栄信の涙 その2

 鍛冶場では仕事の合間に様々なことを語り合っていた。淡戒はよくしゃべる僧だったが、栄至と胡仁は輪を掛けて話し好きだった。当時、僧の修行場は『無言の行』が当然だったが、天安寺では僧達の繋がりを重んじ、『無言の個の行より、互恵、互助の修行』を常としていた。

 さすがに、ここぞと言う時には無言で仕事に打ち込んだが、それ以外は宿坊や大部屋での噂話や、老僧達の言葉を又聞きして披露した。

 特に、胡仁の人脈は広く、さしずめ天安寺の裏事情通と言ったところだ。

 「これは揚全様ようぜんさまから聞いたことなのですが、この場所はその昔、戦場いくさばだったそうで、寝泊まりする時は、怨霊おんりょうりつかれるかも知れないそうなのです」胡仁は声を潜めて2人に囁いた。

 「それはまことですか?これから忙しくなると、皆この小屋に寝泊まりせねばならないのですよね!」栄至は何とも心細い顔付で唾を飲み込んだ。

 「今でも火を落とせない時は明け方までここに泊まっているのに、薄気味悪いことです」胡仁は、自分が語った言葉で恐怖に固まった。

 淡戒が言った。「本当に薄気味悪いことですね。素空様に相談してみましょうか?私達が安心してお役目を果たせるよう、ご祈祷をしてもらうのです」

 淡戒は、暫らく考えて言った。

 「ご祈祷と言えば、西院のどなたでしょう…?回峰行かいほうぎょうを何度もしていらっしゃる阿門様あもんさまか、千日行せんにちぎょう法円様ほうえんさまでしょうか?護摩法要ごまほうよう厄払やくばらいはお手のものだと聞いています」

 栄至が言った。「こんな話をして、気味悪がっている私達は、小心者だと言うことでしょうか?見えないものにおびえ、ありもしない怨霊に恐れをなしているのでしょうか?」「栄至、そうではなく事実この世に怨霊や悪霊あくりょうは確かにいるようなのです」淡戒は2人にだけ聞こえるくらいの声で語った。

 「考えても見なさい。善なる人の魂が浄土じょうどされるのはご存じでしょうが、悪人の魂は地獄じごくに行くのです。そうなると善人でも悪人でもない人の魂はどこに行くでしょうか?…それは多くが黄泉よみの世界に行き、僅かながら現世を彷徨さまよう霊となり、あるものは骨や遺物に残ることになるのです。現世に残った霊が悪鬼悪霊に憑りつかれれば、怨みをあらわす怨霊になり、憑りつかれず、己の思いを持てば幽霊ゆうれいとなるそうなのです。どちらにしても怖いですねぇ。天安寺には守護神を祀っているので、易々と怨霊が近付けないでしょう」

 淡戒が語り終えた時、仕事場の隅に掛けていた竹箒たけぼうきくわが音を立てて土間に落ちた。3人は突然の物音にビックリ仰天した。栄至と胡仁は恐怖に引きって腰を抜かすほど驚いた。淡戒はかろうじて2人の前で面目を保ったが、不意に遣って来た栄信にギョッとして腰を抜かして驚いた。

 「3人ともどうしたのですか?」栄信はにこやかに言葉を掛けたが、3人は言葉がでずに答えることができなかった。3人が良からぬ相談をしていたと思い、優しく微笑んで落ち着くまで待つことにした。

 暫らくして淡戒が話し始めた。「栄信様、怨霊の話をしていたのです。すると突然あの隅の箒と鍬が土間に落ちてビックリしたところに、栄信様がおいでになったのです。きもつぶれるほど驚きました。これは子供の頃以来です」

 栄信は、3人の顔を交互に眺めながら言った。「これはこれは、まことに申し訳ありません。栄雪と話をしていたら、鍛冶方の3人を覗いてみたくなったのです。別に用があった訳ではないので、そっと覗いて帰るつもりだったのですが、怨霊の話とは…お暇なことですね」

 3人は先ほどの話をすべて伝えた。栄信は少し思案して言った。

 「怨霊ですか?確かに霊の存在はあるでしょうが、この辺りが戦場で怨霊がでるなどとは、にわかに信じがたいですね。織田様おださま比叡山ひえいざんを焼き討ちされたことはありましょうが、鳳来山ほうらいさんるいが及ぶことはなかったと聞いていますし、野盗や野伏せりの類がこのようなところに来たと言うことも聞きません。あなた方はからかわれたのではないでしょうか?老僧の中には若い僧をからかうお方もいるそうです。あなた方を肝試きもだめしなさったのでしょうか?何とも滑稽ではありませんか」

 3人は不満げに栄信を見返した。

 すると、栄信が笑みを消して真顔で語り始めた。

 「僧がこのような話で恐怖心を持つのは良くありません。生きていればその人に対し、死んでいればその魂に対して祈り、願うのです。御仏にその人、その魂の癒しを願い、取次ぎ、祈るのです。霊を怖がることは恥ずべきことで、例え悪霊あくりょう怨霊おんりょうと言えど正しく対処しなければいけません。そのためには結界けっかいを結び、調伏法ちょうぶくほうを身に付けるのも僧の修行と言えましょう」

 栄信は更に言った。「天安寺てんあんじにあって安穏あんのんな日々に安住あんじゅうすることなく、あなた方自らの力でその怨霊とやらを撃退するのが良いでしょう」栄信は簡単な結界の結び方と、調伏法を3人に教えた。淡戒は、何故栄信が密教みっきょう秘技ひぎを知っているのか不思議だったが、これくらいのことは仏性ぶっしょうが高くなった者には必ず伝授されるものだった。天安寺の僧の中で、調伏法を知るのは老僧、高僧と栄信など一部の僧のみだった。

 淡戒は天安寺に上がって以来、灯明番として栄信に付いていたがこのようなことはまったく知らなかったし、そもそも、そのようなことを伝授すると言うこと自体、怨霊や悪鬼悪霊の存在を肯定するものだと思うと、またさっきの薄気味悪さが蘇った。

 栄信は、3人と別れて自分の部屋に戻るまで、ずっと考えていた。『私に悪鬼悪霊や怨霊が分かるのだろうか?御仏の真の御姿が見えない私に、邪悪じゃあくなモノだけが見えると言うのだろうか?今3人に教えた調伏術は西院のお大師様直伝のものだが、敵の気配も感じられないだろう私に、その技が使える筈がないと思うが…』

 その時、素空が墓所で言った言葉を思い出していた。『あの時、素空様は何者かの気配に気付いていたのだ。素空様は不意を衝かれても敵に相対あいたいすることができるだろう。しかし、私は気付かぬうちに敵の手に落ちるのだろうか?』

 栄信は不安になった。この時ほど神仏の真の姿に与りたいと思ったことはなかった。『ああ、私は何と未熟だったのか!』栄信は肩を落として自室に戻った。

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