第3話 消えた背中
運の悪い交通事故だった。反対車線で起きた追突事故で車線を飛び越えた車にぶつかり、潰れた車体が彼の両手を挟んだ。ピアニストとしては再起不能の怪我だった。
その一報からわたしは放心状態になり音楽活動も停止した。当然だ。わたしの半生は彼への嫉妬だったのだから。嫉妬するべき彼の才能を失ったわたしは今まで生きてきた人生の意味をすべて失ったも同然だった。
ピアノに向かい鍵盤を叩く。けれどその音の向かう先に、もうあの背中はいない。あれほど苦痛だった彼の背中が二度と見えなくなったことに、これほど苦痛を受けている自分がいることに驚く。わたしはわたしの動機を永遠に失ったことを知った。ずっと絶望的な才能の差と戦っていたわたしに、戦う選択肢すらない絶望が突き付けられたのだ。わたしは塞ぎ込んだ。そして一年近く無為な日々を過ごす。
そこに彼から連絡が届いた。自分と同じ身体障害者を支援するチャリティコンサートを主催するので是非参加して欲しいとのことだった。
なぜ一年近く活動をしていない自分に声を掛けてきたのか困惑したわたしが返事を出せないでいると、焦らされたのか彼が突然わたしの家を訪問してきた。
「どうしてわたしを」
両手を失った彼に初めて会ったわたしは、彼の二本指が欠けた右手と手首から先のない左手から目を逸らし、込み上げてくる嗚咽を堪えながらそう訊ねた。
これに彼はわたしの中にある昔の記憶のままの、屈託のない春のような微笑みを浮かべて簡潔に理由を述べた。
「僕は望月さんのファンだから」
驚いて正面から顔を見たわたしに、彼は悲しげに眉を下げて心の底から惜しむ声でこう言うのだ。
「聴けないのは寂しい」
そう言われてわたしが咄嗟に思ったことは「こっちのセリフだ」だった。
だからわたしは、彼の申し入れを承諾する以外に返す言葉を持たなかった。
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