【番外編③】一ノ瀬の初恋

「一ノ瀬くん」 


 自分の名前を呼ぶ声につられて一ノ瀬は唇を離した。顔をあげると、ブレザーを着た彼女が不満そうな顔で唇を尖らせている。その目にはどこか咎めるような色があって、一ノ瀬は怪訝な面持ちで彼女を見つめた。


「……どうした?」

「一ノ瀬くんってさ、私のこと好きじゃないでしょ」


 じわじわとセミの声が聞こえる。少しだけ日の落ちた誰もいない教室で、誰かの机の上に腰かけた彼女が不満そうな顔で足を組み替えた。

 一ノ瀬も机についた両手を離して身を起こす。


「好きだから付き合っていると思うんだが、違うのか」

「だって一ノ瀬くん、いつも受け身じゃん。今だって私がキスしてって言ったからしてくれたようなもんだし」

「受け身……? キスをしたのは俺からだと思うが」

「そうじゃなくて!」


 ガタン、と音を立てて彼女が机から飛び降りる。背が高く体格の良い一ノ瀬から見ると小柄な彼女がうらめしそうな顔で見上げるように睨みつけてくる。


「一ノ瀬くんはさ、私がキスしてほしい時しかしてくれないじゃん。別に言わなくてもしてくれる時はあるけどさ、それも私がしてほしいなって思ってるのを察してくれてるわけでしょ? えっちする時も私を喜ばせようとしてくれるのはわかるけど、私がそうしてほしいからやってるだけにしか見えないし」

「ごめん。言っている意味がよくわからない。でもそういうことだって、好きという感情がないとできないはずじゃないのか」

「違う違う、もう違うんだってば!」

 否定する彼女の声に湿っぽいものが交じる。

「一ノ瀬くんから私にキスしたいって思ったことないでしょ? 私のことがたまらなく好きで、自分の感情をぶつけたいって思ったことなんてないでしょ⁉ 一ノ瀬くんはね、多分私のことは好きだとしても、私に恋はしてないの」

「よくわからないけど、ごめん。君を悲しませてるなら謝る」

「……そういうところだよ」


 彼女は諦めたようにため息をつくと、机の下に置いてある通学カバンを背負った。


「一ノ瀬くんも恋をしたらわかるよ」


 そう言って教室を出ていく小柄な後ろ姿を、一ノ瀬は黙って見守るしかなかった。





「なるほどね~恋か」


 夏服を雑に着崩した同級生がポツリと呟いた。夏休みの休暇が終わり、九月になったというのにいまだ残暑は制服のシャツを汗で濡らす。

 高校の前の大通りは昼食時のためか大勢の人でごった返していた。弁当屋のへの道を急ぎながら同級生がやれやれと肩をすくめる。


「学年一の美人にそんなことを言わせているお前がすげぇよ」

「俺はそんなに変なことを言ったのか」

「変じゃねぇけど、彼女が言ってることはわかる」


 隣を歩く同級生がため息をつきながらこちらを見る。


「お前、自分から告ったことねーだろ」

「どうだろう……言われてみればそうかもしれない。でも、それがどうしたんだ」

「だから、そこを指摘されたんだって言ってんだよ。自分から誰かを好きになって、苦しくなって心がぐちゃぐちゃになったことなんてないんだろ? 好きでたまらなくなって思わず自分のものにしたくなったりとか。前野は、お前にそうなって欲しいんだよ」

「確かにそんな気持ちになったことはないが、好きだと思ったから付き合っているんだ。そうならないといけないのか?」

「はぁ。これだからモテ男はしょうがねぇな。普通のやつは、前野と付き合ってたら常に一緒にいたいしキスもハグもセックスもしたいんだよ」


 あけすけな彼の言い分に眉をひそめながら、一ノ瀬は黙って自分の感情を反芻した。もちろん自分だって彼女のことは好きだし、可愛いと思っている。健康的な男子高校生らしく性欲だってないわけではない。それでも確かに彼女に対して衝動的な感情を抱いたことはなかった。

 触れてほしそうに甘えてくるからキスをして、その先を望んでいるようだったらベッドに転がり込む。それだって自分がそうしてもいいと思えるからしているわけなのに、どこに不満があるのか全く理解ができない。一緒にいて楽しいのなら、それでいいのではないか。


「あ、まーたいるよあの子、毎日すげえな」


 同級生の呆れた声に、一ノ瀬は思考の海から現実に戻る。彼が指差すほうを見ると、道路に面したベンチに座っている二人の人影が見えた。一人は五歳くらいの小柄な男の子で、その隣に座っている子はもう少し大きい。紺色のセーラー服を着ているところを見るに、中学生くらいだろうか。


「あの子がどうかしたのか?」

「あっちの小さい男の子のことは知ってるか? 母親があそこの病院に入院しているらしくて、毎日あそこのベンチに座って母親がリハビリに出てくるのを待ってるんだよ。んで、隣の中学生は二日前からあの子に付き合っている知らない子」

「待て、どういう意味だ?」


 状況が把握できない一ノ瀬が声を上げる。

同級生から聞いた話をまとめるとこうだ。

 


 ベンチに座り続けている小さな男の子は病院の近くでパン屋を営んでいる夫婦の子供だ。普段は明るく元気な男の子なのだが、一ヶ月前に母親が病気で入院してからすっかり気落ちしてしまったらしい。毎日病院の前のベンチに座って母親の帰りを待ち続けている男の子を見て、はじめは哀れに思った近所の大人が構ってくれたりしていたらしいのだが、最近では悲しそうな顔をして通り過ぎるだけになってしまった。パン屋からベンチが見えるので放っておいても大丈夫だろうという気持ちもあるのだろう。

 そこからずっと、彼は母親がリハビリで病院の庭に出る夕方まで毎日寂しくベンチに座っているのだという。

 だが、二日前に突然どこからかやってきた中学生の女の子が男の子の相手をするようになったらしい。この周辺では見かけない制服ゆえに、どこか遠くからやってきた子なのではないかという話だった。


「最近どっかの中学校が修学旅行に来てるらしくてさ、同じ制服の子をチラホラ見かけるんだよ。だから多分あの子も修学旅行で来てるんだと思う。せっかく来てるのにあんなところで時間を潰してるなんてバカだよなー」


 同級生がヒソヒソと一ノ瀬に耳打ちをする。だが一ノ瀬はそうは思わなかった。理由はわからないが、その話を聞いてからなぜか彼女のことが気になって仕方ない。

 歩いていくうちに二人が座っているベンチに近づいていく。二人が仲良く話す声が聞こえてきた。だが胸のうちに宿る感情の正体がわからない一ノ瀬は、横目で彼らを一瞥すると黙って素通りしていった。



 

 部活を終えた一ノ瀬は高校の門を出て帰路についていた。まだまだ残暑の厳しい九月は夕暮れになっても気温が一向に下がる気配がない。いつもならさっさと家に帰るところなのだが、昼時に聞いた同級生の話が妙に頭の中に残っていた。

 なんとはなしに病院の側を通ると、もう夕暮れだというのに先程の女の子はまだベンチに座っていた。男の子の隣に座り、手を叩きながら何事か話している。一ノ瀬は立ち止まってじっと彼女を見つめた。

 肩で切りそろえられたボブヘアにクリクリの大きな瞳。化粧っ気があるわけではないが、クラスにいたら数人の男の子が噂をしそうなほどには愛らしい女の子だ。だが一ノ瀬の気を引いたのは彼女の容姿ではなかった。


(こんなに長時間あの子に付き合っているのか……周りたい場所もたくさんあるだろうに)


 せっかくの修学旅行の時間を男の子のために使ってあげるとはなんと優しい女の子なんだろう。なんとなく居ても立っても居られなくなった一ノ瀬は、近くの自動販売機でジュースを二本買うと、はやる気持ちを抑えながらベンチに近づいていった。


 近くにいくにつれて可愛らしい歌声が聞こえてきた。歌っているのは童謡だ。女の子は手をたたきながら男の子のために歌を歌ってあげている。男の子も楽しそうに笑いながら彼女を真似て手を叩いていた。


「じゃあ次は、かえるのうたを歌おうか。一二の三で歌うよ。いちにーの……ってどうかしましたか?」


 急に話しかけられて一ノ瀬はドキリとした。見ると女の子が不思議そうな顔で自分を見ている。いつの間にかジュースを持ったままベンチの近くまで来ていたようだ。なんとなく気恥ずかしくなりながらも、一ノ瀬は缶を二人に差し出した。


「いや、さっきからずっといるからなんとなく気になって……よかったらこれ、どうぞ」

「わ! いいんですか? 嬉しい、ありがとうございます」


 女の子が目を輝かせながらジュースを受け取り、プシュッとプルタブを開ける。たくさん歌って喉が乾いているだろうに、まっさきにそれを隣にいる男の子に手渡してあげているのを見て一ノ瀬の胸がほんのりと熱くなった。


「君は……このあたりの中学校の子ではないよな? 修学旅行で来ているのか」

「あ、はい。二日前から来ていて、明日帰るんです」

「そんな大事な時間をここで使っていていいのか? せっかく来たのだから、いろいろと見たいものもあるんじゃないのか」

「そうですね、見たいものも買いたいものもたくさんあるんですけど、でもこの子を見たらなんだかほっておけなくなっちゃって。観光はまた大人になってからも来られるなって思ったら、この子の側にいてあげる方がいいなって思ったんです」


 ニコニコと答える彼女からは微塵の後悔も感じられない。男の子を見守る優しい目を見て、一ノ瀬の胸がドキリと鳴った。


 ──もっとこの子のことを知りたい。


 そんな願望が衝動的に胸に湧き上がった。名前はなんて言うのか。どこに住んでいるのか。好きなものは何か。どういうものに喜び、どういうものに心を突き動かされるのか。 

 彼女の横顔を見つめるうちに、胸のうちに宿る秘めた感情の正体を一ノ瀬は唐突に理解した。


(そうか……これが好きになるということなのか)


 私のことを好きじゃないでしょと恋人に言われた理由。恋をすればわかるよと言われたもの。今なら前野が言っていた意味がわかる。これまでにも何度か女の子との交際経験はあったが、どれも一ノ瀬にとって本当の意味での恋ではなかったのだ。

 そう意識した瞬間、唐突に彼女に触れたくなった。ベンチについた小さな手を握ったらこの子はびっくりしてしまうだろうか。それでもいい。この大きな瞳に自分の姿を映してほしいと思った。

 だがその前に女の子が「あ!」と声をあげて前方を指差す。つられて顔をあげると、病院の入口から松葉杖をついた女性がこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。女の子が嬉しそうな顔で男の子の手を握る。


「よかったね、お母さん来たよ。ほら、行ってきな」

「うん! お姉ちゃんありがとう!」

「明日からはもう来られないけど、でもさっき教えたみたいに時計の針が五に来たらお母さんが来てくれるからね。明日からは五になる前まではおうちで待っているんだよ」

「うん、わかった! 約束する!」


 そう言いながら男の子が駆け足で母親のもとへ走っていく。小さな背中を見届けると同時に女の子がベンチから立ち上がった。


「じゃあ私は行きますね。優しいお兄さん、ジュースをありがとうございました。またどこかで会えたらいいですね」

「あ……ああ、そうだな」


 咄嗟に連絡先を聞こうと制服のポケットに手を入れる。だが自分には交際している相手がいることを思い出し、一ノ瀬はそっとポケットから手を抜いた。


「またいつか……どこかで」


 優しく笑いながら返事をすると、女の子が嬉しそうに頷く。そのまま彼女はカバンを持って駆け足でどこかへ行ってしまった。


 雑踏の中に消えていく背中を見つめながら、一ノ瀬は前野と別れることを心に決めた。彼女のことを本当の意味で好きではないと気づいてしまったからにはこのまま付き合い続けることはできない。きっと前野は泣くだろうけど、不誠実な心で交際を続ける方がよっぽど彼女を傷つける。

 誰かのために一生懸命になれる子は自分のことを顧みない子が多い。でもきっと自分はそういう優しい子が好きなのだ。将来警察官になることが決まっている自分がこの手で守りたいと思うのは、そういう誰かのために頑張れる人なのだ。

 またいつか彼女と会う日までに、大切な人を守れる強さを持った男になりたいと、一ノ瀬はそう強く思った。













「おかえりー! あかり、結局あの男の子とずっと一緒にいてあげたの? 修学旅行楽しめなかったんじゃない?」

「うん、ごめんごめん。ちょっといろいろあってさ。でもとっても楽しかったよ」

「はぁ。なんでそこでバカ正直に子供の相手しちゃうかなぁ。そこで恋の一つや二つしてくればいいものを、まったく生真面目なんだから! はい、アンタの分のお土産買っておいたよ」

「えっほんと? 嬉しい……って何これ! パーティーにつけていく用の仮面じゃないの! これそこらへんの百円ショップで買ったやつでしょ! こんなのどこでも買えるやつじゃない!」

「へへ、ごめんごめん。本物はこっち。ちゃんと買ってあるから安心して。あかりのは私とオソロにしておいたからさ」 

「あっこれ私が買おうと思ってたやつ! ありがとうちーちゃん!」


 きゃあきゃあ笑い合いながら歩くセーラー服の女の子たちの笑い声が澄んだ空に溶けていく。


 のちに夫婦になる二人がこのことを知るのはもう少し先の話。

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放課後の女怪盗 結月 花 @hana_usagi

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