第2話 遠い背中
三歳からピアノを始めてピアニストになったわたしの前には、いつだって同い年の天才ピアニスト――
子供の頃からいつもコンクールで顔を合わす彼は、よく互いを知り合った幼馴染みであるとともに、わたしにとってずっと絶対的な存在だった。
彼は完全なる天才であった。
彼が持つ音符の隙間を階層的に聴き分ける耳も、どんな離れた鍵盤へでも自在に伸び動く指先も、それだけなら一線のレベルを越えたピアニストならば持ち合わせる者は多くいた。けれど彼の曲の構造を理解する深さと、そこから汲み出される表現の豊穣さは、今の時代のどのピアニストも及ぶところのないものだった。
その天賦の才は子どもの頃から余すところなく発揮され、出場するコンクールのそのすべてにおいて金賞に輝くことを約束された存在だった。彼と一緒に参加したときのわたしは、せいぜいよくて金賞に輝く彼の才能の太陽のような光に霞みながら、昼間の月のように所在なく鉛色にくすんだ銀賞の盾を悔しげな顔で持つことまでしかできなかった。
順位としてはひとつの差。一段だけの差だった。けれどそれは絶壁のような高さのむこうに隔てられた一段の差であり、見上げることすら苦痛に覚えるほどの絶望的な差であった。それは幼かった頃のわたしにも厳然と理解できる差であり、わたしの中の理性はいつだって諦めることで救われる心もあることを優しく
だけれど、わたしは悔しかった。同じ場所で、その身体に手を伸ばせば簡単に触れられる距離で並んで表彰をされているのに、どれだけ望んでも決して手の届かないところにいる彼の存在が遠くて、憎らしくて、妬ましくて、羨ましくて、悲しくて――とにかく悔しかったのだ。
わたしは努力した。研鑚した。琢磨した。けれど彼はいつだって、わたしの努力も研鑚も琢磨したあらゆる技量のすべてが及ばない高みを、涼しい顔で飛んでいくのだ。金色に輝く彼の才能を見上げるしかない凡才のわたしは、ただ銀色にくすんだ悔しい顔でその横に並び続けるだけだった。
それでもわたしは悔しさの屈託の中で努力を重ね続けた。無謀と囁く自分の理性に感情で蓋をして、さらなる研鑚に励み続けた。しかし才能に愛された人間というものは、自身の才能に屈託を抱かない。彼はとても明るく鷹揚な人間だった。
「望月さん、一緒に弾かない?」
あるプロのピアニストが開いた合同合宿会に参加したときのことだ。練習が終わった後の自由時間に、同じく参加していた彼がわたしを誘った。
わたしは嫌がった。越えられない壁を横に、自分の才能の不足を徹底的に見せつけられることになるなんて簡単に想像がついた。傷つけられると理性も本能も言っていた。
けれど彼はわたしの手を握って、
「いつもコンクールで聴いてるキミのピアノ」
屈託なんてまるでない、
「大好きだから、連弾してみたかったんだ」
感情がわたしを動かした。あなたなんて大嫌い。だから逃げたくなくて、わたしは彼と並んでピアノに座った。
「じゃあ、ボクはこっちから」
そう言って右側に座った彼が指を鍵盤に置くと、チャイコフスキーの『ピアノ協奏曲第一番』を弾き始めた。まったくふざけた男だった。この男はオーケストラが演奏する序奏の主旋律をピアノで演奏し出したのだ。そして壮麗なホルンの響きを強く叩く鍵盤の音で表現しながら、こちらを見て促すように微笑んできた。
わたしは挑発に乗ってピアノパートを弾く。バイオリンの演奏に似せた川のようにゆったりとしたメロディに敢えて逆らう水飛沫の跳ねるような音で鍵盤を叩く。バカにして。わたしは反抗心を剥き出しにして、これでも続けられるかと問うように強く叩く鍵盤の音からグリーグの『ピアノ協奏曲』の序奏へと強引に曲を切り替える。
劇的に響く演奏を切る強い音。けれど彼は戸惑うよりも興に乗ったというような表情で顔をほころばせ、嬉々とした朗らかな指運びで応じるようにオーケストラパートを弾き出すと、その勢いで高速のオクターヴを奏で、わたしの演奏を音で巻き上げるように別の曲へ繋いでいった。
聴こえてきたのはチック・コリアの『スペイン』。情熱的な響きでクラシックに割り込んできたジャズナンバーから連弾は一気に混沌とした流れになっていった。
わたしが対抗してショパンの『幻想即興曲』をベースに流し込むと、彼は『スペイン』を弾きながら『猫踏んじゃった』のフレーズを混ぜて返してきた。イラッときたわたしがこれに『うっせいわ』のフレーズを弾き返すと、彼は声を上げて笑いながらそれならと『夜を駆ける』を二人だけの音楽が広がるようにとでも言わんばかりに弾き始めた。
そこからはもうなんでもありだった。勇ましく『英雄ポロネーズ』が流れれば鎮めるように『戦場のメリークリスマス』が静謐に流れ、ラフマニノフの『ピアノ協奏曲第二番』が雄大な調べを奏でれば『My Heart Will Go On』がタイタニックに氷山でもぶつける勢いで高らかに音を鳴らす。それにスーパーマリオのBGMがテレッテッテテッテーテンッとジャンプでかわすような音を跳ねさせると、逃げるマリオを追い掛けるようにルパン三世のテーマが流れ、それを引き離すように『Don’t Stop Me Now』が華氏二百度の勢いで
彼は楽しそうにわたしは意地に、自由なんて呼ぶのもおこがましいお互いの技術と発想の独創を試すような挑発的な技巧と選曲の応酬によるカオス。クラシックにジャズ、ポップスにアニソン、さらにはボカロにゲーム音楽に果ては童謡までなんでも入り混じった、およそクラシックのピアニストとしてまっとうとも思えないふざけきった演奏の連続。
わたしはただただ追い掛けていた。彼の奔放な演奏に引き離されないように、追い掛けて追い掛けて必死に喰らいついた。負けたくない、負けられないと指を走らせ続けた。
けれど――追い掛けながら気づいているのだ。彼がこの演奏を少しでも長く続けるために、わたしを置き去りにしてしまわないように気遣いながらピアノを弾いていることを。追い掛ければ追い掛けるほどに彼の手のひらの上で走らされている感覚が生々しくわたしを襲い、その事実がわたしの心を苛んでいくのだ。
見える――けれど遠い背中――。
気が付けばラカンパネラが聴こえていた。
走るのに疲れ切ったわたしの耳にゆったりとしたテンポで穏やかに彼の弾く
晩鐘のようなラカンパネラだった。名残惜しげに一音一音を長く弾く彼の指は、日没を見送る鐘のような哀切の音色を奏でる。
わたしはその音色に夕暮れの丘に独り立つ彼の背中を見ていた。斜陽に影を長く引く彼の背中は晩鐘とともにこのまま見えなくなってしまうように思えた。
けれど最後にその背中が振り返る。
高く空を朱に染めて、一日の終わりを告げる夕陽の残照が地平を燃やすような鮮やかさで赤く焼ける。
そこで彼は叫ぶような激しい音色で踊る。
それはわたしを呼ぶ声だった。
最後の一音にわたしと肩を並べたいと、わたしを招く誘引の音が差し伸べられる。
指が走った。
ラカンパネラの最終小節へ向かう。
夕暮れの丘で踊る二人の指は、世界を燃やし尽くす勢いで赤く響きながら駆け走る。
そこに聴こえる音は歓喜。
――そして日没の終音。
余韻とともにあの丘の景色も消えた部屋の中で、わたしと彼の息遣いだけが残る。
わたしの疲労に漏れる吐息とは対照的に、彼は興奮冷めやらぬといった鼻息でわたしを見やり、そして感動にキラキラと瞳を輝かせる幼児のような、とびきりに底抜けの無邪気な笑顔でこう言うのだ。
「楽しかった」
――ああ、本当に憎らしい――
だから、わたしの半生は彼への嫉妬がすべてだった。
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