第4話 冬の鐘

 ――冬に降る氷雨のしずくが音楽を奏でれば、このような演奏をするだろう。


 日向ひむかい春馬はるま主催のチャリティコンサートに参加したわたしは、そこで弾く曲にラカンパネラを選んでいた。

 弾き出しから重く叩かれた鍵盤から打ち出される音は、冬の雨に濡れるような冷たさで肌にみる響きを奏でる。

 彼がわたしの演奏を聴いている。

 彼はわたしの演奏を求めていた。彼の求めるわたしの演奏は嫉妬の演奏。届かぬ背中にどこまでも無様に追い縋る哀れで往生際の悪い女の演奏。春に憧れながら決して手を届かすことのできない冬の演奏。わたしはそれを認めるしかなかった。

 降りしきる氷雨に鐘を鳴らす。泥濘でいねいに跳ねる黒々とした雨飛沫あめしぶきにも似た冷たい余韻を伸ばしながら、この行き場を失った感情に弔鐘を聴かせるように、わたしの指は一音一音を引きずるような音で演奏する。

 転調。

 そこで奏でられる音は哀悼の音。たとえ雨が止んだとしても悲しみは消えず、失ったものは戻らないことをわたしは知っている――いや、知ってしまった。

 彼の音楽は聴衆に世界を見せた。しかしわたしの演奏はどこまでも自分の感情だった。嫉妬なんて醜い心を織り込んだわたしの音楽は、ただわたしの心の中に降りしきる雨を音に変え、冬の灰空のように心寒い旋律に弔いの鐘を高く、高く鳴らし続ける。

 一拍。

 けれど渇望は消えない。強く鍵盤を叩くわたしの指は諦念を踏みにじるように跳ね、叫ぶように悶えるように身を裂くような音で駆け出していく。

 音が走る。

 その先にわたしが見るのは、いつか彼と弾いたラカンパネラの光景。夕暮れの丘に見た背中。世界を燃やし尽くす勢いで赤く響きながら駆け走った晩鐘の音色。

 なのに、なのに――その音の先に立つ背中は、世界とともに燃え消えていくのだ。赤く輝きながら、永遠の輝きを纏いながら、決して手の届かない彼方へ、天上の遼遠の彼方へ消え去っていくのだ――、


 ――置いていかないで。


 最後の一音を弾いた手が鍵盤に跳ね返されるように空に伸びた。

 その手を見上げる。

 コンサートホールの高い天井にまばゆく輝く照明の光。

 わたしひとり。


 ――万雷の拍手。


 聴衆の満場の喝采がピアノに座るわたしへと降り注ぐ。

 だけれどわたしはすぐに立ち上がれなかった。拍手に応えて笑顔で手を振るなんてできなかった。

 頬に涙が伝うのを感じた。


 ――わたしひとり。


 わたしはこんな涙なんて見られたくないという気持ちで立ち上がり、一礼を済ませて舞台袖へと逃げるように退く。


「――あ」


 そこに彼が、あの屈託のない春のような微笑みを浮かべて立っていた。


「素敵な演奏だった――」

「どうしてそんな顔をしていられるの?」


 まなじりに涙を湛えるわたしは、彼の変わらない微笑みに酷く苛立たしい気分になり、労いの言葉も遮って率直な疑問をぶつけていた。


「この手は悲しいけれど……」


 彼はわたしの突然の詰問に戸惑うこともなく、自分の手を見ながらそう話し出し、


「今はキミのピアノが素敵だったから」


 春のようにやわらかくあたたかい微笑みを絶やさずにわたしの涙を見つめ、


「だから笑うんだ」


 そう答えた。


「わたしは悔しい」


 けれどわたしは微笑み返すなんてことはできなかった。


「もうあなたのピアノが聴けないから」


 わたしは自分の顔がとめどなく溢れてくる涙に汚れていくのを感じながら、


「追いかける背中がないから」


 恨めしく、見苦しく、諦めが悪く、恥も外聞もない、どうしようもない未練がましい声で、


「悔しい」


 その言葉を繰り返した。


「そうだね」


 そう答える彼の目が眩しいものを見るように細められる。


「僕ももうキミの背中を見ることしかできないから」


 そして彼の春のような微笑みが雨に打たれて散る花のように切なげに崩れ、


「悔しい――」


 そうかすれた声をこぼすのを聴いた。


「悔しいよ――」


 彼が嫉妬した。わたしと同じに。彼が涙を流す。わたしも涙を流した。

 共感でも同情でもなく、ただ悔しくてわたしたちは泣いた。

 声もなく静かに、わたしたちは二人で泣いていた。

 あのラカンパネラは遼遠に消え去った。

 ただ悔しくて、悔しくて、私たちは互いを見つめたまま、二人でずっとずっと泣き続けた。

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あのラカンパネラは遼遠に ラーさん @rasan02783643

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