栄信の涙 その3

 栄雪は、行信と起工式までの掛かりの精算を始めた。

 「栄雪様、志賀孝衛門様しがこうえもんさま宇土屋喜兵衛様うどやきへえさまのお陰で、出費が予想以上に大きく下回るほど少ないですね」

 行信が言う通り、最大の出費が、鍛冶場で使う砂鉄と玉鋼などの素材と薪炭などの燃料費が大半を占めているだけで、作業小屋の掛かりにしても、宇土屋喜兵衛は材料費相当の他、一切いっさいを受け取らなかった。

 「志賀様と言い、宇土屋様と言い、素空様のお人柄に感服されてのことでしょう」

行信が感慨深げに言うと、栄雪も大きく頷いた。

 栄雪はこれまでの費用の詳細がでると、栄信に伴われて瑞覚大師の部屋を訪ねていた。しかし、次回から瑞覚大師の部屋を直接訪ねる許可を頂いた。

 「このことは素空様にはお話ししています。素空様が守護神に専念できるようにと、お大師様が仰せで、栄雪には仲立ちになって欲しいのです。素空様の代理は言うまでもないことですが、勘定、調達に関して気に付いたことは何時、如何なることでもお大師様に相談することができます。よろしく願います」栄信から思いも掛けないことを告げられ、更に緊張の面持ちで勘定の精算を報告した。

 「ほほう、掛かりが思いのほか少ないのはどのようなことかね?」瑞覚大師は怪訝な面持ちで尋ねた。

 栄雪は緊張した顔に汗を浮かべて、志賀孝衛門と宇土屋の協力のお陰だと答えた。

 瑞覚大師は、志賀孝衛門の寄進も、宇土屋喜兵衛の小屋の掛かりも承知していたが、現在までの掛かりの殆んどが鍛冶場の掛かりと聞いて、拍子抜けした思いだった。

 栄雪の報告にはなかったが、これには素空の存在が関わっていることを、瑞覚大師は知っていた。『いやはや、素空の秘めた力には驚かされるばかりだよ…』

 「重畳、重畳!」瑞覚大師は上機嫌で栄雪を労った。

 栄雪が部屋を出て行ってから、瑞覚大師は、栄信に思いの内を明かした。

 「ところで栄信や、守護神の建立を巡ってわしの思いの内を知っておいて欲しいのじゃ」栄信は、何のことやらまったく予想できないうちに答えた。

 「はい、お大師様、どのようなことでしょうか?」

 瑞覚大師は秘めていたことを、思い切ってすべて話した。

 「わしは、素空が天安寺に来て3年の後に御仏のもとに参るのじゃよ」

 栄信は、耳から入った言葉で後頭部を殴打おうだされたような気分だった。

 素空と話をしていて、その気配を感じていたし、松石との話の中で、察しが付いていたことだった。しかし、今、直接瑞覚大師に切出されると、栄信の心は大きく動揺した。

 瑞覚大師は、栄信の動揺を尻目に更に語った。

 「わしの亡き後、東院を素空の師である玄空に託さねばならぬと思っているのだよ。玄空なら東院をまとめ上げ、導いてくれる筈じゃ」

 瑞覚大師は、栄信の顔をジッと見て悲しそうな顔をした。

 「お大師様、私のことでしたらどのようなことでもおっしゃって下さい」

 栄信の言葉に促されて、瑞覚大師が話を続けた。

 「栄信、そなたはわしの一番弟子いちばんでしであるよ。そなたは大きな徳を既に得ていて、僧としての素養も申し分ないのじゃが、わしはそなたを認めているがあまり、実に申し訳のないことをしていたことに気付いたのじゃ」

 「それは、どのようなことでしょうか?」栄信には見当が付いていた。瑞覚大師は背後の文机に祀られた薬師如来像を指差して話を続けた。

 「素空の薬師如来様には光背が輝いているのじゃよ。そなたには見えぬようじゃが、わしと素空、そして松石の3人には見えるのじゃ」

 「そのことなら、松石様から伺っています」

 「わしは、何故そなたに見えぬのか不思議じゃった。…近頃になってやっとその訳が解ったのじゃよ。それが、わしが命じた灯明番と言う尊い使命のせいじゃったとは、思い掛けないことであった。赦しておくれ」

 瑞覚大師の言葉を、栄信が即座に否定した。

 「いいえ、お大師様、そのことなら松石様が泊った日より存じていました。私に見えないのは、私の心がいやしいからなのです。勤めが尊いのであれば、私の心もそれに適うものでなければならないと思っています」栄信は肩を落として答えた。

 瑞覚大師は更に語った。

 「栄信や、来春には灯明番から引いておくれ。玄空が天安寺に参る時、代わって伊勢滝野の薬師寺に行って欲しいのじゃ。そなたには、わしの死に際して薬師如来の御降臨を見届けて欲しいのだよ。素空が彫り上げた薬師如来像は、既に金色の光背を現しているのじゃ。必ずや、わしの死に際して御仏のご降臨を得ることになるであろう。良いか栄信よ、よくよく申し伝えたぞ」

 栄信は神妙な顔で答えた。

 「もとより、お大師様の思いのままに如何なることも承る所存で励んで参りました」

 瑞覚大師はホッと息を吐き、笑みを浮かべた。「重畳、重畳!そなたには長年苦労を掛けてしもうた。赦しておくれ」

 栄信は涙した。自分に思いを寄せてくれる瑞覚大師の、死を背負っての願いだと言うことに涙したのだった。

 天安寺の夏は過ごしやすく、日中の強い陽射しを避けて部屋にいると快適だった。栄信は伊勢滝野の薬師寺行きを明かされてから、殆んどの時間を灯明番の詰め所で過ごしていた。

 栄信は、フッと栄雪のことを考え始めた。灯明番の次席で、弟のような存在だったが、自分の後を果たして遣り遂げてくれるだろうか?そのことを考えていた。

 今は素空のもとで、事務方として手腕を発揮しているようだが、果たして灯明番に復帰してすぐにそのおさになれるだろうか?

 『灯明番の長は、当番の割り振りや、特別な作業の動員など雑務の数が意外に多いのだ。栄雪にそこまでできるのか?』栄信は悩ましい日々を過ごすことになった。

 3日後、栄信はあれこれと考えるのを止めることにした。来春までには必ず良い後継者が現れるだろうと思い、仏師方の様子を見に行こうと思った。

 栄信は無意識のうちに、素空を求めていることに気付いてはいなかったが、素空の仕事場に行けば気分が変わるだろうと感じていた。

 『私に分からないことは、素空様が答えて下さるだろう』栄信は背筋を伸ばして、蝉時雨の中に姿を消した。        仏師素空天安寺編 上巻 終わり

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仏師素空 天安寺編(上) 晴海 芳洋 @harumihoyo112408yosi

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