あのラカンパネラは遼遠に

ラーさん

第1話 春の鐘

 ――春に降る雨のしずくが音楽を奏でれば、このような演奏をするのだろうか。


 フランツ・リスト『パガニーニによる大練習曲第三番ラカンパネラ』――この曲を弾く彼の指が鍵盤の上をなめらかに走る。

 最初は弱く静かに助走のような軽快さで流れる彼の指は、春の雨のやわらかさでしっとりとした音を奏でる。聴く者の耳を導くような優しい調べは、しかし徐々に力強さを増してひとつひとつの雨粒がそれぞれに鈴鐘すずがねを鳴らして曲を奏でているような音に変わり、その澄み切った音の雨の中へと聴衆を呑み込んでいく。

 彼がピアノを弾けば、そこが世界の中心だった。

 そこに聴こえるのは視覚も忘れる旋律。耳に聴こえるものがすべての世界。聴衆は彼の音に身を委ね、彼の音に世界を見る。

 転調。

 そこで聴衆はわずかに雨が止み、そこに陽が射した音を聴く。あたたかさに誘われて巣穴から顔を出したウサギが喜び跳ねるような音が、雨上がりの森の雨露あまつゆに輝く陽光のまばゆさで耳をなで、森閑しんかんに木々の梢をさやかに揺らす風鳴りのような音が、雨にしめる空気を払う涼風すずかぜの心地よさで耳に触れる。

 けれど風音が遠ざかるとともに再び雨が降り始める。しとやかな雨の音色に戻った演奏は、雨宿りに降り止む時を待ち侘びるように地面に跳ね踊る雨滴あめしずくたちのワルツを奏でていく。

 一拍。

 そこに鐘の音が聴こえてくる。踊る雨粒たちと鐘の音が混ざり合い、やがて高鳴る鐘の響きが雨音を退けて聴衆の耳を光へと導くように満たしていく。

 その先に聴こえるのは光の残響のような音。その音色が続く中で雲の上に踊るように軽やかに鍵盤を跳ねる彼の指は徐々に速く、力強く、光り輝くように勢いを増していく。

 音が走る。

 鳴り響く光のような鐘の音が走り抜けた先から、音が解き放たれたかのように溢れ出る。火花を散らすように加速し続ける音の奔流に聴こえるのは、祝祭の如き純粋な歓喜の調べであり、澄み切った自由の響きであり、より遠く、より高くへと天上の遥かに向かって羽ばたく翼のような音であり――、

 そしてその音の頂きにまばゆく輝く光の一音が聴こえ――――音が絶えた。


 ――万雷の拍手。

 

 聴衆の満場の喝采がピアノに座る一人の男――彼へと降り注ぐ。

 立ち上がった彼はこのコンサート会場を埋め尽くす称賛の拍手にむけて一礼をし、そして顔を上げて満面の笑顔で手を振って聴衆の歓喜に応えた。

 わたしはその姿を見て、握り締める手の力を強くしながら思った。


 ――ああ、憎らしい――

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