第7話 二つの「パート」が消えたことの効果

 このパート五とパート六が省略されたことで、「あらすじ」は大きく変わってきます。

 いちばん大きな変化は、その堀籠さんというひととの関係に主人公がずいぶん悩んでいるということがまるきり消えてしまったことです。

 主人公が心に何か抱えていることは、「パート九」の最後、宗教とか恋愛とか性慾とかについて考えているところでわかるけれど、具体的に何に悩んでいるかはわからない。また、「何かを心に抱えている」までは察しがつくけれど、「悩んでいる」ということ自体もはっきりしなくなっています。

 もうひとつ、この「パート五」で主人公は農婦(女のひと)の集団に出会うのですが、それが消えています。

 そうすると、ほかの部分がすこしも変わっていなかったとしても、読んだ印象には大きな変化が起こります。


 下書きの「パート五」に出て来る「農婦」については、背の高さや着ているものの描写はありますが、年齢がわかる叙述はありません。

 ところが、「パート七」に出て来る二人の女は少女です。その一人を主人公はMiss Robinと名づけています。そして、みの)をまとって枯れ草のうえで寝たり、起き上がったりと、無防備な姿を見せている。整然とした農婦の列は消えて、いきなりこの若い女の子たちが登場するわけです。

 そのあと、主人公は、恋愛とか性慾とかのことを考えるわけですから、読むほうは、主人公がずっと心に抱いて考え続けているのは「女の子を好きになること」なんだな、と考えてしまう。

 性的魅力に惹かれるのはごまかしであり、堕落形態だと思っていても、魅力を感じてしまうのはどうしようもない。それを拒否して、自分は寂しくないとか思ってみても、すぐに寂しくなるのは最初からわかっている。そういうのをわかったうえでまっすぐに起つんだ、ということを決意する。

 そういう流れに読めてしまう。

 「職場の人間関係で悩んでます」とは読めない。


 つまり、けっして「素材が並んでいるだけ」ではないのです。

 多少、「叙述トリック」的ではありますが、「パート五」と「パート六」を抜いたらどう読まれるか、ということをわかったうえで、賢治はこの「心象スケッチ」を構成しています。

 「近代文学としての構成」とは違っているにしても、賢治はきちんと意図をもって構成して「心象スケッチ」を作っているわけです。

 どこまでフィクションなのかはわかりません。

 もしかすると、職場での堀籠さんとの関係に悩みながら「女の子を好きになること」についても悩んでいたのかも知れないし、そうではないのかも知れません。

 賢治の書く詩(「心象スケッチ」を含む)の傾向からすると、たぶん書いていることは実際にあったことなのでしょう。だから、実際に「女の子を好きになること」についても悩んでいたのだろうとは思いますが。

 ともかく、けっして、素材としての「スケッチ」を描いてそのまま投げ出しているわけでないことはたしかです。


 しかも、発表されたヴァージョンにも「パート五 パート六」というタイトルだけは残しているので、「この間に何かあったらしい」ということが想像できる仕組みになっています。

 なお、「パート八」は、早い時期の下書きである「先駆形A」の原稿にもそれにあたる部分がまったく存在していません。「先駆形A」は「パート」に分かれていないので、「パート八」にあたる部分があれば、「パート七」と「パート九」のあいだにその内容が書かれているはずなのに、「パート七」の内容からすぐに「パート九」の内容に飛んでいます。


 全体に、途中に消した部分があるのになぜ番号を繰り上げなかったのか。

 その問題は、あとでまた採り上げようと思います。

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