松石の徳 その3

 食堂では既に数人の僧が箸をとっていたが、松石が入るとチラッと視線を向けて、また箸を進めた。松石はにこやかな顔を皆に向けたが、僧達は、松石に好意的でないことは明らかで、次々と集まる僧も好意的でない一瞥いちべつを投げては食事を摂った。その後も、同じような視線を向けたが、当の松石はにこやかな会釈で答えると、視線を元に戻した。僧のころもは東院と西院では異なり、食堂に西院の僧が居れば、誰もがすぐに分かり、よそよそしい態度をとるのだった。

 栄信は、鈍感を絵に描いたような、松石の姿にハッと気付いた。

 『御仏の光背を見ることができる者は、御仏に召され、その身を御仏に委ねた者と、御仏に愛された者。素空様や松石様は、御仏に愛されているのだ』

 「松石様、私は僧としての心のあり方に、今ハッキリと気付かされました。松石様のお陰です」

 牛蒡ごぼうを口にくわえながら、松石が答えた。「栄信、何を思って突然に礼を言いだすやら、私に分かるように話して下さい」

 「申し訳ありません。実は、東院の僧達が、松石様を見る眼が無礼で、私は少々腹が立っていたのですが、当の松石様は一向いっこうに気にするご様子がありませんでした。この時、松石様に光背が見え、私に見えなかった訳がハッキリと分かったのです」

 「栄信、私はあなたのように頭が良い訳ではないから、まだ解りません。どうか、もう少し分かり易く話して下さい」松石は、とぼけている訳ではなかった。栄信も、そのことはよく分かっていたので、更に語った。

 「松石様は、人のすべてが善人ばかりのようなお気持ちで、人に接していらっしゃいます。ところが、私は永い間灯明番をしていたせいで、灯明を絶やさぬようすべてに疑いの目を向けていたことに気付きました。夜中に悪戯いたずらされて消されはしまいか?灯油や芯を持ち出す者はいないか?疑いだすときりがありません。我知らず、心の素直さをなくしていました。本当に心清い者と、召された者にのみ光背は見えるのでしょう。そのことに気付かされたのは、松石様のお陰です」

 松石はやっと合点が行ったような、晴れやかな顔で栄信を慰めた。

 「栄信、あなたは素空様が感心されるほどのお方であるよ。さすがに、心の修正をご自分でやってお仕舞いになる。並みの者なら、気にも留めなかったでしょうに。あなたが、その目で御仏の光背を見る日がそう遠くないと私は信じています」

 2人はその後、黙して食事を続けた。

 次の朝、素空と松石は弁当を持って、鞍馬谷を目指して出発した。2人は、道々の道祖神や、石碑の前で立ち止まり、経を唱えた。

 1度通った道であり、2度目には何と速く進むことができることか。素空は歩くのが速かったが、今日は一段いちだんと速く歩いた。松石も幾度となく通った道であり、歩き慣れていて、素空に引けを取るようなことはなかった。2人は歩きながら経を唱え、あっと言う間に鞍馬谷に着いた。

 「いやはや、早く着きましたね。一休ひとやすみして弁当を頂きましょう」松石は、笑顔で素空に話し掛けた。素空は背負った荷物を降ろし、弁当の包みを松石に渡して、水筒に清水しみずを入れるために沢に下りて行った。

 鞍馬谷で休憩した後すぐに志賀家を目指して出発した。半時(1時間)が経った頃に、志賀孝衛門の白壁で囲まれた屋敷に到着した。庭の手入れをしていた六助と言う小男が来て、丁寧に母屋まで案内した。小男は3人いたが、1人は先に母屋に走り、もう1人は馬小屋に走って行った。

 志賀孝衛門は、素空と松石を見た瞬間、満面の笑みを浮かべながら駆け寄った。

 素空と松石は、いつものように客間に通され、早速、小屋の普請に付いて話を進めようとしたが、志賀孝衛門は、松石の言葉を遮ってにこやかに言った。

 「松石様、小屋の掛かりに付きましては、当家より天安寺に寄進させて頂きますようお願い申し上げます」

 志賀孝衛門は、素空へのお礼だと言い、小屋の掛かりのすべてを寄進する代わりに、今夕、親戚を招いて法要を行たいことを告げ、亡き親族の名前や思い出話などをした。素空は日帰りの予定だったが、志賀家の法要と宿泊に応じた。

 そして、志賀孝衛門をジッと見て、笑みを浮かべて言った。

 「志賀様のお申し入れはありがたくお受けいたします。今夜一晩お泊め願えれば、私達も助かります。では、早速仏間に入らせて頂きます」

 素空が座を移そうと腰を上げた時、志賀孝衛門が素早く制した。

 「素空様、本日は親戚一同を呼んでいまして、一時いっとき(2時間)もしますと皆揃うことでしょう。およそ50人ほどになりますもので、次のに仏壇をしつらえています。次の間には、泊り掛けの者が15人ほどいますが、先に素空様のお経を聞かせると、後から来る者が悋気りんきして騒動になりかねません。全員が揃ったところでお出まし下さいませんでしょうか?」

 松石は、尤もなことだと頷き、浮かした腰を元に戻した。しかし、素空はそのまま立ち上がり次の間に向かった。志賀孝衛門は一瞬唖然いっしゅんあぜんとしたが、仕方なく松石と共に、素空の後を追った。次の間は襖を開けるとすぐ隣の部屋だが、廊下を回って行った。勿論、素空はいきなりふすまを開ける無礼をすることはなかった。

 次の間の障子しょうじは開け放たれ、仏間から運ばれた位牌や仏像が壁の中央に据えられていた。仏壇には灯明が灯され、観音菩薩が炎に揺らいでいた。部屋の片隅に14、5人の親戚がいたが、素空を見て1つ頭を下げただけで、また、元のように話を続けた。

 続いて遣って来た松石を見て、丁寧に頭を下げ、話しをめて仏壇の方に向き直った。素空は先に座して声を出さずに経を唱えた。松石は小さいながら声を出して経を唱えた。孝衛門の前に素空と松石が並んで座ったが、松石の読経が小声だったので、親戚達はだんだん近寄って来た。

 素空は無言で3本の経を唱えると、客間に戻り、すずりで墨を磨り始めた。志賀家の法要をするために、孝衛門の縁者えんじゃの名の聞き取りをした。

 「両親と、祖父母そふぼ叔父叔母おじおば従兄弟いとこまで10数名にものぼり、いささか気が引けますが、それに加えて、ご先祖様の霊と、おフサの両親を入れて頂きたいのです」志賀孝衛門はすまなさそうな顔で素空が書くのを見ていたが、初めに言った親戚の名前をすべて記憶している素空の知力に驚嘆した。

 「志賀様、何も気にすることはありません。所縁人ゆかりびとが多いと言うことは、志賀様のお心の中でくも多くの方々が生きていると言うことです。法要の目的は、亡くなられた方々の霊を慰めるばかりではありません。せめて1日だけでも、ご両親や、親戚の方々が心の中で生き返って頂くためのものなのです」

 志賀孝衛門は、目を潤ませて素空に感謝した。

 「素空様にそう言って頂くことは本当にありがたいことだと感謝いたしますが、何よりも、法要に対する心のあり様をお教え頂きありがとうございました。早速、親戚一同に教えて進ぜようと思います」

 志賀孝衛門は、素空の年若いその姿の中に、この世に現れた仏のように思えてならなかった。

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