松石の徳 その4

 陽が西に傾き、親戚を呼びに行った馬がうまやに戻って暫らくして、近在の親戚達が1人また1人と集まって来た。申の刻さるのこく(午後4時)にすべての親戚が揃い、法要が始まった。先に来ていた親戚は、素空が座主ざすを務めることを知って驚きを露わにした。

 志賀孝衛門が、一同に挨拶して、素空の言葉を披露した。その後、素空が孝衛門の縁者の名前を読み上げた。読経が始まってすぐに、先に来ていた親戚が、胸を突き動かされたような表情をし、あとから遣って来た親戚は、驚きと喜びの混ざった、何とも奇妙な顔をした。

 素空の読経は、すべての親戚の胸を打ち、皆はそれぞれの所縁ゆかりの人々を思うと心の中で鮮やかに蘇った。志賀孝衛門の目には涙が溢れ、思いの中に引き込まれていた。1本目の経には、所縁人がこの世に戻ったような、摩訶不思議な幻想を見せ、もの悲しいすすり泣きをさそった。

 やがて、2本目の経を唱え始めると、一同の心の中に光明が灯ったように涙が乾き、喜びの中で会話しているかのような表情になった。

 3本目の経は、親戚一同が名残りを惜しむような顔を見せ、現実の世界へと戻って来た。

 素空の読経は更に続いたが、3本目の経が終わる前には、志賀孝衛門を始め、親戚一同も普段の顔を取り戻し、経が終わると同時に全員が目を開いた。目の前には、素空と松石が座し、その先の仏壇には、観音菩薩が祀られていた。

 陽が沈んで暫らく後に法要の宴席が開かれたが、素空は奥の一間ひとまを借りて食事を摂った。松石は、親戚のほとんどと顔馴染みで、素空が宴席を避けたため、すべての親戚達の相手をした。松石は、志賀孝衛門と共に、親戚達の座を回り、挨拶をしたが、どこに行っても素空のことを尋ねられた。

 皆、口々に素空の読経に感動した様子だった。

 志賀一族は大津おおつの北側から、比良嶽ひらだけまでを支配した豪族の末裔まつえいで、4代前から小作の百姓を束ねる庄屋として栄えたが、完全に刀や槍を捨てたのは先代からだった。

 志賀孝衛門の屋敷は比良嶽の西の栗原くりはらにあり、志賀本家として一族の要になっていた。また、先代孝衛門の弟の先代市衛門いちえもんは大津の北にある志賀の郷しがのさとを住まいとし、本家の補佐役として信頼が厚かった。そして、泊りの15人はその志賀近辺からの親戚だった。

 志賀市衛門と言う名の、親戚の中でも長老株の男が、志賀孝衛門に言った。

 「孝衛門さん、お前さんがおっしゃる通りのお方でした。お招き頂いて本当に良かった」志賀市衛門は今夜も泊まることになっていた。

 のちに、志賀市衛門は、玄空と素空が手直しした仁王像におうぞうによって、命を救われることになるのだが、この時はまだ、知る由もないことだった。

 その夜、親戚の殆んどが帰って行った。次の間では、志賀市衛門はじめ残った遠方の親戚と、志賀孝衛門の家人達が、素空と松石の読経に続いて、就寝前の経を唱えた。

 経が終わり、素空が言った。

 「皆様、本日は様々な思いがあったことでしょう。心は何時になく乱れ、このままでは、平安な眠りに入れますまい。心穏やかになるまで黙想し、1日を振り返りましょう」暫らくして、素空が静かに語り掛けた。

 「さあ、皆様のお心に御仏を迎える準備ができました。心を無にして御仏の御慈悲を願い、心を安らかに保ちましょう」

 一同は、素空の言うように、心のあり様を仏の慈悲の中に沈め始めた。

 「お心が平安になりましたら、就寝の支度はすみました。安らかにお休み下さいませ」

 素空はそう言うと、松石と共に仏間に戻って行った。

 志賀孝衛門は仏間に付いて来ると、素空に1つの質問をした。

 「素空様の読経の間に多くの者が、亡くなったものを思い、出会った喜びを感じ、別れの中に心穏やかに現実の世界に戻ったと言っています。皆が一様に、どうしてそうなったのでしょうか?」

 素空が答えた。

 「それは、今日お集まりの方々が実に信心深いからです。経は御仏との会話に他なりません。会話にはその意味を知って、言葉を発することが必須です。意味も分からず経を唱えても何の意味もないのです。意味をしっかり理解した者の経には、御仏の御慈悲が施され、意味も知らずにただ口にしても何も変わることはないのです。つまり、私の経ではなく、皆様方の経がしっかりとしたものであったから、御仏の御慈悲を受けたのです。信仰を深くすると言うことは、御仏の御言葉みことば(経)、御教みおしえ(教義きょうぎ)を今より深く知ろうとすることなのです。経に引き込まれるのは、志賀の方々がすでに信心深いことの証なのです」

 次の朝、朝食の後に素空と松石が天安寺を目指して歩みだした。

 志賀孝衛門は、名残を惜しむようにいつまでも見送った。

 「旦那様、いつも遠くまでお見送りなさいますが、あのお坊様は本当にお偉いお方ですね」傍らで六助がしみじみと話し掛けた。

 「六助や、素空様のお経を聴いてどう思いましたか?」

 「はい、一番最初にお見送りした時の旦那様のお言葉をハッキリと覚えていますが、あのお言葉の意味が良く分かりました。昨日は思い掛けず、亡くなった二親ふたおやとも会うことができました。旦那様のお陰です。ありがとうございました」

 志賀孝衛門は、六助達奉公人にも、できるだけ法事に参加するよう伝えていた。

 「六助、それは良かったですね。お前がお経の意味を知っていたから、御仏の御慈悲を得たのです。これからも更に信心することです」そう言うと、素空の受け売りだったと大声で笑った。

 

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