第4話 「心象スケッチ」という方法(1)
さて。
どうでしょう?
まず。
長い。
「概要」だけでこれだけの分量だから、もとの詩はもっと長い。
あと、とりとめない。
もちろん、詩なので、「あらすじ」を抜き書きしたらその味わいの大部分は消えてしまう。その結果、何かとりとめもないことが並んでいるだけだなぁ、と感じられてしまうということはあるでしょう。
それでも、たとえば、知り合いによく似たひとが乗った馬車や黒いオーバーの男は、最初のほうではずっと気にしているのに、その関心は途中で消えてしまって、後半には出て来ません。
これは、とりあえずは、この詩が「心象スケッチ」という方法で書かれているということと関係があります。
いや、賢治自身は、この方法で書かれた詩のことを「詩」と呼ばれるのを嫌い、「これは詩ではなくて心象スケッチという別のものだ」と強く主張していました。
心象スケッチというのは、自分の心に浮かんだものを、瞬間ごとにスケッチして行った記録、と言えばいいのでしょうか?
つまり、心に浮かんだもののスケッチを連続させて成立したものです。
だから、途中で心に浮かばなくなったものは消えてしまうし、突然まったく違うものを思い浮かべればそれがいきなり出て来る。唐突に昔のことを思い出せば回想モードに入るし、幻想を思い浮かべればその幻想を書き記す。その結果として「とりとめもない」という印象がある。
とりあえず、そう言っておけばいいのかな、と思います。
でも、一面では、近代文学というのはどれも「写生」から始まる。正岡子規の「写生」論の影響の強い俳句はもちろんそうですし、詩・短歌にしても小説にしても、自分の「生」のなかで感じたことを「写」すところから始める。
そして、近代文学は、その「生」を「写」したものを整理することで成立するわけです。俳句のばあいには、「生」のなかで感じたことを、原則として「十七字」の音数で表現しなければいけない。小説だって「生」のなかで感じたことを物語として成り立つようにまとめなければならない。
つまり「写生」は近代文学の素材の見出しかたであって、それを加工しなければ文学にならない。
それに対して、「心象スケッチ」は、その「写生」の結果を、「心象」の移ろいのままに提示したものであって、加工していない。だから、とりとめのないものごとが雑然としたままにただ長く並べられている。
それは、近代文学としては「未完成品」に過ぎない。または、それを「素材」のまま提示しただけのものなのではないか。
こういう言いかたに対して、ふた通りのことが指摘できると思います。
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