第5話 「心象スケッチ」という方法(2)
ひとつは、「近代文学として完成した作品」は、「近代文学としては未完成品」よりも何か偉いのか、ということです。
「近代文学」なんてひとつの文学の形式に過ぎない。その、ひとつの文学の形式から見て「未完成品」でしかないからといって、それは作品としての評価を低くしなければならない要素なのか。
私は、ここで、逆に、「近代文学」なんてつまらない、と言っているわけではありません。「近代文学」がその形式を確立したのにはそれだけの事情があったわけですし、「近代文学」にもよい作品はたくさんあります。
ただ、この作品について、「近代文学」的には完成度が低いとしても、それは作品の価値が低いことになるのか、ということです。
これは宮沢賢治の作品全体に言えることです。
賢治が、児童文学雑誌『赤い鳥』に「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」という童話を寄稿して、ボツにされた、というエピソードがあります。
「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」には、いちおう「あらすじ」はあるものの、はっきりした起承転結があるわけでもなく、子どもたちへの教訓があるわけでもありません。そんな物語を読んで、『赤い鳥』の鈴木
賢治が寄稿した童話は、日本の近代文学の「童話」としては完成度の低いものだった。
でも、どうでしょう?
たしかに「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」は今日でも読まれることの多い作品とは言えません。
しかし、賢治は、「銀河鉄道の夜」や「風の又三郎」などの有名な童話でも、「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」から根本的に「童話の書きかた」を変化させるということはしていません。
賢治先生、ボツにされてもこたえてないな?
……というわけでもなく、たとえば、晩年になってやはり児童文学雑誌に投稿した「グスコーブドリの伝記」は、最初の部分に結びが呼応するという、「近代文学」的に読みやすい物語として書かれています。これは、物語の内容上、そういう構成になっているという「内的な理由」があるわけですが、同時に、児童文学雑誌に投稿するならばそういう構成はとったほうがいい、と意識した結果なのかも知れません。しかし、賢治は、そうなっていない童話もたくさん残しています。
「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」も、ホロタイタネリという子どもが一日に体験したこと、言ったこと、やったこと、思ったことを追いかけて記録したものです。いわばタネリという子の「心象スケッチ」だと言ってもいい面があります。
これは、じつは「銀河鉄道の夜」でも「風の又三郎」でも同じです。「銀河鉄道の夜」は、ジョバンニがひと晩に体験したことを、その夢も含めて順番に書き記したもの、ということもできますし、「風の又三郎」も、風変わりな転校生が来て去って行くまでの学校の子どもたちが体験したことを順番に書き記したものということができます。
近代文学には「テーマ」というものがあることになっています。「生」を「写」すことで得た素材を「テーマ」に沿って並べることで作品ができあがる、というのが近代文学の方法だと思います。
「テーマ」という面からいえば「銀河鉄道の夜」の物語も「ほんとうの幸いとは何か?」というテーマで読むことができます。しかし、読むときに、そういうテーマを扱った作品だ、という思いが強すぎれば、「銀河鉄道の夜」の魅力の大半は読み逃してしまうことになると思います。
賢治の作品は「近代文学」のセオリーに収まらないところがあります。そして、「近代文学」に収まっていないところにこそ、賢治作品の根本的なおもしろさがあるのだと、私は思っています。
じっさい、「あらすじ」を整理してみるととりとめもない印象が強い「小岩井農場」も、読んでみればおもしろい。少なくとも「あらすじ」を追うよりはずっとおもしろい。
鳥が「ぎゅっくぎゅっく」と鳴いたり、うぐいすが「ごろごろ」鳴いたり。
「いやうぐいすは「ごろごろ」は鳴かないんじゃない?」と思うと、そのあとに「ほんとうの
「馬車のラッパがきこえてくれば ここがいっぺんにスイッツルになる」(「スイッツル」はスイスのこと)という場面転換が鮮やかだったり。
でも、こういう紹介のしかたをすれば「じゃあ、賢治の「心象スケッチ」というのは、全体の構成はなっていないけれど、ディテールはおもしろい、と、そういうことだな」と理解されてしまうかも知れません。
たしかにそういう面もあるのですけど。
でも、賢治の作品が「全体」として雑で何の構成もなくて何のテーマもなくて……と読むのも、賢治作品の読みかたとしていいとは私は思いません。そう読めば、やっぱり「おいしいところ」を逃してしまうように思うのです。
むしろ、賢治は、「心象スケッチ」にしても、「心象スケッチ」的要素のある童話にしても、もっと大きな「全体」を描くことを意図している。成功しているかどうかはまた別として、そういう意図があった、ということは言えると思うのです。
*「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/4600_11971.html
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