第12章 楠材の小屋

 作業小屋が完成した。その日は好く晴れて、桜の時期にはない緑の輝きがあった。

 宇土屋喜兵衛は鍛冶場かじばと作業小屋を、京と鞍馬谷との分かれ道にある広場の隅に建てた。京側に1町いっちょう(100m)ほど下ると新堂があり、楠材の搬入口に最も近く、鍛冶場からの万一の出火の時も、本山や新堂への延焼の心配はなかった。

 素空はこの場所が大いに気に入った。2つの小屋には寝泊まりできるように小部屋もあった。作業小屋は2分割され、左右同じ形で繋がっていた。これは、阿形あぎょう吽形うんぎょうの2体が並んで作られるように、宇土屋が考えてのことだった。2間先に楠材の置場おきばとして作った場所まで、しっかりした屋根と壁で一体になっていた。

 仏師方の全員が揃っていたが、やがて、興仁大師や松石達西院の僧と、瑞覚大師や栄信達東院の僧が揃い、総勢25名の僧達によって作業小屋の竣工式が催された。

 宇土屋喜兵衛は手馴れた様子で竣工式を仕切った。

 東山ひがしやまから神官しんかんをを呼び、神式での安全祈願が終わると、興仁大師が座主を務めて、仏式の安全祈願の読経が始まった。竣工式が終わると、素空は出席した僧達へのお礼に回った。暫らくして、宇土屋喜兵衛のところに来て挨拶すると、宇土屋喜兵衛はにこやかに笑って素空に言った。

 「素空様、いよいよですね。私は、永く大工をやっていますが、お寺の価値は、建物ではなく、御仏像にあると思っています。御本尊ごほんぞんもまだ決まってないそうですが、とりあえず守護神の建立が急務でしょう。どうか良いお仕事ができますよう願っています。ところで、材木の搬入の時は、うちで使っている馬2頭と荷車とそりをお貸しいたしますのでお使い下さい」宇土屋喜兵衛は、素空の守護神が気になっていたし、工事の無事を心から願った。

 素空が礼を言うと、宇土屋喜兵衛は満面の笑みを絶やさず、キッパリと言った。

 「宇土屋は天安寺のお抱え大工です。お寺のためなら、一肌ひとはだ二肌ふたはだも脱ぐ覚悟です。お気兼ね御無用に願います」宇土屋喜兵衛は気持ち良さそうに空を見上げた。

 それから2日後、鍛冶方の淡戒は、準備万端整ったことを素空に告げて今後の指示を仰いだ。素空は、手始めに切出きりだしを大中小に分けて5組作るよう頼むと、当面の相方として行信を付けた。既に、栄信には淡戒の助手を探してもらっているのだが、適任者はまだ見付かっていないようだった。

 作業小屋には明智、良円、仁啓が居て、彫の練習をしていたが、法垂は不在だった。素空は、皆に明日楠材の受け取りに出掛けることを告げ、更に、東院から10名、西院から2名の加勢を受けたことも伝えた。

 次の日、馬に荷車を引かせて、荷物が乗せられた。朝の勤めをすませ、弁当を持って出発し、蓑谷みのだにで弁当を開いた。猪沢ししざわの手前で斜面では使えない荷車を放し、馬に橇を付けて猪沢に下りた。猪沢から、卯之助の小屋までは、随分近く、小屋の場所を把握している今は、搬出経路もしっかりと打ち合わせていた。

 志賀孝衛門と奉公人、大工の棟梁市助とうりょういちすけ以下5名が加わり、既に佐助と縞蔵の小屋から取り出していた楠材は、2頭の馬に繋いだそりに乗せて峠道まで上げていた。素空は峠道を通る時、楠材が佐助と縞蔵の小屋の物だと分かっていた。

 卯之助の小屋の楠材を載せた4台の馬橇ばそりが市助の2頭と宇土屋の2頭で斜面を登って行った。素空は、志賀孝衛門と棟梁の市助に感謝した。

 馬橇が登って行くと、素空は新しい小屋の周りを掃除し始めた。その後、小屋に入ってふところから取り出した1体の観音菩薩を、囲炉裏いろりに近い壁際に安置し、この小屋に卯之助の祖父の魂が宿るよう心を込めて経を唱えた。

 やがて、志賀孝衛門と松石が小屋に入り、素空に話し掛けた。

 「素空様、段取り良く運び出せましたね。半時はんとき(1時間)ほどで峠道の荷車まで運べそうです」松石が言った。

 「志賀様が佐助様と縞蔵様の小屋から峠道まで運んで下さったお陰です。市助様のように木材運びが手馴れたお方がお力添えをして頂いたことは、大変ありがたく存じます。皆様のお陰でございます」素空は丁寧に感謝を伝えた。

 松石が、素空の背後の壁に目を止めて言った。「素空様、壁の観音様は、もしや素空様が祀られたのでしょうか?」

 「この観音様は、我が師玄空が志賀様に差し上げた観音菩薩を真似て彫りました。卯之助様の小屋にお爺様の魂が宿り、以前と変わりなくこの小屋を使って頂けるようにと思ってのことです」

 「おう、それは良くお気付きなされた。孝衛門殿、観音様はまことの御姿を映しています。卯之助殿にはどうぞよしなにお伝え下さい」

 松石は、にこやかに笑いながら小屋を出て行った。素空が続いて出て行った後、志賀孝衛門が何気なく観音菩薩を振り返った時、囲炉裏端の壁に祀った観音菩薩から金色の光が溢れだした。

 志賀孝衛門は、小屋の出口で息を呑み、ハッとして動けなくなった。光は煙が広がるように湧き立ち、小屋一杯に広がるとすぐに収まった。志賀孝衛門はこの小屋が観音菩薩によって守られたことを確信した。

 素空と松石は、志賀孝衛門に別れの挨拶をしたが、素空の言葉が終わらないうちに、松石がおどけた様子で話し掛けた。

 「孝衛門殿、新堂が完成した暁には招待いたしますので、落成式には是非ともおいで下され」素空も大きく頷き来年春頃に守護神が完成することを伝えた。

 卯之助の小屋には、志賀孝衛門と3人の小男が残され、何時までも素空達を見送った。「旦那様、今日もいつもとお変わりないことで…安心しています」小男があるじ軽口かるくちを言うと、主の志賀孝衛門もキッパリ言った。

 「六助や、もしも目の前に仏様が現れて、あのご一行のようにだんだんと小さくなって、山の中に消えて行くとしたら、お前は一体どこまでお見送りするかね?」

 六助は答えられなかった。主がいつも同じように、素空と言う僧に肩入れする姿を見て、軽くおとぼけを言ったつもりだったが、とんだしくじりをしてしまったものだ。

 「六助や、素空様は御仏が天界からお遣わしになったお方と思えて仕方がないのですよ。お前も近く接すればきっと分かる筈です。もっともっと信心しなされ」六助は、主の境地に近付くなど、自分には決してできないことだと思った。

 次の日、志賀孝衛門は卯之助を屋敷に呼んだ。

 「卯之助、素空様が新しい小屋に観音様をお祀り下さったのですよ。お前が、素空様と最初に会った時、お前の思い出を大切にするとおっしゃったのを覚えているかい?素空様はお忘れにならなかったのだね。お前の思いを深く受け入れて下さったのだよ。ありがたいことです」

 志賀孝衛門は、小屋の観音菩薩が家宝の観音菩薩と同じように、仏の心を映したものだと言わなかった。そうだと言うことは間違いなかったが、それが素空の心に適うことだと思えたからだった。

 次の日、卯之助は炭焼き小屋の戸を開けた。既に何度か通った小屋だったが、これまでになく妙に懐かしい気がした。小屋の中を見回すと、囲炉裏の傍の壁に木彫りの観音菩薩が祀られていた。

 卯之助は囲炉裏端いろりばたに座り観音菩薩を手に取るとジッと見た。粗彫りだったが仏の姿をハッキリ見ることができた。見れば見るほどその姿がハッキリと、クッキリと見えて来た。『不思議なこともあるものだ…』と思いながら、元の位置に戻すと、観音菩薩に向き直り、正座をして経を唱え始めた。

 目を閉じると祖父との思い出が眼前に広がり、経を唱えながら思い出に没頭して行った。やがて経が終わり、そこには涙に濡れた卯之助がいた。そして、観音菩薩をジッと見て溢れ出る涙を拭うことなく呆然とした。

 卯之助は、何者かが小屋の中にいるような気配を感じていた。小屋の中は静寂に包まれていたが、卯之助は懐かしい気配の中に心の安らぎを感じていた。

 この時、粗彫りの顔は、卯之助の目の前で、ツルッとした仕上げに変わった。不思議なことだったが、今の卯之助には素直に受け入れることができた。

 卯之助にとっては大切な観音菩薩だったが、素空が祀ったと同じところに戻すと、小屋の扉を静かに閉じた。

 鳳来山や鞍馬山に登る者は、善人ばかりではなく、貴重品を置くと何時の間にか盗まれることもあった。しかし、卯之助は、素空が彫った観音菩薩が盗まれることなどまったく考えなかった。この日から度々小屋を訪れたが、幸いにして1度も盗まれることはなかった。

 やがて、年が移り、卯之助の小屋の外観は風雨に晒されていたが、内部は白木の香りが残るほど真新しさを保っていた。

 その後、卯之助が大切にした観音菩薩は3度盗まれたが、いずれも次の日には元のように、卯之助の小屋に戻って来た。そして、盗人は手に大怪我をして、2度と不心得をすることはなかった。

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