第8話 黒いコートの男

 意味ありげに登場しながらどこかに消えてしまう黒いコートの男についても、下書き(これは書かれた時期が早い「先駆形A」のほう)には「きっと本部のどの建物かにはいったのだ あたりまえだが少しさびしい」と書いています(「本部」は小岩井農場の「本部」)。これが発表されたヴァージョンではただ「どの建物かにまがって行った」になっていて、それに対して主人公がどう思ったかが削られている。わざと目立たない退場のしかたに変えたのです。

 そのかわり、冬に来たときに後ろから来た、同じように黒いコートを着た男については、その男が心細そうに「本部へはこれでいいんですか」ときいたのに対して主人公が「ぶっきら棒」に答えて、それで相手を傷つけたのではないかと気にしている場面が追加されています。

 下書きでは、この黒いコートの男を傷つけたという描写がないかわりに、主人公は「堀籠ほりごめさん」に対してデリカシーを欠いた言いかたをして相手を傷つけてしまった、と気にし続けている。「堀籠さん」の登場シーンをすべてカットしたかわりに、黒いコートの男にその役割の一部分を割り振っているのです。

 したがって、黒いコート(オーヴァ)の男が意味ありげに登場したのにあっさり消えてしまうのも意図的な描写なのです。


 黒いコートの男は主人公自身の分身といわれています。

 この詩を思いついた日、小岩井農場で賢治はほんとうに黒いコートの男と出会ったのでしょうし、冬にも同じようにインバネスコートを着た男に会ったのでしょう。

 しかし「一本みちを行くときに ごくありふれたことなのだ」とも書いています。

 黒いコートを着た男が後ろをついて来て、黙って自分を観察している。

 ホラーっぽい。

 ほんとうは観察していないかも知れないけど、主人公は「観察されている」という意識をもっている。

 しかし、「心象スケッチ」をスケッチしながら歩いているのですから、主人公を観察しているのはほんとうは主人公自身なのです。

 「だれかに観察されている」という意識を、主人公は「黒いコートの男が自分を見ている」と視点を転換して意識しているのです。

 視点が瞬時に転換される。これはこの詩(「心象スケッチ」)のほかの部分にもあります。たとえば、鳥がいっぱいいるのはここが禁猟区だからだろうか、と考えた瞬間に、鳥から「禁猟区のためでない ぎゅっくぎゅっく」と返事が届く。

 この黒いコートの男に気づくのも、ひばりを見て、その視点が転換されたときでした。

 いま空へ昇っていったひばりについて、主人公は、「はね」が四枚あるとか、「そらのひかり」をのみこんで「光波こうは」に溺れているとか幻想をめぐらせています。

 そこで、ふと、遠くに、「背景」のようにもっとたくさんいるひばりのことを考える。

 そうすると、その「背景」のひばりたちからは、主人公の近くで飛んでいるひばりが「ひどく勇敢に見える」。

 遠くのひばりが近くのひばりを見るように、自分もだれかに観察されているのではないだろうか?

 遠くのひばりが主人公の近くのひばりを見る、その視点を意識したときに、主人公は自分の後ろの黒いコートの男に気づくのです。


 この詩(「心象スケッチ」)にかぎらず、この詩集(「心象スケッチ」集)『春と修羅』には「たよりない」ということばがキーワードのように何度も出て来ます(新潮文庫の『新編宮沢賢治詩集』の天沢退二郎さんの解説によります)。

 そのたよりなさはどこから来るか?

 根源的な存在の不安とか、賢治が進行していた仏教の世界観の影響とか、いろいろあるのだろうと思うのですが。

 その一つは、たぶん確実に、「自分で自分を観察している」、「観察してスケッチしている」ということから来ています。

 自分は観察されている自分なのか、観察している自分なのか?

 「観察している自分」に視点を移す。そして、ふと気づいたとき、「観察している自分」は、自分ではなく、「いつも自分の見えないところにいて自分を観察しているひと」になっている。

 その危うさ、不気味さ、何とはない恐ろしさというのを表現したのがこの「黒いコート(オーヴァ)」の男だ、ということができるでしょう。

 そして、その「自分」の存在の感覚の「たよりなさ」という意識につながっているのだろうと思います。

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宮沢賢治の詩「小岩井農場」から百年 清瀬 六朗 @r_kiyose

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