第13章 栄信の涙 その1

 鞍馬谷から楠材を運び入れて20日ほど経っていた。

 梅雨つゆの晴れ間に鍛冶場かじばを訪れた素空は、淡戒と弟子の栄至えいし胡仁こじんに仕事の進み具合を聞きに来た。淡戒自身は、弟子だ師匠だと言う意識がないどころか、3人揃って素空の弟子と言う思いだった。

 素空は鍛冶方のまとめ役として、淡戒に自立を期待していた。仏師方の仕事が進むに連れて、自立した鍛冶方の存在が必要だったからだ。栄至と胡仁は自分の師匠は淡戒1人と、決めていて素空との関係を、師匠を通して考えてくれているようだった。

 淡戒は、素空を心から尊敬し、自分が知っている以上のことを知っている素空を師として始めた鍛冶方から、素空が完全に手を引くことなど考えようもなかった。

 素空が2人の仕事振りを訊くと、2人とも覚えが早く、鎚打つちうちの要領もすぐに覚えて、今は大型の刃物を作っているとにこやかに答えた。

 素空は砂鉄さてつの在庫が気になったので、淡戒に尋ねた。淡戒が言うには、大物の刃物は十分作れそうだが、のみや切出しを作り始めると、すぐに底をつくことになると答えた。素空は、初夏の内に調達すをすませなくてはならないと思った。また、栄至と胡仁を仕事の合間に仏師方で彫りの手ほどきをしたいと告げた。

 淡戒は自分の経験からもその方が良いと思った。そして、制作中の手斧ちょうなができ次第そうすることを約束した。

 素空は、淡戒の答えを聴いて、穏やかな笑みを浮かべながら奥書院に帰って行った。

 素空は、奥書院で栄雪に話し掛けた。

 「秋になれば、彫りの作業で忙しく、道具の数も多く必要になって参りましょう。そろそろ淡戒様に自立してもらわなければ、冬までの粗彫あらぼり木組みができません…淡戒様に自立して頂くために、少しばかり意地悪な方法ではありますが、お話いたします…」

 そう言うと、ニッコリ笑って栄雪に耳打ちした。

 「これから砂鉄と玉鋼たまはがねをご注文願います。前回のように玉鋼は近江おうみの極上20貫(75kg)、砂鉄は上物を100貫(375kg)ほどでよろしいかと存じます。これは、ひそかに手配しておいて下さい。やがて、8月になって慌てて注文しに来る筈ですから、その時ちょっとばかりおきゅうを据えて頂ければよろしいかと存じます」

 栄雪は、すべてを承知した。「素空様も、お人が悪いですね」

 にこやかに言う栄雪に、素空が答えた。

 「栄雪様、淡戒様は遠慮深く、控え目なお方です。こうして突き放すことは、ご本人のためなのです。1人でやって行けないお方を、どうして突き放すことができるでしょうか。淡戒様に必要なのは、ハッキリとしたきっかけだけなのです」

 栄雪は大きく頷いて納得した。

 この年の梅雨はアッと言う間に明けてしまった。せみの声が人の思考を麻痺させるように鳴り響いた。

 棟材の木取りが終わり1間5尺(3.33m)ほどに詰められた棟材が2本切られ、作業小屋の中ほどに立てられた。木肌は磨き上げられ、白木の香りが漂っていた。

 この日、仏師方だけで起工式を行った。棟材に注連縄しめなわを巻き、四手しでを垂らしただけで神が宿ったような気がした。栄雪は、みそぎをして服を整え、何時になく引き締まった様子の仏師方を見詰めていた。栄雪は、神と仏の混在する天安寺が不思議なほど寛容だと思った。『素空様も違和感がないのだろうか?』栄雪は、蝉時雨せみしぐれの中でいよいよ始まるのだと言う思いを新たにした。

 起工式の後は、早速作業に取り掛かり、はりはしらを素空の構想通りに木取りし始めた。材料の繋ぎは、ほぞ臍穴ほぞあなくさびで止め栓をするやり方を採用し、繋いだ材料のかたまりを彫り進めようとした。完全な繋ぎは、材料を更に堅固にするのだった。

 素空が5枚の図面を開いて全員に披露した。この絵図を元に作り上げて行くのだった。5枚の絵図は代わる代わる手渡され、全員がひと回りして改めた。皆感動の面持ちで暫らく声がでなかった。

 「絵図には阿形尊と吽形尊を一緒いっしょに描いていますが、これから2手に分けて作業をして頂くことにいたします。阿形尊は、私と良円様が担当いたします。吽形尊は明智様と仁啓様、法垂様でお願いいたします。全体の形ができ上がりましたら、粗彫あらぼりに入ります。小物や土台を別にあつらえますので、粗彫りから中彫なかぼりの途中で組替くみかえをしたいと考えています。これから3月後みつきごと言うことになりますので、それまで粗彫りの作業を少しでも先に進めて下さい。皆様よろしくお願いいたします」

 鍛冶方では、小物、中物の制作中で、大物が5本残るばかりだった。栄雪は、素空の指示通り砂鉄と玉鋼の注文をすませておいたのだが、天安寺に運び込まれるのはまだ先のことだった。

 素空の予想通り、淡戒からの注文が未だにないことがいぶかられた。淡戒は毎日忙しく働き、弟子の面倒見も良く、互いによく馴染んで、息が合って来た。淡戒が先の心配をして、滞りなく仕事を進められれば、申し分ないのだが、目先のことから先に進まない癖があった。

 栄雪はここで口をだす訳に行かないと思い、様子だけを訊くことにした。

 「淡戒、仕事の進み具合はどうですか?栄至と胡仁は慣れましたか?」

 「はい、お2人とも鎚打ちの要領もすぐに身に付け、研ぎも上手にこなして、なかなか良い物ができ上がっています」淡戒が答えると、栄雪は遠回しに示唆を与えた。

 「それはよかった。仏師方がいよいよ仕事に掛かりました。鍛冶方も更に忙しくなることでしょう。万事に目配りして良く取りまとめて下さい」

 栄雪はもどかしく思いながら、さり気なく注意した。

 「はい、承知しました。私が鍛冶方に回り、栄雪様のお手伝いができなくなり申し訳なく思います」気の優しい淡戒が、自分が気にも留めていないことを気にしていることを初めて知った。

 「淡戒、そのような心配は無用です。皆の仕事はすべて素空様が良きにお計らい下さいます。私達はそれぞれに与えられた仕事を一生懸命果たすだけなのです。自分が果たすべき役割を振り返り、滞りのないようにすることは、素空様を煩わせないと言うことなのです」栄雪は自分の言葉が、淡戒に届いたのか心配しながら、鍛冶場から奥書院に戻って行った。

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