第6話 消された二つのパート

 「心象スケッチ」は、近代文学の「未完成品」ではないか、「素材」をそのまま提示しただけのものではないか。

 そういう意見に対して、もうひとつ指摘できることは、この作品は作品として完成されている、ということです。

 つまり、「素材」そのもののままではない。

 このことについては、文庫版全集(『宮沢賢治全集 第1巻』、ちくま文庫)の解説に入沢いりさわ康夫やすおさんが、熱のこもった筆致で書いておられます。


 この「小岩井農場」には、「あらすじ」のところに書いたように、「パート五」と「パート六」の本文がありません。

 ところが、「小岩井農場」については下書きが残っていて、文庫版全集には二種類の下書きが収録されています。

 とくに、そのうち一種(文庫版全集の「小岩井農場 先駆形B」)は、完成版に採用されなかった部分が残っているらしく、「パート四」の末尾から「パート七」の冒頭があります。


 パート四の最後の部分では、自分が見ているのが幻想かどうかを考える一段があります。

 この部分は、発表されたヴァージョンでは、幻想かどうかはもはや問題にならない、陽気な、そう的な雰囲気のまま終わっています。

 パート五とパート六の内容はつぎのとおりです。


 【パート五】(「第五綴」とあります)

 主人公が鞍掛くらかけ山について考えたのがきっかけになり、主人公が仕事場をしている学校で、堀籠さん(読みは「ほりごめ」?)というひととの行き違いのことをあれこれ思い出す。主人公が鞍掛山について堀籠さんに言ったことばがその行き違いの原因だと考えたからだ。

 それで、一度は、ここから引き返して、まだ学校にいるはずの堀籠さんに会おうと思う。しかし、また考え直して、引き返すのをやめることにする。農婦が端正な列を作ってやって来るので、主人公が時刻をきくと、そのみんながいっせいに答える。育牛部というところまで行くが、そこはしんとしずまりかえっている。


 【パート六】(「第六綴」)

 パート六でも主人公は進もうかどうしようかと迷っている。自分の進んでいる道が地図とも記憶とも違っている。どうも道をまちがったらしい。そのまま行くと犬に吠えられる。犬が苦手らしい主人公は気が進まない。そこに雨が降ってきて、引き返すことにする。引き返す以上は、その堀籠さんのいる職場に早く戻ろうと考える。


 パート七は、農夫が登場するところで広重ひろしげの浮世絵を思い出す、という描写があります。その後は残っていないので、そこから発表されたヴァージョンに続いていたのでしょう。


 発表されたヴァージョンでは、いつ雨が降り出したかもわからない。それに帰りの汽車の時間をきく理由もよくわからない。鞍掛山のほうまで行くと言っていたのに、駅に戻ることばかり気にしている理由もわかりません。パート四が終わったところでは、幻想を感じながら太陽の明るさにあふれた春を喜んでいたはずなのに、次のパート七ではもう雨が降り出して憂鬱ゆううつな雰囲気につつまれています。


 身体的に疲れていくと、発想がどんどんネガティブになって行く。ふだんは気にならないことが気になり始めてたまらなくなる。消された「パート五」と「パート六」では、そういう過程が、これも手に取るように描写されています。

 ……ということがなぜわかるかというと、私もとくに最近そうなりがちだからで。

 気をつけよう!

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