話をするようにお互いを貶し合う。


『お前が死ね』


【冗談で言ってんじゃねえんだよ】


 でも、メリムは私を貶してくれなかった。


【精霊なんてのはただの暇つぶしだ。普段ふわふわ浮いていて、面白い奴見つけたらそいつについて回って、たまに気まぐれで魔力放出して災害とか起こして】


『迷惑極まりねえなおい』


【こうして魔書としてお前に使われているのだって暇つぶしの延長だよ。最初は外の世界になんざ興味はなかったが、いざこん中に入ってみると色々面白いもんでよ。自由には飛べねえが、それ以上に退屈しない出来事を山のように経験出来る。お前みてえなクソガキにこき使われるストレスを差し引いても十分過ぎるメリットだ】


『クソガキ言うなクソ精霊』 


【黙れクソガキ。ここはもう俺の居場所も同然なんだ。この居場所を侵そうってなら、俺はあいつらを許さねえ。お前がやらないってんなら俺がやってやろうか? 根性出せばこんな本、簡単に抜け出せんのはお前も知ってんだろ? そんで大地震でも引き起こしてこの辺一帯を海の底に沈】


 そこでメリムは黙った。いや、私が魔書を閉じたからこれ以上文字が浮かんでこなくなったと言った方が正しいだろう。


『お前あれだよな。ツンデレってやつ』


 私は閉じたメリムを抱きしめて、動物を撫でるようにその表紙を撫でてやる。こんなのでもこいつとの付き合いは実の母やサチよりも長いから。


『大丈夫だから。ありがとう、メリム』


 私は大丈夫、こんなのはくだらない冗談の延長だ。あいつらはみんなふざけているだけ。私はそんなただのおふざけを悪意だとは思わない。私は大丈夫、私は大丈夫……。そう自分に言い聞かせた。……でも。


『ねぇねぇ、これこの前池袋で撮った写真なんだけどさ。これみほりんのお母さんだよね?』


 九月も後半に差し掛かった頃だった。アイスは登校するやいなや持ち込み禁止のスマホを取り出し、悪意のない笑顔でその画面を見せてきて、そこに写っていたのは今まさに職場から出て来たばかりのサチの姿だった。


『みほりんのお母さんってキャバクラで働いてるんだ』


 私がアイスの言葉を肯定するとアイスの笑みは一層色濃くなる。


『キャバクラって汚いおっさんとエロい事するんでしょ?』


『エロい事?』


 そこで私とアイスの知識に食い違いが生じた。私はサチの仕事について、仕事に疲れた人とお酒を飲んだり、愚痴を聞いたり、慰めてあげたり励ましてあげたりするそんな仕事だと聞いていたから。優しいサチにとてもぴったりな仕事だと思っていた。実際、家でお客さんと電話で会話をするサチはとても楽しそうだった。私はそんなサチを見てサチは仕事にやりがいを感じているんだと思っていた。


『みほりん、セックスって知ってる?』


 私はアイスの言葉を否定した。セックスが日本語でないのはわかるが、それ以外の事は何一つわからなかったからだ。そんな私を見てアイスはとても嬉しそうに言うのだ。


『セックスって言うのはね』


 私の耳元で、私の知らない知識を、私の知らない世界を、私の反応を逐一楽しみながら言うのだ。


 それまでの人生で一度も触れた事のないその話に私の頭は一瞬で行き場のない熱に満たされた。心臓が高鳴るのを感じた。体温が上がるのを感じた。顔が熱い、耳が熱い、全身が熱い。お風呂とかサウナとか夏の気温とか、そんなものとは比べ物にならない熱さ。仮に今が真冬の雪山だったとしても、私の体温は上昇を続けていただろう。


 はっきりと言おう。この時の私は冷静な判断力を欠いていた。


『みほりんのお母さん、お金もらって汚いおっさんとセックスしてるんだよ』


 でも。


『キモくない?』


 仮に冷静な判断力が備わっていたとしても、私はきっとアイスの顔を殴打していただろう。そのスマホを奪い取り、スマホごと叩き壊す勢いでアイスの顔に叩きつけていただろう。突然の事に仰け反ったアイスを押し倒し、その上に馬乗りなって何度も、何度も、何度も、何度もだ。気が済むまで殴るなんて事はなかった。どんなに殴った所で私の気は治る事を知らなかったからだ。


 アイスもまた、ただ殴られるだけではいてくれなった。私の髪の毛に手を伸ばし、自分の上から引きずりおろした。そしてそこからは何でもありの殴りあいとなる。拳で殴ったりもした。足で蹴ったりもした。爪も立てたし相手の体に噛みつきもしたし、なんだったら椅子を投げつけたり箒を叩きつけたりもなんのその。ただ、そんな私とアイスの殴り合いの時間はすぐに終わりを迎える。


 騒ぎを聞きつけた先生が来たからとかじゃない。クラスの人気者といじられ役の私の喧嘩だからな。当然クラスのみんなはアイスの味方をしたんだ。私はアイスから引き離され、床に這いつくばされ、そして叩かれた。素手で叩かれ、足で叩かれ、物で叩かれた。ただでさえクラスで一番小さな体格なのに、一対多数で私に勝ち目なんかあるはずなかった。理性を持った動物が人ならば、理性を失った人は原始人のようになってしまうんだと思い知った。


 仕事場から慌てて飛び出して来たのだろう。激しく息を切らしたサチが病院にやって来たのはそれから一時間と少しが経った後の事。


『りいちゃん……』


 電話で大体の事情は聞かされているのだろう。サチは待合室に入って来るや否や、いの一番に包帯だらけの私に駆け寄って抱きしめてくれた。袋叩きにはされたものの、結局は子供の腕力。私の皮膚は表面こそ傷だらけだったけれど、不幸中の幸いで内部が傷ついたりはしていない。……でもやっぱり抱きしめられると少し痛かったな。それに私の目はそんなサチよりも、仕事場から直接駆けつけたサチの服装を見て、軽蔑の眼差しを向けるアイスのお母さんの方を向いていた。


『みほりさんのお母さんでしょうか?』


 先生さえも沈黙する待合室で真っ先に口を開けたのはアイスのお母さんだった。


『うちの子に非があったのは認めます。ここに来る道中もお二人への謝罪の言葉を考えておりました』


 考えていた。彼女がそう過去形で表現したのは、つまりそう言う事なんだろう。彼女が次に吐き出す言葉は子供の私でも容易に想像する事が出来た。


『でも、ごめんなさい。有生さんの職業を聞いた時、私はお二人に頭を下げるのは難しいと判断しました。……いえ。この際はっきり言わせていただきます。私はあなたのような親に頭を下げたくありません。子供がいながらそんないかがわしい店で働いて、子供がどう思われるか考えた事はないの? 今回の件も元はと言えばあなたがそんな店に出入りしていたせいなんでしょ?』


『山瀬さん』


 校長先生が割って入るも、アイスのお母さんは言葉を止める素ぶりを見せようともしなかった。謝罪の言葉を考えていたという主張が信じられないくらい、あの人はサチを責め立てた。


『水商売に手を染めなくても一生懸命働く片親の家庭なんていくらでもあるわよ。悪いけど水商売で稼ぐ片親って時点で私はあなたが、あなた達二人が信用出来ない』


『山瀬さん。ご家庭にはご家庭毎の事情があります。そのような発言は謹んで』


『私は自分が間違った教育をしただなんて微塵も思っていません。綺麗なお金で、誰にも恥じる事のない子育てをして来たつもりです。本当に問題があったのはうちの子だけなんですか? どんなに腹立たしい事を言われたからって、スマホで相手の顔を叩きつけるって……。どんな教育をしたらそんな子供に!』


『山瀬さん、一度落ち着いて! どうか冷静に!』


 校長先生や教頭先生、学年主任の先生に担任の先生。ここには色んな大人がいるのに、皆が皆子供のように声を荒げる。怒る為に声を上げる人、なだめる為に声を上げる人。


『……』


 唯一声を荒げない大人はサチだけだった。私を抱きしめるサチの手が、体が、そして恐らく心までもがブルブルと震えていた。私の知っているサチは喧嘩や争い事とは無縁の人間だ。彼女は誰かを怒らせたりはしないし、彼女自身も誰かに対して怒るような人間ではなかった。こんな争いのど真ん中に巻き込まれるような経験、果たしてサチのそれまでの人生に何度あっただろうか。数える程も、下手したらたったの一度もなかったんじゃないだろうか。今回の件にしたって原因はサチではなく私にあるんだから。きっとサチは今のこの状況が怖くて怖くて仕方ないのだと、私は思った。私がサチの手を握ると、その震えは少しだけおさまった。


『とりあえず皆さん。今日は色々と思うこともあるでしょうし、このままでは冷静な話は難しいと思われます。今日は一度ご帰宅なさって頭を冷やして考えを整理しましょう。本格的な話し合いの場はまた後日設けますので……』


 結局その日、サチが待合室で口を開く事はなかった。なかったんだけど……。


 最初にその異常に気が付いたのは帰り道のこと。私の手を握るサチの手からはすっかりと震えが消えていた。いや、消え過ぎていた。直前まであんな事があったにも関わらず、サチの言動は禍々しい程に平穏だったのだ。


『そろそろシルバーウィークだねー。今年はどこ行こっか? 毎年ありきたりな所ばかり行ってるし、奮発して海外旅行とかも行ってみたいよね』


 いつもの日常会話でもするかのようにそんな話を振って来る。


『ただいまー。あ、水曜日のダウンタウン録れてるよ? 仕事行く前にちょっとだけ見たんだけど、すっごい面白かった。一緒に見よ?』


 家に帰った時もその平穏さに変わりはない。早寝早起きを心がけ、毎日夜の十時には眠りにつく私の為に録画してくれた深夜バラエティをつけてくれる。お茶とお菓子も用意してくれて、私達はいつものようにソファに座りながらテレビ鑑賞をした。私が終始無表情で見続けていたのに対し、この時もサチはお笑いシーンに合わせて笑いをこぼしたりと、よくも悪くも妖しくも、いつも通りの安寧な彼女のままだった。


 録画した番組を見終わって。


『あー面白かった。そろそろお腹空いたね? 今日は外でご飯食べよっか。スイパラとか行っちゃう?』


 私は何も答えない。テレビも見ているというより、流れてくる映像が勝手に目に入って来るだけだった。サチは承諾の意思も拒否の意思も見せない私の手を握り、日が傾きかけた街へと歩き出した。


 スイパラに着いてからもサチの態度に変化は見当たらなかった。まぁ、特別な日でもないのにスイーツ食べ放題のお店に連れて行くあたり、私に気を遣っているのはわかる。でもそれだけだ。


『今日は人空いてるねー』だの『わー、美味しそう。何から食べる?』だの『美味しいね』だの、私にかけて来る言葉はいつものような日常会話ばかり。私は一切の返答もせず、味のしないケーキを黙々と食べるだけ。サチの会話はもはや会話ではなくただの独り言だった。


 それでもサチは普段通りの平和な話を振って来るものだから。彼女の言動が不気味なまでに平穏だったから。


『サチはお金を貰ってセックスをしているんですか?』


 いじめの事実を隠し続けた私を責めるでもなく、慰めるでもなく、あくまで平穏な日常の一ページとして今日を終わらせようとするサチに対して、私はそんな意地悪を言ってしまった。こうする事でこの不自然な平穏から解放されるような期待もあった。


『キャバクラって笑われるお仕事なんですか? 大人の人とお酒を飲みながら相談に乗ってあげたり愚痴を聞いてあげたりする、そんなお仕事じゃないんですか?』


 ……いや、違うか。これは意地悪なんていう生易しい感情なんかじゃない。セックスという行為を最悪な形で知ってしまった私だ。病院でサチの到着を待つ間、私はずっとセックスについて考えていた。


 エロいってなんだ? 裸とか下着とか、そういうもの全般の事を指す言葉じゃないのか? 男と女が裸になる? 男に体を触られるってなんだよ。入れられるってなんだよ。別に女子を殴ったわけでもないのに、スカート捲りをする男子があそこまでこっ酷く大人に叱られるのってそういう事だったのか? ……気持ち悪い。キモくてキモくて仕方がない。


 クラスの男子や男の先生。更にはその辺を歩く見知らぬ男性。彼らと私がそのような行為に及ぶ姿がふと脳裏に浮かび、はらわたがじわじわと溶けていくかのような不快感に囚われた。サチが金銭を代価にそのような行為に及んでいるのかもしれないと思った時、私はあんなにも好きだったサチに明確な嫌悪感を抱いてしまったのだ。


『嘘をついても魔法ですぐにわかりますよ』


 私はサチにだけ見えるようにメリムを取り出し、突きつけるよう問いただした。 


『嘘をついてもって……、りいちゃんがそれを言う?』


 それでもサチは平穏な表情を崩したりはせず、困ったように笑うのだった。何気ないサチのその言葉に、友達が出来て学校が楽しいという嘘をつき続けた私の方が生唾を飲む始末である。


『んー……。そういう人達もいるね。私はしてないけど。そういうのはもうしないって決めてるの。八年も昔に』


 サチの答えは明確ながらもどこか含みのある言い方だった。否定はするけど肯定しないわけでもない、そんな曖昧な言い方。


『幸せな事に私のご贔屓さんは優しい人が多くてね。それなりにやり甲斐も感じてるんだ。でも意地悪な人がいる職場なのも事実だから。優しいご贔屓さんが多いって言っても、同じくらいそうじゃないお客さんもいる。そんなお客さんに体を触られる事なんて日常茶飯事だし、正直嫌な気持ちになる事の方が多いよ。だからまぁ、笑われるのも仕方がないの。胸を張れるお仕事じゃないのは本当だもん。もしもりいちゃんが将来キャバクラで働きたいなんて言ったら、私は何が何でも反対するし』


『なのにそんなお仕事を続けているんですか?』


『お金が欲しいからね。こんなお仕事でもしないと、まともな職歴もない私が家賃十四万円もする都内のマンションなんて住めないよ』


『どうして……』


 私はサチにそう問うものの、しかしその答えは十分過ぎるほど予想が出来た。 


『りいちゃんを六年間引き取る事になった時、アパートのお部屋を見ながら思ったんだ』


 サチと三年も暮らした私にはあまりに簡単過ぎる答えだ。


『りいちゃんのお部屋、準備しないとなーって』


 この人はいつもそうだから。初めて出会った四歳の頃からずっとそうだから。この人が何かをするのはいつも私のため。私のために。私だけのために。……私のせいで。 


『りいちゃん。もし今りいちゃんが、自分のせいで私が惨めな仕事を続けているんだって思っているなら、お願いだからやめて』


 今だってそうだ。魔法も使えないくせに私の心を見透かして。


『相手に対してそう思えるのは立派な事だと思う。でもそれは子供が大人に向けて良い感情じゃないよ。その気持ちはりいちゃんにはまだ早過ぎる。大人はね、子供の為に頑張りたくなるように出来ているの。自分の頑張りで子供が喜んでくれた時、今日もお仕事頑張ってよかったなーって思えるの。なのに自分のせいで大人を頑張らせてるなんて思われたら、それこそ惨めだよ』


 私にはわからない。サチがそこまで私に固執する理由が。私に同情や罪悪感を抱く事さえ許してくれないサチの気持ちが。


『わからないです。サチの気持ちが、全然……』


『わからなくていいよ。それが普通なの。だって子供は大人だった事がないもん。でも、その反対はダメなんだよ。子供だった事がある大人は子供の気持ちをわかってあげなきゃいけない。子供の気持ちに気付いてあげられない大人は、大人失格なんだ』


 それはまるで私の嘘に気付けなかったサチ自身に言っているように感じた。 


『そんな事ないです。サチは』


 私はすぐにその言葉を否定しようとしたけれど、彼女はそれさえも許してくれない。サチは私の言葉を覆い隠すように言葉を続けた。


『そんな事あるよ』


 私を押し黙らせるように言葉を続けた。


『私は大人失格……って言うより、そもそも人間失格だ。今日、りいちゃんを迎えに行ってそれがよくわかった』


 サチの表情は変わらず平穏なものだった。平穏なものだったはずだ。平穏なものだったはずなのに、全身に悪寒が走った。皮膚が震え、鳥肌が立ち、額には脂汗まで滲んだ。私の直感が告げる。これ以上サチを喋らせたくない、これ以上サチの話を聞いてはいけない。


『私ね。りいちゃんがいじめられていたって知った時』


 しかし私の直感も私の願いも全て覆すようにサチはその言葉を口にした。


『殺してやろうって思った』  


 それは今までサチと共に暮らして来た中で、たったの一度としてサチが口にした事のない言葉だった。


『アイスちゃんも。アイスちゃんと一緒にりいちゃんをいじめた子も。そんなアイスちゃんを庇うお母さんも。いじめられるりいちゃんを見ないふりして来た子達も。今日の今日までいじめに気づかなかった学校の先生達も。みんなみんな』


 普段からその言葉をメリムと言い合う私がこんな事を言えた義理じゃないけれど、その言葉はサチの口からは死んでも聞きたくない言葉だった。


『殺したい』


 嵐の前の静けさという言葉がある。しかしサチの場合、嵐の前も嵐の後も、嵐そのものまでもが静かなのだと知った。激しく怒鳴り散らす事だけが怒りの形じゃない。静かに、何事もなかったかのように、しかし確実に炎を燃す。サチはそんな風に怒る人だった。その日、私は初めてサチの怒りを目の当たりにした。


 気づけばサチの表情からは平穏の二文字は消えていた。今の彼女は何の表情も浮かべていない。その瞳には何も写っていない。ただ目蓋が開いているだけの人形のよう。 


『病院に迎えに行った時、りいちゃん包帯だらけでびっくりしたよ。でも、そんなの氷山のほんの一角だったね。間近でよく見てみたら、服の隙間から見えるだけでも痣や擦り傷がいくつもあって……』


 病院でサチの震えを感じた時、私はサチが慣れない喧騒に怯えているものだとばかり思っていたけれど、あの震えはそんな生易しいものなんかじゃなかったらしい。


『待合室に飾ってあった花瓶とか見てずっと考えてた。あれなら私の力でもここの人達、殺せるんじゃないかなって。全員は無理でも、少なくともアイスちゃん一人ならって。あの時りいちゃんが手を握ってくれなかったら、私多分……』 


 あの震えはサチの葛藤だったのだ。ここで殺人という罪を犯すかどうか、今後の人生を左右する一世一代の葛藤。あの時、彼女の震えを止めようとその手を握ったけれど、まさかそれが人命救助級の英断だったなんて。


 そこでサチの瞳に光が宿る。目蓋が開いていただけの瞳にヴィジョンが映し出された。サチの両の瞳は詰め寄るように私を捉えて。


『りいちゃん。りいちゃんはどうして欲しい? あの人達、みんな許せない? もしそうなら私……』


 そしてサチは言葉を止めた。やっと止めてくれた。ハッとしたように驚くサチ。人形のように冷たかった彼女の表情には生気が戻っていた。人としての表情を取り戻した彼女の瞳に写っていたのは他でもない私の姿。生まれて初めて目の当たりにしたサチの狂気に怯え、涙をこぼす私の姿。涙の止め方を忘れてしまった私の姿。私はサチの問いに答えなかったんじゃない。恐怖を抑えきれず、涙に染まった声を押し込むのに精一杯で声を出せなかったんだ。


 これでも泣き顔を悟られないように我慢したほうだと思うけれど、しかしそれもいよいよ限界だった。どんなに踏ん張っても涙は止まる気配がないし、口は変な形にひん曲がるし、目から下は涙に塗れて気色が悪いし。私はついに両手で目を隠し、誤魔化しようのない嗚咽を見せつけてしまった。


『ご、ごめんりいちゃん! 私、そんなつもりじゃ……。ごめんね! 私、どうかしてたね……』


 すぐさま私の肩を抱き、頭を撫でながら謝るサチ。サチは壊れたおもちゃのように、呪文でも唱えるように、呪いでもかけるように『ごめんね』という言葉をかけ続ける。


『気づいてあげられなくてごめんね』『辛い嘘ばかりつかせてごめんね』『守ってあげられなくてごめんね』『ごめんね』『ごめんね』『ごめんね』


 周囲の客の視線が私達を突き刺す中、時間が許すまで何度でもそう言い続けた。





「……」


 夢というのは記憶の整理だと何かで見たことがある。どんなに現実離れした出来事が夢で起きようと、それは必ず本人がどこかで経験している出来事らしい。魔法を使えない人間が魔法を使う夢を見たのなら、例えばそれは漫画や映画の記憶が反映されているのだとか。……それにしても、まさか過去の経験をそのままなぞり直すような夢を見る事があるだなんてな。 


 結局あの後、私は逃げるように別の学校に転校する事になった。こういう時、いじめられた方が転校するなんておかしいという意見があるけれど、ぶっちゃけいじめて来た連中や見て見ぬ振りをして来た連中がいる学校に留まる方が地獄だし、私は別の学校に行けて良かったと思っているよ。


 今の学校生活は……まぁいいもんだから。いやまぁそりゃあダイチのせいで気分は最悪だわ。でもあんな事が起きるまでは一応平穏な学園生活を送れてたわけだしな。人と関わる事を完全に諦めたおかげで、いじめられる前の私と同じ暮らしが出来ていたし。……つってもその分、私生活の方には大きな変化が及んでしまったけれど。


 あの日以来、私はサチとは最低限の距離を弁えて接するようになった。以前のように一緒に出掛けたり、一緒にテレビを見たり、たわいもない会話をする家族のような関係ではなく、挨拶のような最低限の会話だけをする関係。同じ屋根の下で暮らすだけの関係。最後にサチと交わした家族らしい長話はなんだったっけな……。ああ、あれだ。サチが仕事を辞めるって言い出した時の事。


『それも私のためですか? 私に悪い噂が飛ばない為に辞めるんですか?』


 サチはアイスのお母さんに言われた事を気に病んでいたんだろう。今の学校に転校する前、突然仕事を辞めたいと言い出してきた。


『サチが辞めたいなら辞めればいいと思います。でも、やり甲斐を感じているのに私の為に辞めようとしているなら、私は怒ります』 


 私はそれが許せかった。私は電話でお客さんと楽しそうに話していたサチを知っている。私の前で仕事にやり甲斐を感じていると言ったサチの言葉も覚えている。なのにここまで来て私の為に仕事までも辞めようと言うのなら。 


『私は私の為にそういうお店で働いてくれたサチの事を恥だとは思いません。だからもしそうだと言うなら辞めないでください』 


 サチは私の言葉に複雑な表情を見せてくれて。


『迷惑です』


 そして私はそんなサチの事を突き放した。


 あの人は。サチは私の事が好きで好きで仕方がないんだとこの一件で思い知らされた。同時にサチはクラスメイト以上に仲良くなってはいけない相手なんだとも。それまでの私はサチに甘え過ぎていた。魔女の掟で母親から引き離された寂しさから、サチに母性を求めていた。サチはそんな私を受け入れてこの世の誰よりも私の事を愛してくれた。


 私はサチになんて残酷な事をしてしまったんだろう。魔女は魔界に帰る際、この世界の人間から私の記憶を消し去らなければならない。それで一番傷つくのは果たして私の方だろうか? 違う。一番傷つくのはサチだ。世界中の誰よりも私を愛してくれたサチだ。私と別れる日を恐れて生きなければならない、サチの方だ。


 私が傷つきたくないから関係を深めないんじゃない。サチが傷つかない為に関係を深めてはいけないんだ。なのにここ最近の私と来たらタロウの一件でサチを頼っちゃったりしてさ……。


「五月十一日……」


 年度試験の期限は明日。人間の友達が出来る気配は未だゼロ。


「もう、無理だよな……」


 私が試験を諦めてしまった事をサチはまだ知らない。そんな最悪な気分の土曜の朝だった。

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